傭兵と少女の話2

奴隷だった少女を連れて宿に帰った虎松がまずしたことは、少女を浴室へ突っ込んでこびりついた汚れと垢を流すことだった。

少女と同性の宿のスタッフに金を握らせて少女に入浴させるという手もあるのだが、残念なことに女性スタッフは買い出しに出ていて暫く戻らないと宿の主人に受付で言われ、おまけに宿の主人は少女が裸足で歩いた床に残る黒い足跡を見るなり目をひん剥いていた。少女から漂う臭いも少々気になるし、女性スタッフが戻るまでこのままにしているのも流石に宿の主人に申し訳なくなり、少女を脇に抱えて「掃除代」として小銭をいくらか受付に置いて借りている自室に引き上げてきた。

水浴びすら許されていなかったのだろう。自らの汚れと垢を洗って落とすという概念を知らない少女は浴室に押し込まれてもぼんやりと首を傾げるばかりで、虎松は深い溜息と共に頭を掻きつつも、仕方ないか、と覚悟を決めるしかなかった。素足になり、着ていた着流しの裾を帯上に挟み込み、腰に下げていた刀を外して下緒さげおを解き、たすき掛けに使用した。髪も邪魔にならないよう懐から取り出した髪紐で一つに括り、少女に向き直った。

「嬢ちゃん。悪いが、俺が今から言うことを一度で覚えてくれ。これから嬢ちゃん一人で毎日することだからな」

少女は不思議そうに虎松を見上げたが、コクリと頷いて意思を示した。

「まず、服を脱ぐ。脱いだらそれは……捨てるか。着替えは後で用意するから、とりあえずそれはゴミ箱にでも入れといてくれ。そこの木箱だ」

少女が体に巻き付けているそれは、到底服とは言えない代物だった。洗っても繕っても二度と着られないことだけが分かるそれは、少女には悪いがもう捨てるしかなかった。少女は言われたとおり、体に巻き付けていた襤褸切れ同然の薄汚い布を躊躇いもなく取り払い、ごみ箱へ入れて見せた。人の目の前で服を脱ぐことに嫌悪感を示すことなく、虎松の言った通りに素直に服を脱いで大人しくこちらを見上げる少女に心底驚いたが、顔に出さないように努めた。少女の正確な年齢は分からないが、恐らく十歳にも満たないだろう。自分が少女と同じくらいの年頃には人前で裸になることは嫌がったものだが、と己の過去と比較したものの、少女の今までの立場のことを考えれば抵抗感を抱かないのも仕方が無いのかもしれないとも思った。奴隷という立場の環境でどのようにして育てられたのか不明だが、今後はできる限り普通の子供と同じように育つよう面倒をみていくしかない。途方もない労力が掛かりそうな予感に溜息を零しつつも、不思議そうに見上げてくる少女の体に手早くバスタオルを巻きつけ、膝をついて少女と目線を合わせた。

「いいか嬢ちゃん。俺は男だ。嬢ちゃんは女。これは分かるか?」

問いかければ、少女はコクリと頷いた。

「女が男の前で裸になるのは特別な時だけだ。男の前で抵抗なく裸になるのは危ないことだと覚えておくように。今後は今みたいに大人しく脱がないこと」

赤い瞳を真っすぐに見つめながら言い聞かせるように告げると、少女は不思議そうに小首を傾げた。

「今は?」

「……今回は緊急処置だから目を瞑ってくれ。明日からは絶対ない」

虎松の言葉に少女はまたコクリと頷いた。頷いているが、恐らく虎松の言う「危ない」の意味をきちんと理解はしていないだろうということは少女の顔を見れば明らかだった。しかし、こればっかりは少女の心が一人の女として成長し、「何故危ないのか」を自ら悩んで学んでいくことに期待するしかない。故郷でそういった知識も一通り教えられてはいるが、年端もいかない子供とは言え、異性相手に教えるのは流石に気まずい。こういうことも後で宿の女性スタッフに頼むべきだろうか。真剣に検討を始めていると、少女が首を傾げた。

