Ⅸ.宮廷図書館
美しい庭園の中を、オレは歩いていた。
左を向けば色とりどりのラーレ(チューリップ)の花が咲き誇り、奥にはブドウ園、噴水も見える。右を向けば大理石の神殿が、陽光を反射して神々しい輝きを放っている。邪気にまみれたオレの目では、眩し過ぎて直視できないほどだ。
東西
神殿では、今日も聖歌隊が歌の練習をしている。
甘美な歌声を背中で聞きながら、オレの足は、最近通い詰めているある場所へと向かっていた。
―――美女が一匹の悪魔を連れているとするならば、美少年は十七匹を連れている。
パルミュラ時代の著名な文筆家が、人々を惹きつけてやまない少年の魔力を、このように表現したという。
ならばジェロブは百万匹だな――と、オレは思ったものだった。ローマも滅ぼせそうだ。
そのジェロブは、やはりいつもの場所にいた。
宮廷図書館の、やや奥まった所にある机で、本を読んでいる。
何人たりとも侵すことまかりならぬ、ジェロブの特等席。ここが一番落ち着くらしい。
いつもはフワフワした感じなのに、静かに本を見つめるジェロブはどこか知的で……ああ、そんな目で見つめられたら、本もどうにかなってしまいそうだ。
などと考えていると、パチリと、ジェロブと目が合った。
手招きするジェロブ。宿主に従い、一斉においでおいでする、百万匹の悪魔。
オレはその魔力に吸い寄せられるようにして、ジェロブの隣に座った。
「ベテさん、また来たんだ」
「おう、最近ペルシス文学に目覚めてな、いろいろ読み漁っているのさ」
ほとんど読める本がなかったのは内緒だ。
「今日はなに読んでるんだ?」
「『英雄王ビルガメス』――古い英雄譚だよ」
羊皮紙で作られた本には、楔形の文字がびっしりと書き込まれていた。
これも古代語らしい。この図書館に所蔵されている本のほとんどがこれだ。
古代語と一口にいっても、いろいろと種類があって、時代や地域による違いも含めれば、キリがないそうだ。古代語魔法を専攻していないエミールは、一番使われる古代ペルシス語だけを学んだんだとか。
「学校の古代語の授業でも読んだことはあるんだけど、また久し振りに読んでみようかな~って思って。気付いたら、すっかりのめり込んじゃった。やっぱり面白いものは何度読んでも面白いよ」
そう言って、ジェロブはまた本に視線を戻した。
悲しいかな……今のジェロブにとっては、オレなんかよりも本の方が重要なのだ。いや、それでいい。ジェロブが幸せならオレは……
「古代語の勉強が好きなんだな」
「うん」
ああ、いい笑顔だ。
「古代語魔法ってね、言葉の勉強も大事なんだけど、その時代に生きた人たちの心を理解するのも、同じくらい大事なんだ。精霊たちとの心の距離が近ければ、いっぱい力を貸してもらえる。だから、昔から読み継がれてきた物語だったり、神話だったり、歴史の本とかを読むのが効果的だって言われているんだよ」
「ふむふむ……」
「こういう本を読みながらね、想像してみるんだ。昔の人たちが、なにを考えて、どんな生き方をしていたのか。どんな思いがあって、それが書かれたのかって」目を輝かせるジェロブは、まるで恋人の話でもしているかのようで――「今はない、遠い時代の人たちの生きた証が、ここには詰まってる。それを拾っていくのが、僕の楽しみなんだ」
精霊の気配を感じ取る力をオレは持たなかったが、その瞬間、古の精霊たちが一斉に喜び悶えたような気がした。よかったな、お前たち。ジェロブは見てくれているぞ。
やはりジェロブは古代語魔法の申し子なのだと、オレは思った。尊きジェロブのためならば、精霊どころか、神や悪魔ですら手を差し伸べるだろう。もちろん全力で。
「ひょっとして、ベテさんもなにか書いてる?」
「まあ一応、日記を」
「へぇ~、ちょっと読んでみたいなぁ~」
ぎくり――と、オレ。
「いやいや、とても人に見せられるものじゃないよ」
いろんな意味で。
ジェロブには刺激が強すぎるというか、なんというか……
あれ――というかこれは、決して世に出してはいけない読み物だ。読んだ人すべてを変態に変えてしまう、呪いの書なのだ。ああでも、どこぞの町に移されたオレの部下たちなら、読んでも問題ないぞ。あいつらはもう手遅れだからな。
どんな思いがあって、これを書いているのかって?
それはな……ジェロブ、君のことを書きたかったんだ。
ジェロブに出会うことがなければ、剣一筋だったオレが筆を取るなんてことは、一生なかっただろう。心揺さぶる出来事はいくつもあったが、それは他の人が書き残せばいい。ただ、ジェロブのことだけは、自分の言葉で書きたかった。オレだけの言葉でジェロブの魅力を讃えたかった。ただそれだけなんだ。まさか、こんな危ない読み物になるなんて……
どうにかこうにかジェロブの追及をかわしたオレは、『英雄王ビルガメス』のトラキヤ語版を借りてきて、一緒に読むことにした。
どれだけ時間が経っただろうか。やがて本を閉じたジェロブが、満足そうに伸びをしてから、聞いてきた。
「このあと時間ある?」
「いくらでもあるぞ」
「僕、このあと演習場に用事があるんだけど、ベテさんも来ない? エミールも来るよ」
「いいぞ。でも演習場で一体なにをするんだ?」
あそこは男顔負けの荒くれ女たちが荒くれる場所だ。平和の象徴たるジェロブとは無縁のように思えるのだが……荒ぶるジェロブでも見れるのだろうか。
「騎乗訓練だよ。
「ユーズ……?」
初めて聞く名だ。駱駝、霊羊の他にもまだ変な生き物がいるのか?
