プロローグ

僅かな月明かりが降り注ぐ夜。唯一の光源である月明かりを頼りにしながら、鬱蒼と生い茂る暗い森の中で、君は疲弊して棒のようになった足を懸命に動かして歩いている。腰に下げている親の形見である一振りの刀と、故郷を飛び出した時より中身が多少減っている筈の小さな背負い袋が昼間の時よりも重さを増しているように感じて、思わず君は口元に歪んだ笑みを浮かべた。それは疲弊している己に対する情けなさから込み上げてくる嘲笑と言ってもいいかもしれない。故郷でそれなりに忍耐と体力と気力を鍛えていたつもりだが、今やそのどれもが底を突こうとしている。

日が落ちて既に数時間は経過しており、普通の旅人ならばそろそろ野宿する場所の吟味が始まっていなければいけない時間帯だが、この森で野宿するのは賢明ではないことを君は知っている。この森に生息する魔物は夜でも活発に活動し、好戦的で凶暴な種が多いという話を前日泊まった宿屋の主人から聞いていたからだ。宿屋の主人は森を抜けると言う君を心配して知人の荷馬車に乗れるよう話をつけようと申し出てくれたが、手持ちの金が心許なく、また魔物に襲われても撃退できる自信があった君はそれを丁重に断った。魔物の毛皮や歯は魔具の素となることから売れば金になることを知っていた為、魔物に襲われても撃退してそれらの素材を得ることが出来れば、次の国に着くまでに多少の金稼ぎにはなるかもしれないと僅かな希望すら抱いていた。きっと今の君は当時の己の考えの甘さを後悔しているだろう。宿屋の主人の勧めで必要最低限の装備の準備をしてから森に入り、襲い掛かってくる魔物を斬り倒して旅を進めていたが、途中で自分の考えが浅はかであったことを君は思い知った。いくら魔物を倒しても、素材を拾う間もなく次から次へと魔物が現れて襲い掛かってくるのだ。これでは魔物を倒すメリットが無いと君は直ぐに気付いたが時すでに遅く、魔物の猛攻は留まること知らず、夜になるまで焚くまいと出し惜しみしていた魔物除けの香を、西方の空が赤く染まりだした頃に断腸の思いで焚いた程だった。魔物除けの香は並みの冒険者には手が出せない貴重で高価な代物だ。できることならあまり使いたくはなかったが、これ以上体力を消耗し、いざという時に戦えないことが無いよう最低限の体力と気力は温存しておきたかった。魔物除けの香を焚いてから魔物に襲われることは無くなったが、ここからが時間との勝負だった。魔物除けの香の効果は一時的なもので、匂いに慣れた魔物には効果が無い。香の匂いに怯んで最初は逃げた魔物も、苦手な匂いに慣れてしまえば獲物の追跡を再開し、隙あらば襲い掛かってくる。魔物は執念深い生き物だ。一度付け狙った獲物は滅多に諦めない。そうして襲われた旅人が無残な姿になって発見される光景を、君は今までの旅路で何回か見てきた。これまでのそういった経験から、休息の時間を削ってでもこの森を早く抜けることが最善だと君は決断し、休む間もなく森を抜けようと歩き続けた。しかし、昼間の魔物との度重なる戦闘で疲弊する体は鉛のように重く、魔物除けの香の残量に気を配りながら暗い森の中を進む休息無き旅路は、正直精神的に堪えるものがあった。

正直、あとどれくらいで森を抜けられるのか分からない。終わりが見えない暗い夜の旅路に吐息を零したものの、ここで倒れるわけにはいかないという執着にも似た思いだけが君を動かしていた。

腰に下げた刀の柄にそっと手を重ね、不甲斐ない己を奮い立たせようと歯を食いしばったその時、遥か前方で揺れる光源を見つけた。瞬いても消えない揺れるそれは、焚火のように見えた。自分の他にも森を抜けようとする人がいたのか。それとも、疲弊した精神が見せる幻だろうか。訝しみつつも、その小さな焚火の光に誘引されるように歩みを進めた。焚火の光がだんだん近づいてくるにつれ、鼻を掠めた嗅ぎ覚えのある香りに思わず目を見開いた。魔物除けの香の香り。それは疲弊する精神が見せた幻ではなく、誰かが野宿をしているという確かな証だった。あの焚火の光がある場所が香の発生源だと仮定して、辺りに漂う香りの広がり具合から、かなり長い時間に渡って香が焚かれていることが窺えた。こんなに長い時間焚いていれば、匂いに慣れた魔物に襲われていそうなものだが。