とりあえず、今はこの少女の汚れを落とすことが先決だと考え直し、浴室に取り付けられたシャワーヘッドを取ろうと立ち上がったところで、少女の細く白い肩に小さな擦り傷があることに気付いた。最近のものなのか、瘡蓋になっている。改めてタオルを体に巻いた少女の体を見下ろすと、よく見れば痩せた白い体のあちこちには擦り傷の痕と瘡蓋がある。数えだしたらキリが無いが、どれも小さいもので大きな傷は無く、打撲痕も無い。先ほど不覚にも少女の全身を見てしまった時も大きな傷は見られなかったので医者に見せる必要は無さそうだが、体を洗うには少々気をつけねばならないようだと頭の隅に留めて、シャワーヘッドを手にした。

「次に、シャワーでお湯を浴びる。このコックを捻れば温かいお湯が出る。お湯が熱い時はコックの下にあるこのツマミを左に回せば温度が下がる。冷たいときは右に回す。お湯を止めたいときは最初に捻った時と逆に捻る」

目の前でシャワーからお湯を出し、温度調節も実演して見せてから少女にシャワーを渡すと、同じように操作した。とりあえず操作方法については理解したようだ。

それを確認してからシャワーを少女から受け取り、少し熱めのお湯の設定にして少女の手にお湯を掛けて様子を見た。

「今からこのお湯を頭から掛けるが、熱すぎるか?」

問いかけると、少女は一拍を置いてから横に首を振った。お湯を浴びた手も赤く火照った様子もない。どうやら丁度いい塩梅のお湯加減らしい。それをしっかりと確認してから、「目を閉じておいたほうがいいぞ」と一声かけてからそっと少女の頭をシャワーで濡らした。汚れや溜まりに溜まった垢でお湯がなかなか染み込まない白髪の髪を手櫛で梳き、お湯に馴染ませながら一定時間少女の体を温めていると、お湯で流しているだけなのに排水口に流れていくお湯がうっすらと墨色に染まっているので口元が引き攣りかけた。入浴の概念はともかく水浴びすら知らなかったので仕方ないとは思うのだが、これはどうやら、入念に少女を洗う必要があるようだ。どうにか髪にお湯が染み込んだのを手櫛で髪を梳いて確認し、シャワーのお湯を止めた。浴室の隅にある容器から洗髪剤を手に取り、少女の髪へ馴染ませ、揉み洗う。本来なら洗髪剤と共に髪を揉むだけで泡はたつのだが、やはりというか、全く泡立たない。少女の白髪の長さは腰まである。少女の髪がシャンプーで泡立つようになるまでかかる時間を想像して思わず口元が引き攣った。

「あー……嬢ちゃん。その隅にある右側の容器、それの上の部分を上から押すと液体がでるからそれを手で掬い取って自分の髪を洗ってくれ。両手いっぱいに出していい。俺の手だけじゃ足りない」

少女は頷いて言葉に従った。洗髪剤を大量に手にとった少女は虎松の髪を洗う手つきを見様見真似でぎこちなく洗っていく。多少泡立ってきたが、それでも圧倒的に泡が足りない。とりあえず髪に馴染ませた洗髪剤だけでもと少女と二人掛かりで頭皮も含めて髪を揉み洗うこと二十分後、シャワーで洗髪剤を流した。排水口に流れていくお湯が恐ろしい色になっているのは言うまでもない。今度は体を洗うスポンジを手に取り、念のためこれでもかと石鹸をよく擦ってスポンジを泡塗れにしてから少女の首回りから腕にかけて、瘡蓋を傷つけないように丁寧に擦った。泡立てた真っ白な泡があっという間に灰色になり、何度かスポンジごと少女にシャワーのお湯をかけて汚れを落とした。そうして何度かスポンジで石鹸を擦って少女の首周りから肩、腕を一通り洗い、洗い流した泡が本来の真っ白な姿のまま排水口に流れていくのを確認してから、スポンジを少女に手渡した。

