Ⅷ.嘆きの丘‐①

 東の地平線が、かすかに明るみを帯び始めた。

 薄白い光が、燃え移るように空に広がり、天空に舞う鳥の群れ、地上で跳ねる鹿――じゃなくて、霊羊れいようの影を、くっきりと浮かび上がらせる。遠く南北に連なる山嶺は、万年雪に朝の光を反射させ、黄金色に煌いていた。

 アシュタウィアの夜明け――パルテミラの国旗にも描かれる絶景だ。

 事件から十一日後の朝、スレイナの葬儀が、アシュタウィア山脈の麓で執り行われた。

 女帝ゼノビアをはじめ、葬儀の参列者は二万人にも上った。道中ではさらにその何十倍もの人々が棺車を見送り、ローマ軍を破った英雄の早すぎる死を悼んだ。

 副葬品が添えられ、聖歌隊による鎮魂歌が歌われる中で、埋葬が始まる。

 その間、ヴェルダアースは生前のスレイナについて、こう語っていた。

「自分にも他人にも厳しい御方であった。何事に対しても高い理想を持ち、妥協は一切許さない。しかし一方で……誰よりも部下を大切にする将軍でもあった。だからどれだけ厳しくても、みなスレイナ将軍について行った。カルデアの勝利を部下たちと喜び合っていた姿が、忘れられぬ」

 それは、スレイナが人生の中で、最も輝かしい笑顔を見せた瞬間だったのかもしれない。

 一度だけ参加したスレイナの軍事演習は、スパルタクス出身のオレから見ても過酷なもので、終わる頃には人も鹿もヒーヒー言っていた。だが兵たちは互いに激励し合い、なんとか乗り切ったのだった。

 スレイナは部下を一流の戦士にするために苦労を惜しまず、部下たちはその期待に応えようと励んだ。その積み重ねが実ったのが、カルデアの完全勝利だったのだ。

「戦士の道を歩み始めた時から、私の憧れはスレイナ将軍。それはこれからも変わらない」

「……? スレイナって、何歳だったんだ?」

「四十三だ」

 なにぃ!? という言葉は心にしまったが、驚きは隠せない。

 オレの倍近くもあるじゃないか。二十代……下手をすれば十代の少女のようにすら見えたというのに。女精エレノアであるが故なのか――

 千年は生きてそうなヴェルダアースは、強い生命力を宿した目を、優しく細めた。

「ベテルギウス、お前には感謝している。暗殺者が捕まったからこそ、スレイナ将軍は安らかに眠ることができる。我らが魂の故郷である、このアシュタウィアの地で」

 スレイナを暗殺したのは、オレが先日捕まえた男でほぼ間違いないらしい。あれほどの暗殺者が、そう何人もいてたまるかって話だ。

 まだ口を閉ざしているようだが、身元もすぐに判明するだろう。男はエミールのことを、不完全な幼精エレノスと言ったが、彼自身もそうである可能性が高い。でなければ、男の姿でありながら古代語魔法を使えることの説明がつかない。

 エミールの方はというと、あれから特に落ち込んだ様子はない。ケロケロしている。

 気になるのは、やけに丸くなったな――というところだ。

 無理もない。あの暗殺者が不完全な幼精の成れの果てならば、エミールもいずれは男になる。今さら男がなんだのと噛み付く気にはなれないだろう。被虐趣味のオレとしては、少しさみしい気もするが……

 葬儀が終わると、オレはゼノビアに従って、すぐ近くの丘に向かった。

 丘と言っても、その姿は山のように荒々しく、頂上にわずかに緑がある他は、ほとんどが岩肌剥き出しの断崖となっていた。かつては都市が置かれていたようで、丘の周りには倒壊した建物の残骸が、無数に転がっていた。霊羊が、そこら中で跳ね回っていた。