もしや、と脳裏に過った最悪の状況に、腰の刀の柄に無意識のうちに手が伸びていた。辺りの気配を探るが、周辺に魔物の気配はない。しかし、警戒を怠ることはできない。焚火に向かって進む歩みは止めないものの、周囲から聞こえる音と気配を逃すまいと耳をそばだて気を張り詰める。

近づくにつれ、焚火の傍に蹲っているような一つの人影があることに気付いた。想定していた最悪の仮定が現実になっていると思った君が思わず歯を食いしばったその時、それは人影の方から聞こえてきた。

「悪いが、そこから足元に気を付けてくれ」

警告じみたその言葉を耳にしたと同時に、足を止めた。間違いなく、それは人影から発せられた声だった。人影の主は、生きている。その事実を理解して、君はホッと息を吐いた。刀の柄にかけていた手を下ろし、人影の放った言葉の真意を読み取ろうと己の足元付近に目を凝らした。焚火の僅かな灯りで何とか己の足元が見えるという薄暗い闇の中、己の足の僅か数センチ先に、微かな光りを発する線が二本、地面に描かれていることに気付いた。線を視線で辿ると、それは焚火を囲むようにして描かれており、楕円形のような形を模している。よく観察すれば、二重に描かれた線の間には細い銀色の鎖が設置されている。恐らく魔具だろう。魔法を扱う素質がある者だけが扱える特別な品だ。地面に二重の線で描かれた楕円形の図形と細い銀色の鎖の魔具。その二つの要素から君はそれの正体を理解した。それは魔物から己の存在を眩ます魔法陣、所謂「結界」と呼ばれる代物だった。この魔法陣の中にいれば魔物には姿が見えず、匂いも嗅ぎとられず、音も聞かれず、気配も悟られないという特別な魔法陣だ。この魔法陣を描いた術者が魔法陣に魔力を注ぐのを中断するか、魔法陣が壊されることが無い限り効果は永遠に続く。

人影の発した言葉の真意を理解して、君は漸く人影に向かって声を掛けた。

「すまない。結界を壊すつもりは無い。中に入っても構わないか?通り抜けるだけだ」

その呼びかけに人影は体を起こし、君の方へ顔を向けたようだったが、焚火の炎が逆光となり、その顔が見えることはなかった。

「いいとも。……君さえ良ければの話だが、焚火に当たって休んでいかないか。少々寝つきが悪くてね。話し相手が欲しかったところなんだ」

穏やかな声色で紡がれたその返事に君は呆気に囚われた。どうやら人影の主はよほど人が好いらしい。いつもの君なら「何か裏でもあるのではないか」と疑って人影の主の厚意を丁重に断っていただろうが、体を鉛のように重くする疲労を少しでも回復させておきたかった君は、人影の主の厚意に素直に甘えることにした。魔法陣を壊さないよう慎重に線を跨ぎ、人影に向かって歩みを進め、一人分のスペースを空けて人影の主の隣に腰を下ろして漸く、君は人影の主の顔を見れた。

人影の主は聡明そうな顔立ちをした壮年の男だった。寝具の代わりとして羽織っていたらしい外套の下は魔術師が好んで着ることで知られている魔法衣を纏っている。

「結界の中に招いてくれて感謝する。実は、夕方に魔物除けの香を焚いたばかりで野宿できずに困っていたんだ。本当に助かった」

そう感謝を述べると、男は柔和な笑みを浮かべた。

「困ったときはお互い様だ。近づいてくる君の気配に気付いてはいたんだが、てっきり魔物除けの香に慣れた魔物かと思ってしまってね、声を掛けるタイミングを迷っていたんだが……いやはや、人でよかった。夕方に香を焚いたと言ったが、昼間はどうしていたんだね?」

男に問いかけられた君は肩を竦め、腰に下げた刀の柄を掌で軽く叩いた。

「これで蹴散らしてきた」

「……本当かね?」

「嘘だったから俺はこんなに草臥れてない」

溜息交じりにそう応えた君に、男は笑い声を上げて「確かにそうだ」と言った。男から見ても君は余程草臥れて見えるらしい。魔物との戦闘で怪我を負うことはなかったが、身に纏っていた外套はすっかり土埃に汚れ、履いているブーツの底は魔物の血を吸って血生臭い異臭を放っている。疲労の色が濃く表れている顔もきっと土埃で汚れていることだろう。