* * *
「はっや……! え、ヤバ……はや……!」
それ以外の言葉が、まるで出て来なかった。
演習場の端にある草地を、斑模様をした黄色い猫が、凄まじい速さで駆け抜けていく。細長い体を蛇のようにうねらせながら、風を切り裂く矢のように。
「ふふふ、すごいでしょ? あれが
と、ジェロブは言う。
だがなによりオレを驚愕させたのは、その狩猟豹の背に、人が――幼精が乗っていたことだ。
霊羊もあり得なかったが、こっちはもっとあり得ない。オレなんかが乗ったら、三秒と持たずに吹っ飛ばされてしまうだろう。いや、まず乗った瞬間に狩猟豹が潰れてしまうんじゃないか? 地面に足が届いてしまうのも……
「
「ジェロブもあれに乗れるのか?」
「うん、所属は王宮魔術師なんだけど、一応ね」
やはり、ジェロブはジェロブだった。
エミールがまだ来ていないということで、ジェロブは厩舎から自分の狩猟豹を連れてきて、先に練習を始めることにした。
「狩猟豹に乗る時は、心を通わせる魔法、体を軽くする魔法の二つを同時に使うんだ。自分の思った通りに動いてくれるだけでも、すごい乗りやすくなるでしょ。それから、乗り手の体重が軽くなれば、狩猟豹は本来の力を発揮できる」
乗り物のはずなのに乗っかってくる狩猟豹を、手で牽制しながら、ジェロブは言った。
「これは霊羊の場合も一緒で、馬の場合もあった方が好ましい。だから騎兵を目指す人は、最低限この二つだけは覚えておくんだ」
「剣に馬術に、魔法も覚えなきゃいけないのか……やっぱりとんでもない奴らなんだな、パルテミラの騎兵は」
「そんなに難しいことじゃないよ」と、ジェロブは続ける。「一つ目の魔法は、幼精と女精に、生まれつき備わった能力でもあるからね。『
頬をペロペロとなめられて、ジェロブが身を捩る。
やめろ、ジェロブから離れるんだ! この変態猫!
なかなか興味深い話をしているのに、どうも狩猟豹の方に気を取られてしまう。
ジェロブが撫で撫ですると、狩猟豹はやっと大人しくなった。
「ともかくこの魔法は、いろいろと応用が利いて本当に便利なんだ。精霊と語らうことでその力を借りるのが古代語魔法なんだけど、『
騎乗訓練そっちのけで、魔法の話に花を咲かせるジェロブ。
好きなんだな……本当に……
「こんなことだってできるんだよ」
「?」
楽しそうに話すジェロブに見とれて、オレは途中から話を聞いていなかった。
なんの話だったっけ……? そう思ったオレの耳元に――
『……す…………き…………』
「ウホッ」
つい、変な声が出てしまった。
そうか、これが『
ジェロブの口はまったく動いていなかったはずなのに、耳元で囁かれたような感覚があった。これは確かに……いい! 素晴らしい魔法だ!
「なにしてんの?」
不意に背後から響いてきた声に、オレは背筋を凍らせた。
恐る恐る振り向くと、そこには――
「うおおうっ!? エミール!?」
まるで浮気現場でも見られたかのような反応を示したオレに、エミールは怪訝そうな視線を投げつけた。それからつかつかと、走路の方へと向かう。その後ろには、ジェロブのより一回り大きい狩猟豹が従っている。
「早く練習始めようぜ。
「あ、そうだったね。早めに着いたのに、まだなんにもしてないや」
ジェロブもエミールのあとに続き、呆然と立ち尽くすオレに手招きした。
我に返ったオレは、ふと気になったことを聞いてみる。
「雷光祭ってなんだ?」
「雷光騎兵が速さを競い合うお祭りだよ」と、ジェロブ。
「ほう……! それは面白そうだな」
「うん、盛り上がるよ。毎年、十万を超える人が見に来るんだ。あ、そうそう……エミールがね、すごい速いんだよ。去年は二位だったし」
二位か……優勝者は、誰だったんだ……? ジェロブ? やりかねない……
気になるところだが、オレはとりあえずエミールを褒めまくることにした。大国パルテミラの中で二番目というのも、とてつもなくすごいことなのだ。
「やるじゃないかエミール! 今年は優勝狙えるんじゃないか?」
「ん、まあ……狙ってるよ」
その割には、覇気がない。
自信がないわけではなさそうだが、なにか不安事でもあるのだろうか……
答えはすぐに分かった。
「オレは今年で最後になるかもしれないから、絶対負けられないんだ」
ああ、そうか……
エミールは半幼精。他の幼精とは違って、大人の体になっていくんだ。
来年になればもう、狩猟豹に乗れる体格ではなくなっているのかもしれない。
生まれ立ちから来る歪みが、こんなところにも……
相変わらずエミールは素直じゃないようで、ずっとそっぽを向いていたが、その顔には「お前も見に来いよ。どうせ暇なんだろ」と書かれていた。
分かったよ。そんなに言うなら行ってやろうじゃないか。
お前の最後の晴れ舞台を見届けてやる。
二頭の狩猟豹が、西に傾きかかった太陽に向かって駆けてゆく。それぞれの背に少年を乗せて。
エミールの後ろ姿を、かつて少年だった自分と重ね合わせ、オレは考えた。
エミールのためになにができるだろうか。
かつてオレを破滅から救ってくれた、ソグナトゥス先生のような器量は、オレにはない。それでも、オレにしかできないことがあるはずだ。
オレはもう、エミールにとってかけがえのない存在だから……なあ、そうだろ? エミール。
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