 丘を登り切るとそこには、頂上いっぱいに広がる大きな建物の跡があった。

 屋根はすべて崩れ落ちていたが、巨大な柱の何本かは、天を突くように屹立きつりつしたままだ。

 中央にはいくつもの祭壇があり、残骸からして、ここがかつては壮麗な神殿であったことがうかがえる。

「ここはモーリヤの丘。またの名を嘆きの丘という」

 祭壇の方へ進みながら、ゼノビアは言った。

「千年以上も前から、我々の祖先は戦がある度に、ここである儀式を行っていたそうじゃ。ペルシスの時代には、その儀式のための都も築かれた。マルゲニアとの戦争で、すっかり破壊されてしまったがな」

「……なんの、儀式だったんですか?」

 問いかけたオレに、ゼノビアは穏やかな微笑みを返した。

「人身御供。国中から選び抜かれた美女と美少年が、生贄として捧げられた」

「!」

「モーリヤの丘は、戦死者のための天国に通じていると信じられていた。そして天国には美女美童が、戦死した男たちのために用意されていると。ゆえに先人たちは、戦の前になると、これから戦死するであろう戦士たちのために、美女美童をあらかじめ天国に送り出していたのじゃ」

「それでは、まさか、幼精エレノス女精エレノアというのは……」

 話を聞いて思い起こすのは、初めてジェロブに会った時の、あの宴の記憶。

 美女たちの笑顔であふれ、一生お目に掛かれないような、美しい少年たちが舞う様は、天国が天使や女神もろとも地上に降りてきたかのようで――

「気付いたようじゃな。そう。幼精は古の精霊の移し身であると、この前話したろう? その古の精霊というのがつまり、人身御供で犠牲となった少年たちの霊なのじゃ」

 思いもよらぬ告白に、オレは言葉を失う。

 やたらと美女、美少年が多い女精と幼精。まさかそんな悲しい背景があったとは……

「なに、そう辛気臭い顔をすることはない。移し身とは言っても、我々に前世の記憶があるわけではない。今の時代を楽しく生きておる。中には、過去にとらわれ生きる者もいるようだが……」

 ―――貴様らの、そういうところが許せないのだ! 我らの屈辱の日々も知らずに……

 そう叫んだ暗殺者の姿が、目に浮かぶ。それから、怯えたようなエミールの顔が。

 なぜだか分からない。が、ゼノビアが彼らのことを言っているような気がしたのだ。

「人身御供はパルミュラの時代にも行われていた。それほど昔のことでもないのじゃ。そしてそれは、パルテミラの建国とも深く関わっていて、その時の出来事が今も尾を引いている」

 オレはなにも言わず、ただゼノビアの言葉に耳を傾けていた。

「お主は遠い異国の出でありながら、パルテミラに忠誠を誓ってくれた。そろそろお主にも話しておくべきであろう。この国がどのようにして生まれ、今に至ったのかを」

 それからゼノビアは、祭壇の上にかかった砂を優しく払いのけ、静かに語り出したのだった。


 パルテミラを建国したのは、セミラミスという、パルミュラ有数の大貴族に生まれた女だった。

 幼い頃から美しい顔立ちで評判だったが、成長するにつれて、男勝りで血の気の多い性格が異端視されるようになった。しまいには、父から「一族の恥晒し」とまで言われて、相手にされなくなってしまったそうじゃ。

 だがセミラミスはこれ幸いとばかりに、一族に縛られない自由な生活を送っていたそうじゃ。気の合う仲間を集めては、毎日のように野を駆け回り、狩りや探検を楽しんでいた。

 ある日、そんな冷え込んだ家族関係を変える出来事があった。

 セミラミスに、弟ができたのじゃ。

 弟はアドニスと名付けられた。出産の最中で母が命を落としたが、アドニスはセミラミスによく懐き、セミラミスもまた、この年の離れた弟を溺愛するようになった。

 父も、亡き妻の代わりに子守りをする娘を見直し、我が子として接するようになった。

 ところで、セミラミスには気懸かりなことがあった。

 それは弟が、例の儀式の生贄に選ばれてしまわないかということじゃ。

 成長したアドニスは姉に似て美しく、変な髪型にしても、趣味の悪い服を着せても、誤魔化すことができないほどであった。素直で愛嬌のある性格もまた、周囲の評判を上げていた。

