第一章・第一節 欠落と空虚と――。

「ねぇ...もう、いいよね母さん......。

僕は......充分に頑張ったよね?」

一人の少年はダムから下を見下ろしながら、そう力無く呟く。

少年は名はトレーズ・光夜【トレーズ・こうや】。

彼は五年前に水害により祖母、父、妹を亡くし、トレーズは母である純菜【じゅんな】と二人で励まし合いながら生きてきた......。

孤独と悲しみを抱えながら――。

しかし、そんな辛うじて手元に残された失意の日々ですら、そう長くは続かなかった。

純菜がステージ3の膵臓癌と診断されたのである。


亡くなる前、純菜はトレーズに対して何度も...何度も詫び続けていた。

「一人にしてしまって、ご免なさい――。」と。

トレーズの母は自分の死期を悟っていたのだろう。

だから、何度も何度もトレーズに詫びた続けていたのだ。

「母さんは......母さんは何も悪く無いよ――。」

母である純菜がトレーズに謝る度に、トレーズはそう母親に向けて告げた。


その後、母である純菜は決まってトレーズに向けて「ありがとう、ありがとう」と涙を流しながらトレーズの手を力無く、握り締める。

だが、そんなか細くも悲しい日々ですらも、ある日突然、終わりを向かえた。

そう......純菜の病状が急変したのである。

病院から呼び出しを受けたトレーズは、祈るような思いで病室へとかけつけた。

しかし、そんな思いも虚しく、母である純菜は既に息絶え絶えの状態で、トレーズの方を見詰める。

そして、トレーズを見た直後、純菜はトレーズに囁くような声で言った。


「ごめんね......。」

純菜はそうトレーズに言い残し、息を引き取る。

その後、トレーズは叔父夫婦の元に引き取られた。

生きる為の理由や意味を喪失したトレーズ。

だが、奪われる人生は未だ終わってはいなかったのである。

その後、母の死によって残された保険金や財産の全ては、叔父夫婦に養育費として没収され、トレーズは全ての財産を奪われた――。


そして、トレーズは叔父夫婦やその子供達に、奴隷のように扱われ謂れのない迫害を受け、過酷なる日々を過ごす事となったのである。 

しかし、それは叔父夫婦の家に居る時に限った話ではなかった。

純粋な日本人ではないトレーズは学校においても浮いており、人と溶け込めないまま虐めの対象となっていたのである。

それでもトレーズは耐え続けた。

数々の苦しみと悲しみにより心は大きく欠落し、トレーズの内より喜びの感情が喪失しようとも――。


多くの欠落により、心の欠損に合わせてトレーズの体に唇の色素喪失という現象が生じても――。

ただただ、耐え続けた。

何故か?

答えは至って単純。

家族や母を失った痛みや苦しみに比べたら、それらの苦など問題にもならなかったからである。

そう......既にトレーズには、不幸に対する耐性が構築されていたのだ。


(唇から色素が抜け落ちてしまったな?

なるほど......心を構築する大部分が欠落すると、こうなるのか?)

母、純菜が亡くった後、トレーズは鏡の前で色素が抜け落ち真っ白になった自身の唇を、不思議そうに見詰める。

トレーズにとって、それはまるで他人事のように感じられるものだった。

想像を超えたショック受けた者が髪の毛が、真っ白になるという話があるが、これは恐らくそれに近いものなのだろう――。

自分が不幸なのは当たり前――。

トレーズはそう考え、何の不安や疑問も感じぬまま、その理不尽な現実を漠然と受け入れていった。


だが――。

彼に訪れる不幸はそれで終わりではなかったのである。

高校を卒業した日、叔父夫婦はトレーズに向けて無慈悲な一言を告げてきたのだ。

養育費分の義務は果たしたから、明日の朝までに家から出て行け――と。

そして、学生から終えて早々......トレーズは無一文のまま、叔父夫婦の家から追い出されたのである。

(これからどうする――?)

住む場所すら失ったトレーズは、悩みながらも数日、飲まず食わずの放浪生活を続け......。

気の良い、ホームレス達に助けられた。


ホームレス達との生活は、決して快適ではなかったが、トレーズはその生活の中に、何か懐かしいを温かさを感じていたのである。

しかし、そんな生活も数ヶ月後、突然終わりを告げた。

政府から立ち退き要請があり、皆散り散りとなってしまったのである。

再び帰る場所や家庭の温かさを失ったトレーズ。

そして、また一人となってしまったトレーズは目指す場所も定まらぬまま、再び歩き出す。

不幸なのは当たり前――。

だからトレーズは、こんな絶望的な状況の中にありながら死のうとは考えなかった。


何故そうしたのかといえば望まぬ死を遂げた母や家族にできる事が、大切な人達の死を無駄にしない事ぐらいしかなかったからである。

だが......そんな歪にして危うい心の芯など、決壊寸前のダムのように脆いもの......。

それは意外と些細な刺激で敢えなく崩壊するものだ。

そして、必然の如くトレーズにも、その瞬間が訪れる。

切っ掛けは本当に些細なものだった。

体を休めようと公園のベンチに腰を下ろした時の事である。

トレーズが虚ろな瞳で、辺りを眺めていると一人の少女が母親と遊んでいた。

その様子を何気なく見ていたトレーズだったが、不意にその二人の姿が今は亡き家族の姿とダブる......。


(母さん......サヤカ......?)

その瞬間、トレーズは自身の心の中にある懐かしさよりも、大切な者達を失い喪失した欠落部分を改めて、直視する事となった。

そして、その残酷にして無慈悲なる現実を突き付けられトレーズはもがき苦しむ。

僕は何の為に生きている――。

もう誰も居ないのに――?

共に歩む人や大切に思える人一人居ないのに――。


僕......僕は――。

誰の為に生きればいいんだ――?

自分を頼る者もなく、守るべき者もなく、大切に思える人も居ない。

住む場所やお金、今日を乗り切るパン一つすら無い......。

自分の手元には何も無いのだ......。


(こんな状態なのに、何で......僕は生きようと必死に足掻いているんだろう?)

トレーズは自分の現実を自覚する.........。

そして、次の瞬間......トレーズの内より生きる為の理由が崩壊した。

それよりどのぐらいの時間が経過したのだろうか――。

それはトレーズ自身にも分からなかったが、気が付いた時、トレーズは見知らぬダムの近くを歩いていた。

水......。

それは今のトレーズにとっての原点。

最初の喪失と欠落の切っ掛け――。

全ての発端であった。

大雨により発生した水害......それがトレーズから大切な人達を奪った原因......。

しかし、それ故なのか水辺に居る時は今は亡き、祖母や父、そして妹のサヤカの存在が身近に感じられた。


(婆ちゃん、父さん、母さん、サヤカ......僕なりに、一緒懸命頑張ってはみたけど、もう限界みたいだよ。

ご免ね、みんな......。)

トレーズは力無く何度も何度も呟くように家族達に詫び続け――。

そして、その直後、トレーズは水の濁音鳴り響く、水の底へと消えていった......。


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