「こんな感じで後は自力で自分の体を洗ってくれ。タオルの下もな。瘡蓋を傷つけないように気を付けてな。背中に手は……回るな。体中の汚れをこうやって洗って落とすこと。顔も石鹸で洗っておくこと。目に泡が入らないように気を付けろ。染みるぞ。泡が白くなるまでしっかりと洗ってから浴室を出るんだ。以上が嬢ちゃんの覚えることで、これから毎日やることだ。覚えたか?」

少女はコクリと頷いた。それを見たら肩の荷が下りた気がして、ホッと吐息が零れた直後、少女が何の躊躇いもなくタオルを取り外そうとしたので素早く踵を返して浴室から出た。浴室から出ると既に一仕事終えた気分になったが、今度は少女が自分の体を洗っている間に少女に着せる服を用意しておかなければいけない。入浴は暫く時間が掛かるだろうから、その間に外へ少女の服を見繕いに出掛けることも考えたが、少女を宿に一人残して買い物に出かけるには、この辺りの治安は少々心許ない。

脱衣室で濡れた腕や足元をタオルで拭って襷掛けを解き、帯上に挟んでいた裾も直してブーツも履いて部屋に戻るなり、クローゼットを開けて少女が着られそうな服を探した。クローゼットにあるのは普段着ている着流し数着と冬に着流しの上から羽織る外套と、仕事の時に履く袴と寝間着ぐらいなものだった。着流しは少女に大きすぎる為、着替えの服に適しているとは言い難い。袴も同様の理由で選択肢から外した。ならば、と次に視線を移した先にあったのは、寝間着代わりに使用している灰色の襟無しシャツだった。虎松が着用しても腰より長い丈のサイズのそのシャツならば、少女にとってはワンピース代わりになるだろう。下半身の肌着は、仕方ないが虎松のものを履いてもらうしかない。靴は、少女の服を買う時に併せて見繕うのがいいだろう。それまでは少女を抱えて移動するしかない。そこまで考えて、何かが足りない気がした。何か大事なことを忘れている、そんな漠然とした予感だ。しかし、いったい何を忘れているのか全く出てこない。今の少女に必要なものは着替え以外にあっただろうか。暫く悩んだが、全く思いつかなかった。それなのに予感めいた「何かを忘れている」という引っ掛かりだけが心にしこりを残しているのだから質が悪い。抜群に記憶力が良いという訳でもないが、割と物忘れはしない性格でもあるのでこういうことは滅多に珍しいのだが。しかし、思い出せない事にはどうしようもない。必要だと思ったときにきっと思い出すだろう。そう楽観的に判断して思い出そうとすることを諦め、着替えを用意し、脱衣室の籠の中へ置いてシャワーの音が響く浴室の扉をノックした。

「嬢ちゃん。着替えを籠の中に置いておくから、浴室から上がったら体をタオルで拭いてからそれに着替えて部屋に来てくれ」

返事の代わりなのか、コン、と浴室の扉がノックされた。少女が襟無しシャツを正しく着られますようにと祈りながら脱衣室を後にし、襷掛けに使用していた下緒さげおを刀に巻きなおしたところで、髪を纏めたままだったことを思い出して髪紐を解いた。手の中にある赤色のそれは、故郷から持ってきて長く使っているものだ。少女の瞳と似たような色の髪紐に少女の髪の長さを思い出して、髪紐も必要かと思ったところで、脱衣室の扉が開く音がした。もう出たのか、とそちらに視線を移して、視界に入った白に目を見開いた。そこにいたのは、灰色の襟無しシャツを正しく着られた少女だ。虎松の思った通り、襟無しシャツは少女にとってワンピースのような丈の長さになっている。だが、虎松が目を見開いた理由は他にある。少女のだ。浴室に突っ込む前の髪色も白と言える色をしていたが、汚れや垢を落とした後のその髪は驚くほど純白だった。肌の色も抜けるように白く、血とは異なる鮮やかな瞳の赤色が際立って見えるほどだ。まるで、雪景色の中に咲く椿のような。遠い過去の記憶、何時ぞやに見た故郷の屋敷の庭の、懐かしい景観を思い出させる純白と鮮やかな赤が織り成すその美しい色の対比を、少女が不思議そうに首を傾げて見返すまで呆然と見入ってしまっていた。