 このままではまずい――そう考えたセミラミスは、人身御供の儀式を、自分の代で終わらせてやろうと決意したのじゃ。

 それ以前から、この悪しき風習に反対する声は、少なからず上がっていた。

 パルミュラの時代、世の中は男を中心に回っていて、女たちは隷属的な生き方を強いられていた。人身御供はその最たる例だとして、特に女たちから強い反発を受けていたのじゃ。生贄になる女子供は、天国でも男のために生きなければならないのかと。

 セミラミスは、この流れに乗ることにした。

 まず、父にこのことを訴えた。大貴族の当主である父から王に進言してもらうことが、一番の近道だと考えたのじゃ。

 初めのうち、父は取り合わなかった。

 戦は国家の大事。命懸けで国を守る男たちのために、戦えない女子供が尽くすのは当然ではないかと、父は言うのじゃ。

 だがセミラミスが粘り強く説得すると、遂には折れて、ある約束を交わした。

 戦場で男と同等の働きをすれば、考えてやってもよいと。

 冷静に考えれば、それは曖昧な約束だった。戦場に出て男の苦労を知れば、諦めてくれるだろうと、父は考えていたのかもしれぬ。

 だが、セミラミスはその言葉を信じ、日々鍛錬に明け暮れるようになった。アドニスと過ごす時間をも削り、少女時代からの狩りの仲間や、噂を聞きつけた女たちと共に、戦の準備を進めていった。

 それから一年――とうとう初陣の日がやって来た。

 敵は勇猛さで知られる東方の異民族。パルミュラは十分な戦力で迎え撃ったが、奇襲を受けて劣勢に立たされ、父の部隊にも多くの戦死者が出た。

 そんな中で、女を中心としたセミラミスの隊は善く戦った。父の本隊から独立して動き回っては、味方にまとわりつく敵を騎射で追い散らした。その活躍もあって、パルミュラ軍は勢いを取り戻し、勝利を掴むことができたのじゃ。

 セミラミス活躍の噂は、パルミュラ全土に広まった。

 女が戦場において男以上の働きをしたという事実は、男中心の世の中に不満を抱く女たちに勇気を与え、気の早い者はセミラミスを解放者と呼んだ。

 ところが、父はこのことを快く思わなかったようじゃ。

 称賛される娘の陰で、彼は娘に助けられた間抜けな男と揶揄されるようになった。

 そんなこともあってか、「安全な所から弓を射かけていただけじゃないか」の一点張りで、娘を一人前の戦士として認めようとはしなかった。

 それでも、セミラミスは構わなかった。父が約束を守らなくとも、セミラミスの活躍と、彼女の望みは王の耳に入る。高まる民の声も無視できないだろう。あとは時間が解決してくれると思っていた。

 しかし二年待っても、望みが叶うことはなかった。

 そしてついに、恐れていた瞬間が訪れる。

 その年、パルミュラは大ローマ帝国との戦争に踏み切ることを決めた。大きな戦になるであろうことは誰の目にも明らかで、千年の伝統を誇る人身御供の儀式も、当然行われた。

 十二歳になっていたアドニスが、真っ先に生贄に選ばれた。

 セミラミスは、それを告げにやって来た神官に懇願した。代わりに自分を生贄にしてくれと。しかし選ばれたのはアドニスと言って聞かない。

 一つだけ、希望は残されていた。貴族の場合、選ばれた者の父が否と言えば、生贄を差し出さなくてもよいことになっていた。

 だが父は、アドニスを差し出した。

 貴重な一人息子を差し出せば、国のために私心を捨てた愛国者として称賛される。断れば、先の戦で傷付いた名声は地に堕ちる。父は前者を選んだのじゃ。

 儀式はモーリヤの丘で行われた。

 五百人にもなる生贄と、その親兄弟が、祭壇の前に集められた。

 儀式の直前になっても、アドニスは前向きだった。生贄に選ばれることは名誉なこととされていたからじゃ。

 が、セミラミスはそうじゃなかった。見知らぬ男たちのために、なぜ弟が死ななければならないのか。私の弟なのに……思い詰めた末に、言ってしまった。

 私たち、もう会えなくなるんだよ……?

