Ⅲ.妖精たちの饗宴‐①
意識が朦朧とする中で、優しく囁きかけるような、どこか懐かしくも感じられる歌声が、かすかに聴こえてきた。
何重にも重なり合った、透き通るような綺麗な高音。
オレはその歌声に身を委ね、しばらくの間、自分がどこでなにをしていたのかすら忘れていた。
ああ、そういや……オレは死んだんだっけな。
じゃあこれは、天国から迎えに来た天使たちの歌声だ。
魂が、あるべき場所に還ろうとしている。聴いているうちに、そんな安らかな気分にさせられる。
オレの体がだんだん消えていく……透明になって消えていく……
残された仲間たちは、どうなったのだろうか。
あの状況じゃ、とても生き残れないだろう。
ごめんな……勝利に導くことができなくて……
そしてありがとな……こんなオレなんかについて来てくれて……一足先に、天国で待ってるぜ……
さあ天使たちよ、オレを連れて行ってくれ。
え? その前に懺悔もしておけだって?
それじゃあ、一つだけ。
ソグナトゥス先生。あなたの胸筋大魔王というあだ名は、オレが付けました。もう何年も前のことだけど、すみませんでした。
そうして、オレは優しい歌声に包まれながら、永遠の眠りへと落ちた……
オレを永遠の眠りから呼び覚ましたのは、天国にいるとは思えないような気だるさと、悪魔の揺り籠にでも乗せられたような、激しい揺れだった。
ここは……どこだ?
重い瞼を開けた時、最初に目に入ったのは、背中に大きなコブのある、変な顔の動物。
オレは手足を縛られた状態で、そのコブの上に積まれていた。
前の方でも、同じ動物が列をなして歩いている。
辺りは真っ暗闇だったが、ぼんやりとした青い光が、列を左右から照らしていた。
ふと、人の気配を感じ、上体を起こす。
「!」
そこにいたのは、オレが最後に戦った、あの髭の生えた女騎士だった。
だが今は、あの奇妙な兜はなく、その下の秀麗な顔が露わになっていた。
顔の半分を隠す、銀色の髪。夜空を切り裂くような鋭い眼からは、強い生命力と知性が感じられ、細長く整った口髭が貫録を添えている。
兜の上からでは、どんな顔なのか想像もつかなかったが……そうか、オレはこいつにやられたんだな。不思議と納得してしまった。
そしてこの状況……思い出したぞ。
この変な動物は確か、
戦はもうとっくに終わっていて、オレは捕虜として連れて行かれてるってところか。
「よう、ヴェルダアースと言ったな」オレは髭の騎士に話しかけてみた。「教えてくれないか? 戦はどうなったんだ? これはどこに行こうとしている?」
「………」
ヴェルダアースは馬にまたがったまま、行く手を見つめるばかりで、なにも言わない。
言葉は通じるはずなのだが……あの時も、トラキヤ語の誰何にはっきり答えていたし。
他にやることもなかったから、オレはとりあえず上体反らしを始めた。
手足を縛られた状態ではそれくらいしかできないが、いついかなる時でも肉体鍛錬を怠らないオレは、まさにスパルタ戦士の鏡だった。
怪訝そうな顔をして、ようやくヴェルダアースが口を開いたのは、五十も数えてからのことだった。
「なにをしている……?」
「なにって……背筋を鍛えているのさ」
「………」
「なあ、教えてくれよ。オレの部下はどうなった? それだけでも……」
「侵略者に教えてやる義理はない。おとなしくそこで寝ていろ」
ごもっともで……返す言葉もない。
本来なら、殺されていて当然の身だ。ローマ人だろうがスパルタクス人だろうが、相手にとってはただの侵略者。今はパルテミラ側の都合で生かされているに過ぎない。
「でも、名前は教えてくれたんだな」
「それが、戦場での礼儀だからな……同じく祖国のために命を賭す者としての。少なくとも、私はそう考えている」
なるほど、たいした紳士だ。
オレの名は聞いてくれなかったがな。オレ如きでは聞くに値しないってことか。
その時、列のはるか後方から、力強い女の声が響いてきた。
「追撃部隊よりご報告! 敵将クラウススを討ち取ったとの由! 繰り返す! 追撃部隊より、敵将クラウススを……」
各所から甲高い歓声が上がる。
そっか……やられちまったんだな。あのおっさん……
敵中に取り残されてしまったことを、オレは実感せずにはいられなかった。
「だ……そうだ。貴様も戦士の端くれなら、覚悟はできていよう。最期まで戦士らしく振る舞うことだ」
それだけ言って、ヴェルダアースは歓声の大きい方へ駆け去って行った。
* * *
「吐け! 貴様らの目的はなんだ!? なにゆえ我らが領土を侵す!?」
同日夜――パルテミラ帝国軍野営地の天幕の中で、オレはさっそく尋問を受けた。
ローマの内情なんて
オレはローマ人じゃない! 信じてくれ!