「……あ。すまない。ちゃんと着替えられたんだな」

少女の「どうしたの?」と問いかけるような眼差しを受けて、漸く我に返った。らしくもなくぼうっとしていたことに驚きつつ、目の前までやってきた少女を見下ろした。

「肌着も着たか?……見せなくていい。下ろしなさい。今後は何があっても服を捲るんじゃない。いいな。これから嬢ちゃんの服と靴を見繕いに市場へ行く。嬢ちゃんは靴が無いから俺が抱っこするが、構わないか?」

少女はこっくりと頷いた。先ほどから虎松の言うことを素直に聞く少女に、少女と同じ年頃だった時の自分の天邪鬼さを思い出して苦笑いしそうになった。比較対象となる大人しい人物がいた為、よく比較されては大人に怒られたものだった。比較対象となった人物にはよく笑われた。「せっかく要領がいいんだから、もっと人の言うことを聞けばいいのに」と。少女を助けようと思った後押しにもなった同じ瞳の色の、そっくりな目元の持ち主に。そんなことをふと思い出して、笑みが零れた。仄かな笑みを浮かべた虎松を不思議そうに見上げる少女の頭を軽く撫で、少女を抱っこした。少女のあまりの軽さに驚いたものの、抱っこして連れて歩くには都合がいい為、特に何も言わなかった。飯なら、後でいくらでも食わせればいい。左腕の上に少女を座らせるようにして抱え、空いた右腕で刀を帯に吊るした。

「さて、行くとするか」

自分よりも少し目線の高くなった赤い瞳を見上げて話しかけると、少女は頷いた。


少女を抱っこして連れて歩いているとこの国で滅多に感じないはずの視線を度々感じた。まぁ、確かに少女は人の視線を集める容姿をしているので仕方ないとは思うのだが。気にしていないつもりなのだが、ついつい腰の刀の柄に触れてしまうのでこれはもはや癖に近い。

「穴蔵」の買い出しに出掛けていたらしい顔見知りの店員と遭遇した時には、目が零れ落ちるのではないかとこちらが心配になるくらい目を見開かれた。

「トラマツお前、いつの間に」

「何か盛大に勘違いされてるから一応言っておくぞ。俺の子供でもないし隠し子でもないしましてやそういう性癖でも趣味でもないからな。この嬢ちゃんは拾った」

「拾っ、そのお嬢ちゃんは犬か何かか」

呆れた視線を向けられても「拾った」ことは事実なので反論のしようがない。犬か何かかと思ったつもりは無いが、拾ったのだから少女が一人で生きていけるようになるまでは面倒をみなければいけないとは思っているが。そう思っていることを告げても呆れた視線を向けられそうだったので口にするのはやめて目を逸らしておくことにした。

そんな態度から何かを悟ったのか、店員が大きな溜息を吐いた後、視線が合ったらしい少女に笑みを向けた。

「こんにちはお嬢ちゃん。お名前何てぇの?」

店員のその言葉を聞いた瞬間、虎松の背に衝撃が走った。先ほど宿で「何かを忘れている気がする」という漠然とした予感の正体が漸く分かった。咄嗟に少女を見ると、少女も虎松を見て不思議そうに首を傾げた。