 それまで平静を保っていたアドニスが、狂ったように泣き出した。

 姉を悲しませまいと、ずっと本当の気持ちを抑えていたのかもしれない。それがセミラミスの見た、弟の最後の姿だった。

 嫌だ嫌だと泣き叫ぶアドニスを、神官が連れて行った。

 父がセミラミスを叱った。

 これから天国に行く弟を泣かせるとは何事か! お前は最低な姉だ!

 祭壇に火が焚かれ、生贄が、生きたまま焼かれていった。

 泣き叫ぶ声は、もはや女のものなのか、子供のものなのかも分からぬ有様だった。それらは太鼓や笛の音で掻き消され、小さくなり、やがてなにも聞こえなくなった。

 セミラミスの心のすべてだったものが、灰と化した。

 残ったのは、どう足掻いても変わることのなかった国への怒り、憎しみ……

 この時、セミラミスは誓った。間違いだらけのこの国を、根底から覆さなければならない。どんな手を使ってでも――

 セミラミスには、すでに多くの味方がいた。彼女が弟のために戦っていたことは誰もが知るところで、彼女らに対する国の仕打ちは、多くの民衆の怒りを買っていた。

 そんなこととはつゆ知らず、王が有力な将軍と主力部隊を引き連れて、ローマとの戦いに明け暮れる中――革命が起きた。

 王都は蜂起した民衆によって瞬く間に占領された。

 それからセミラミスは、各都市の女たちに呼び掛けた。「抵抗の意思を示せ」と。

 男中心の社会で抑圧された女たちの解放――それが、この反乱の大義名分だった。女たちの中に燻っていた不満を、セミラミスは利用したのじゃ。

 パルミュラは建国当初から諸侯の力が強く、王の権勢に緩みがあれば、彼らは簡単に手のひらを返した。この時も、いくつかの都市がすぐにセミラミスになびいた。なびかなかった都市でも、反乱を支持する女たちが男に背を向け始め、やがて男たちも根負けし、降伏していった。

 こうしてセミラミスは、パルミュラ国軍の主力がローマから引き返すまでの間に、一大勢力を築くことに成功したのじゃ。

 そして決戦が、今のテシオンの南西――セルキヤの地で行われた。

 数は互角。兵の質ではパルミュラ軍が上回っていた。しかし大遠征から、なんの成果もなく引き返してきたパルミュラ軍の士気は低く、先陣を切った重騎兵が返り討ちに遭うと、一気に瓦解した。

 セミラミスの父は乱戦の中で戦死し、王は逃亡先の町で部下に殺された。

 その後、王位を狙ってセミラミスに挑む者もあったが、二年も経たないうちにパルミュラはほぼ平定された。パルテミラの時代の幕開けじゃ。

 女帝となったセミラミスは、人身御供の歴史を終わらせ、大義名分に掲げた通り、女たちが自由に生きるための改革を進めていった。

 だが、世の中が急速に移り変わる中で、また新たな問題も生まれた。

 これまでの間違った世の中を作ってきた、その元凶として、男たちが差別を受けるようになったのじゃ。自分勝手で欲深い、穢らわしい存在だと……

 男人禁制の都――テシオンができたことも、それに拍車を掛けた。

 元々は、パルミュラの暗殺者を締め出す名目でそうなったのだが、実際のところは女のための都じゃ。女だけがこの都の豊かさを享受し、男は地方に追いやられている。

 今、旧パルミュラ勢力を主導しているのは、パルミュラ王家の末裔だと言われている。

 彼らが掲げる大義名分はパルミュラの再興だが、このような世の中で差別を受けてきた男たちも、積極的に仲間にしているそうじゃ。

 歴史が、繰り返されようとしている――

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