なんて言うのも癪だったから、オレは忠義面をして――
「見損なうな。このオレが、保身のために敵に情報を売り渡すような男に見えるか?」
なんて、ちょっとカッコイイことを言ってみた。
戦士は最期まで戦士らしく――そうだろ? ヴェルダアース。
なあ、そうだろ?
あいにくと言うか、この場にヴェルダアースはいない。
鞭を片手にオレの前に立っていたのは、金髪金眼の、腰のくびれが際立つ、絵に描いたような美女だった。
見覚えがある。確かこいつは、プブリウスの首をぶん投げた女だ。半端ない投擲力だったな。
オレが頑なに口を割らないことに、女はいら立っているようだった。
「そんな怖い顔すんなよ。せっかくの美人が台無しだぜ?」
機嫌を取ろうとしたつもりなのに、途端、女は顔を真っ赤にして、鞭で殴りつけてきた。
「いっ……!」
鎧の上からではあったが、腹を打たれた衝撃は重い。オレはその女の望むのとは違うものを、吐き出しそうになった。
くそ……なめんなよ! オレがスパルタクスの訓練生時代に、どれだけ体罰を受けてきたと思ってるんだ! 同期からは被虐趣味と言われたくらいだ。鞭なんてどうってことねぇ……むしろ血行がよくなって、疲れた体が喜ぶんじゃないか?
「それ以上くだらないことを言ってみろ。次は顔面にお見舞いしてやるぞ」
顔面か……それは痛……気持ちよさそうだ。
「聞き方を変えよう」落ち着きを取り戻した女は、その綺麗な髪をひと撫でしてから続けた。「旧パルミュラ王国時代からの宿敵同士とはいえ、我々と大ローマ帝国は百年もの間戦争をしなかった。それがなぜ、今になって戦を仕掛けてきたのだ? ローマでは今、なにが起こっている?」
言われてみれば、オレにも少しばかり引っ掛かることがあった。
ここ数年、大ローマ帝国が、領土的野心を強めていることについてだ。
実は今回のパルテミラ遠征に並行して、ローマはアルペン山脈の北方、西方地域の平定も進めている。プブリウスも元はそこに配属されていた。二年前には、トラキヤ系国家のダヌビアにも侵攻したらしい。
ヴェシモス山の大噴火から、まだ七年――廃墟と化した周辺地域には、魔獣が跋扈するようになったとも聞く。多方面に手を出す余裕など、ないように思われるのだが……
ともかく、ローマの内情なんて
「何度聞いても無駄だ。そんなに情報が欲しけりゃ、クラウススとかプブリウスにでも聞いてみるんだな」
そう、答えるしかなかった。
「あいつら女に弱いから、あんたくらいの美人に聞かれれば、うっかり口を開くかもな」
「減らず口を……!」
まただ。
おだててやったつもりなのに、その金髪美女は顔を真っ赤にして、鞭を振り上げた。
恐怖……否、歓喜の形に口を開くオレ。
天幕の出入り口が揺れ、鈴を鳴らしたのは、ちょうどその時のことだった。
入って来た者の姿を見て、金髪美女が驚きに目を見開いた。
「へ、陛下!? なぜここに……?」
陛下だと……!?
オレは食い入るように、そいつを見つめた。
肌は健康的な小麦色に焼け、それでいて目鼻立ちは彫刻のようにはっきりしている。目から力を感じるのは、まつ毛と眉毛が濃いからだろうか。
豪奢な絹服はよく似合っているが、どこか野性味を感じさせる、不思議な女だった。
一言で言うならば、百獣の女王といったところか。
こいつが、パルテミラの女帝……!