思わず小さな溜息を零した君に、男は苦笑した。

「手前にあった町でこの森の話を聞かなかったのかね?」

「聞いた。宿屋の主人にやめとけとも言われたが荷馬車に金を払うのを渋ってこうなった」

「君、面白いねって言われないか?」

「言われたことないな。人の話を聞かないとは言われるが」

焚火の火が弾ける音のみが聞こえる森の中で、男の笑い声が響いた。男の気持ちがいいほどの笑いっぷりに怒る気力すら湧かず、君は不貞腐れて背負い袋の中から携帯食料の干しパンと干し肉を取り出した。

そんな君に、男が「笑いすぎたお詫びに」と飲み物を分けてくれた。差し出されたカップを受け取ると、中から食欲をそそる香ばしい香りを纏った湯気が立ち上り、鼻を擽った。

「ギツの木の実を砕いてスープにしたものだよ。疲労回復によく効くが、香りほど美味くないのが難点な飲み物だ」

初めて聞く飲み物だった。どんなものだろうかと興味津々に味わうように口に含んで、すぐに嚥下した。そのまま真顔で携帯食料を黙々と頬張る君に男はまた笑い声を上げた。わざとこの飲み物を渡されたのでは、と少し苛々しながらも腹を満たすことに集中し、カップの中身も飲み干し、空になったそれを男へ返却した。味はともかく、男の言う疲労回復効果が本当なのであれば、今の君にとってこのスープは有難い飲み物だった。

口の中に残る後味に眉を顰めていると、男が口直しにと干した果実を分けてくれた。その果実を無言で齧っていると、男が興味津々といった様子でこちらを見つめていることに気付いた。

「俺の顔そんなに面白いか?」

「あ、いや。この森を魔物除けの香無しで夕方まで無傷でいられるなんて相当な腕前なんだろうと思ってな。どこかのギルドに所属しているのかね?」

「……いや。ただの旅人だ」

「冒険者ですら無いのか!こりゃ驚いた……その腕前なら傭兵ギルドからスカウトされるだろうに」

感嘆の吐息を零した男は突然、首元から鎖を引っ張り出した。ネックレスのように見えたそれはペンダントトップの代わりにドッグタグが下げられている。これまでの旅路で似たようなドッグタグを下げた人物を何人か見かけていた君は男の正体を理解した。

「あんたはギルドの人か」

「あぁ、僕は鉄の国のギルドに所属している。小さな傭兵ギルドだがね。前衛で戦えるメンバーを募集しているところなんだが、どうかね?」

己の所属しているギルドを示すドッグタグを見せながら勧誘する男の言葉に、君は少しの時間思考して、男の目を見て口を開いた。

「……あんたのギルドは余所の国へ遠征に行くような依頼も請けるか?」

「あんまり無いな。あってもここら辺の身近な国だけだ。遠くの国へ遠征に行くような依頼は大抵、依頼自体も内容が大きいからな。そういうのは小さな傭兵ギルドだけじゃ達成できないから、依頼を受けるのは大きな傭兵ギルドか、大きな傭兵ギルドだけでは人数が足りない時に人数合わせの募集を請けるフリーの傭兵ぐらいなもんだ」

「そうか。なら、悪いが断らせてもらう」

目を逸らさずに断った君の様子が面白かったのか、男はドッグタグを服の中に仕舞いながら声を上げて笑った。

「君のこと気に入ったんだがなぁ……振られてしまったんなら仕方ないな」

「誘ってもらえて光栄だとは思ってる。傭兵業も気にはなってるんだが」

結界の中に招いてもらったにも関わらずあっさりと断ってしまって申し訳ないと素直に謝罪すると、男は「気にするな」と片手をヒラヒラさせた。

「傭兵業が気になるなら、この森を抜けた先にある街を経由して西へ行くといい。一週間もしないうちに鉄の国へつく」

「鉄の、国」

「傭兵ギルドが犇めく国さ。荒くれ者共が集うちょっと荒っぽい国だが、身一つで行っても移住手続きに入れる。移住できれば国の保護を受けて仕事ができる傭兵登録もできるし、ギルドに所属することもできる。きっと君の気に入る傭兵ギルドがあるだろう」

そこまで言うと、男がまたカップを差し出してきた。つい受け取ってしまったものの、カップの中から立ち上る香ばしい香りを纏った湯気に思わず眉を顰めた。男はその君のその顔を見て声を上げて笑いながらも、同じように香ばしい香りを纏った湯気が立ち上るカップを手にし、君の持つカップへ軽く打ち付けて乾杯の形をとった。