「あー、そうか、それだ。忘れてた」

「なんだよトラマツ」

「いや、そういやこの嬢ちゃんに名前聞くの忘れてたなと思って」

「お前な……」

「そんな目で見るな。嬢ちゃん呼びで嬢ちゃんが反応するからうっかりしてたんだ」

「お前偶にそういうことあるよな……それで、お嬢ちゃん、お名前は?」

店員に再び声を掛けられた少女は一瞬俯き、直ぐに頭を横に振った。どうやら名前は無いらしい。それを理解したらしい店員と視線が合った。

「トラマツ、お前この子どこで拾った」

「ん?お前んとこの店の近く」

「はぁ……?店の近くったって、あそこ別に浮浪児がいるようなスラム街じゃ、あ、あぁ!?お前まさか!」

適当に答えた虎松の言葉で全てを理解したらしい店員は頭を抱えて唸り声を上げた。

「嘘だろ……あの奴隷商人のところの商品かよ」

店員の「商品」という言葉が気になったので刀の柄で店員の腰を小突いた。

「商品言うなって。こいつはもう自由の身だ」

「いて!?そりゃ自由だろうよお前が解放したんだからな!まぁ、アレクの旦那も荷馬車売り飛ばして満足したらしいからいいけどよ……暫くアレクの旦那のギルド連中に近づくのはやめとけよ?あの人まだ奴隷商人のこと許してねぇんだから。誰かが商ひ、分かったよ、睨むなって……そのお嬢ちゃんの顔を覚えてる奴がいるかもしれねぇから、ほんと気をつけろよ」

店員が辺りを窺うように素早く周りを見渡した。つられて辺りに視線を滑らせて気配を探りながら、少女を抱えなおした。害を含んだ視線は感じない。感じるとすれば、少女に向けられているであろう物珍しそうな視線だけだ。それをしっかり確認しながら口を開いた。

「そう言われてもな。あいつら結構この辺りでも見かけるし……まぁ、大丈夫だろ」

「お前のそのお気楽思考どこで育ったわけ?」

「隠の国」

「うるせぇバカ!」

店員から頭頂に鋭いをしばきを受けて思わず睨んでしまったが、そんなことで怯むような人間ではない。怯むどころか、再び頭を抱えて独り言をブツブツと呟いている。

「あーもー……奴隷商人の報酬未払いの次はこれとは……久しぶりに買い出しに出たらこれかよ……あぁぁああもぉぉおおお……仕方ねぇ。おいトラマツ、この仕事お前にやる。本当は違うやつに譲る予定の奴だったけどこの際仕方ねぇ」

店員はそう言うなりポケットから一枚の紙きれを取り出して虎松の手に押し付けた。

中身を素早く確認すると、それは砂の国からの傭兵募集の依頼だった。内容を見る限り、傭兵業というよりは用心棒みたいなものだったが。国ではなく個人からの依頼だが、報酬金も悪くない。

「いいのか?」

「あぁ。奴隷商人を俺の代わりにボコったらに仕事やるって約束しただろ。お前戻ってこねぇからいらねぇのかと思ってたけど、そういう事に巻き込まれてたんなら仕方ねぇ」

「巻き込まれたつもりはねぇな」

「そうだなお前の場合は自ら首突っ込んでいったっぽいもんなお前そういうところだぞほんと!」

再び頭頂に鋭いしばきが走った。今度は先ほどよりも痛い。ジト目で店員を見つめる虎松の頭を少女が労わるようにそっと撫でた。後で少女に屋台の揚げドーナッツを買ってあげようと、密かに決めた虎松の心情を知る由もない店員は眉を八の字にして口を開いた。

「本当は違う仕事にしようかと思ってたんだが、店にある依頼書の中で暫く遠くの国に行けそうな依頼はそれだけだからな」

店員は溜息と共にそう言った。

鉄の国から砂の国迄、荷馬車を使っても行きだけで二週間は掛かる。任務の内容は砂の国で1週間依頼主の護衛をすること。この依頼主の指定した契約期間ならば、ちょうど明日にでも鉄の国を立てば間に合う。依頼を無事に終えたとして、この鉄の国に戻ってくるまで最速で一か月はかかる計算だ。