「ホッ、よい反応じゃ。スレイナよ」百獣の女王様は、悪戯っぽい笑みを、かしこまる臣下に向けた。「なに、決戦に臨む戦士たちをねぎらおうと思うてな、こっそり後を付けてきたのじゃ。どうじゃ? 驚いたろう?」
なんだ? この女帝様……?
オレと……波長が合いそうじゃないか!
波長が合わなそうな金髪美女――スレイナが反応に困っていると、女帝はさらに続けた。
「だが、驚かされたのは私の方じゃ。もう戦が終わっていたとはな。しかもほとんど犠牲を出さずに完勝とな」女帝は臣下を誇らしげに見つめた。「どうやら、私はまだそなたのことを見くびっていたようじゃ。まこと、妬ましいほどの戦ぶりよ」
「お褒めに預かり……? 光栄でございます!」
それから女帝は、芋虫のように寝転がるオレに目を向けた。
「ヴェルダアースが捕まえた敵の指揮官というのは、そやつのことか?」
「は! 今拷問にかけているところですが、なかなか口を割らないものでして」
「縄を解いてやれ」
早く打ちたそうに鞭を弄んでいたスレイナが、固まる。
「は? 今……なんと?」
「縄を解いて、自由にしてやれと言っておるのじゃ」女帝は繰り返した。「他の捕虜から聞いた。そやつはローマ人ではない。かつてローマの侵略を受けてその属州となった、スパルタクスの者じゃ。拷問してもなにも出ぬし、殺してもおいしくなかろう」
「し、しかし……こいつのせいで仲間が何人も殺されているのですよ!?」
「それはお互い様じゃ。見るべきは、なんのために戦ったかであろう」
なおも不満そうだったが、プブリウスの首をブン投げた女は、それで黙った。
「同情のつもりなら、やめておいた方がいいぜ」オレはスッと上体を起こして、代わりに反論してやった。「スパルタクスは今じゃ立派なローマの忠犬さ。今回の遠征に参加したのも、餌に釣られてのこと。同情の余地はない。犬死にする覚悟はできている」
結構真面目なことを言ったつもりなのに、突然、女帝は腹を抱えて笑い出した。
オレ……なんか変なこと言ったか?
言ったな。
「ククク……犬死にする覚悟か……それは覚悟と呼べるのか? 私には、ふさわしい死に場所を見失っているだけのように思えるのだが、違うかね? ベテルギウス」
「………」
「だが戦士の誇りまでは失っていないようじゃ」
女帝はまた口元をほころばせた。今度は嘲笑うものではなく、戦の女神の微笑みだった。
「お前は部下に、こう呼び掛けたそうだな。オレたちはローマのためではなく、スパルタクスのために死ぬと。勝敗が決しても、決して最後まで降伏することなく、祖国のために戦う姿は、まさに音に聞こえたスパルタ戦士のもの。見事じゃ」
オレはその称賛を、素直に受け止められなかった。
なにがスパルタクスのためだ……!
結局オレは、体のいい言葉で煽り立てて、部下を犬死にさせただけじゃないのか?
思い出したように自責の念に駆られるオレに、女帝はさらに語りかけた。
「どうじゃ? その気概、パルテミラのために振るってみる気はないか? ローマの犬としてではなく、かつてのスパルタクスと立場を同じくする、我々のもとで命を張る方がよかろう。少なくとも、お前たちの死に場所はここではないはずじゃ」
「!」
その言葉は、砂漠のように乾き切ったオレの心に深く沁み込んでいった。
そうだ。それがオレの本意だったはずだ。
憎きローマのもとで戦う屈辱を、この女帝はよく理解している。
「……分かった。考えてみよう」
曖昧な返答をしたオレに、女帝はまたフッと微笑んだ。それからまた口を開く。
「ああ、そうじゃ……面白い話を思い出した。お前が倒れたあと、残ったスパルタクス兵は怯むどころか、次々とヴェルダアースに挑みかかったそうじゃ。おかげで多くが捕虜になった。正確な数は知らぬが、ざっと五百人くらいは残っておろう。彼女に感謝するんじゃな」
「!?」
オレは耳を疑った。
ヴェルダアースと当たった時には、すでにオレの部隊は半数近くにまで減っていた。五百人と言ったら、そのほとんどじゃないか!
「さあて、私は宴の準備に戻るとするかね」天幕を出る前に、女帝は言った。「ベテルギウス、お前も来い。私はパルテミラの女帝――ゼノビア。今宵は楽しもうぞ」
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