「鉄の国に辿り着くまでの道程は少々険しいが、君なら辿り着けるだろう。新たな同輩の旅路に乾杯しようじゃないか」

君はそれを唖然と見つめて、いつの間にか鉄の国のギルドに所属することにされている自分の未来に眉を顰めた。

「俺、まだギルドに入ること決めてないんだが」

「ん?傭兵になっても同じさ。鉄の国に移住したのなら、君はその日から立派な鉄の国の住人、傭兵の国と呼ばれる誇り高き我らの国の一員だとも」

「鉄の国に行くことすらまだ決めてないんだが」

思わず突っ込むと、男は意味ありげな笑みを浮かべた。

「君は鉄の国へ行く。間違いなく。君は鉄の国に相応しい男だからな」

そう言って、男はカップの中のスープを呷るように飲み干した。こちらの話を聞かずに言い切る男に思わず苦笑しながら、君は手の中のカップを見つめた。

ある目的のために、没落した一族を見捨てるように故郷を飛び出した自分が、どこかの国に移住して傭兵ギルドに所属して依頼を請けて仕事をする。その光景を想像してみたが、うまくイメージが浮かばなかった。規律と統率を重んじる国で育ったこともあり、誰かの命を受けて戦ったり動くことに反感はない。剣の腕前にも多少の自信がある。金を稼げる上に、鉄の国という保護を受けて身元もしっかり保証された上で、依頼を請けて余所の国へ行くことができるという傭兵業は、ある目的のために行動する君にとって好条件が揃った理想の職業だ。しかし、問題があるとすれば、荒くれ者共が集う国ということだが。喧嘩の腕にも多少の覚えはあるが、果たしてどのような国民が集う国なのか想像がつかない。争いばかりで周りの人間はすべて敵だという認識を持っていないと命の保証ができない国は流石に面倒だ。故郷の国では統率する者が絶対の王であり、王が示した理通りに国民は動き、王が命じた通りに国民は戦った。規律を守れば命どころか衣食住に困らない生活は確実に保証されていた。規律に縛られ、王を絶対の支配者として統率され、安全が確実に保証された故郷で育った自分が、果たして生きていけるのだろうか。些末と言われればそれまでの小さな不安が己の中で芽吹いていることに気付き、自分の臆病者の面を思い知らされた気がして君は己を嗤った。少し、視点を変えてみることにしよう。荒くれ者共が集う国、ということは、統率する者はいても、きっと故郷の王ほど規律に縛られた国ではないのだろう。荒くれ者共は己を縛る規律を嫌っている者が多く、規律を乱すような行動をとることもしばしばある。規律を重んじるような国ではそのような者は厭われ、出る杭は打たれるという言葉の通り、他の国民と足並みを揃えられるように"教育"されるか、追い出されるのが故郷では常だったからだ。そうして追い出された者達が集うということは、彼らの苦手とする規律が無いか、緩いか、絶対の権限を持つ者がいないかのどれかに当てはまるのではと推測した。傭兵ギルドが犇めく、ということは、腕に覚えのある者が屯する国でもあるのだ。そんな腕の立つ荒くれ者共が集っていても国という枠が崩壊することなく成り立っているということは、ある程度の規律は整えられているのかもしれない。フリーの傭兵もいると聞いたし、ギルドというグループに所属しなくても生きていける国なのだろうか。必ず何かしらの群れの一員となる必要は無いのか。故郷ほど統率は取れなくても、必要最低限の規律で国の体裁を保つ国。規律はあっても、多少の自由を許される国ということか。


男は、自分が鉄の国に相応しいと言い切った。


男が自分の何を見てそう言い切ったのか、君にはさっぱり理解ができない。それでも男の言葉に後押しされるように、今度はイメージする光景を少し変えてみた。ギルドに所属せず、一人で傭兵業を営み、余所の国へと旅立つ自分の姿。誰の命にも縛られず、己の思うように動く傭兵の自分を。今度は上手くイメージできた光景に驚きつつも、君は唇の端を僅かに上げて呟いた。

「……悪くないな」

手の中のカップを呷るように飲み干し、盛大に顔を顰めた君を見た男の笑い声が薄暗い森の中で響いていく。とうとう腹を抱えて地面に転がって笑い出した男の様子があまりにもあんまりにも可笑しくて。故郷を出て初めて、君も声を上げて笑った。




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