確かに、それくらいの時間があればアレク達ギルドの連中の中に少女の顔を知っている奴がいたとしても、戻ってくる頃には忘れているだろう。暗に少女を連れて暫く姿を眩ませておけと言っている店員は、口では何だかんだ言いつつも虎松よりも少女のことを心配しているのだ。

虎松の口元に悪戯っ子のような笑みが浮かんだ。

「なるほどな。期間も報酬もこれだけあれば大丈夫だろうよ。悪いな、面倒ごとに付き合わせて」

「別にいいさ。俺が奴隷商人ボコってこいって言ったのが事の始まりみたいなもんだしな」

店員は苦笑して、それから状況が掴めていないであろう少女にしっかりと視線を合わせて、純白の頭を軽く叩くように撫でた。珍しく目元を緩ませる店員の顔は、虎松より少女の保護者らしく見えるほど慈愛に満ちたものだった。案外子供が好きな奴なのかもしれない。

「お嬢ちゃん、いい奴に拾われたな。トラマツは雑だが面倒見好いから、不安な事や心配なことがあったら遠慮なく甘えておけよ。一人立ちするまでしっかりトラマツを利用してやれ」

店員の口から飛び出した予想もしない言葉に目を見張ったが、鉄の国の国民らしい物言いに思わず苦笑した。恐らく褒められている。少女は言われたことを理解したのか、コクリと頷いている。そんな少女を抱えなおして、こちらに視線を移す少女に頷いてみせた。

「まぁ、そういうこった。何かあったら言ってくれ。俺にできることなら対処する」

「特に、危ない奴に狙われてる時は役に立つぞトラマツは。何せ、剣の腕は一流だ」

さり気無く失礼な物言いをした店員の腰に刀の柄をお見舞いすると、店員は腰を抑えて文句を言いながら離れていった。どうやら買い出しに戻るらしい。店員の姿を見送っていると、少女が口を開いた。

「あの」

恐らく呼びかけているつもりだろうその言葉に、少女へ視線を移す。そういや少女に名乗っていなかったな、と今更思ったのだが、視界に映った少女の赤い瞳を見たら直ぐにどうでも良くなった。

「ありがとう」

ポツリと、辺りの喧騒に巻き込まれてしまいそうな声。それでもしっかりと少女の声は虎松の耳に届き、突然のその言葉に目を瞬かせた。何に対しての謝礼なのか全く見当もつかなかった為、首を傾げた。

「あー……どういたしまして?」

とりあえずそう言っておくと少女は満足したのか、辺りの喧騒に視線を向けた。どうやらこの国の喧騒がお気に召しているらしい。表情はずっと無に近いが、喧騒を眺める赤い瞳はキラキラと輝いていた。奴隷商人のあの荷馬車から虎松へ視線を向けていた時も、こんな風に見ていたのだろうか。そう思うと腹の底が擽られているような、こそばゆい気分になって少女の頭を人差し指で小突いた。

「この国ではあんまり人を見つめるなって言ったろ、お嬢ちゃん」

「うん。眺めてるだけ」

「そうか」

少女を抱え、歩き出す。当初の目的通り、少女の服と靴を見繕わねばならない。それと、暫くの長旅に使う少女の旅道具も一通り揃えねば。砂の国は灼熱の太陽と乾いた砂埃が厄介だが、地下遺跡の発掘が盛んなお蔭で外部からの人の流れも多く、見るからに他国の者と分かる容姿の虎松と少女を上手く隠してくれるだろう。木を隠すなら森の中。故郷のそんな諺が頭に過った。

「嬢ちゃん、服と靴、どっちから見たい?」

虎松が少女に声を掛ける。虎松はつい先程、店員が少女に向けた柔らかな笑顔を見て店員の方がよっぽど少女の保護者らしいと思ったが、少女を見つめる柔らかな眼差しをする虎松の顔もまた、少女の保護者に相応しい顔になっていることを、少女の赤い瞳だけが見ていた。




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