第15話

「では訓練を始める前にもう一つ」


「何でしょう?」


「これからあなたのことをお師匠様とは呼びません。これからは私が師であなたが弟子なのですから当然でしょう。しかしながら本質はお師匠様ですので呼び方は決めさせてあげましょう。どうぞお好きなようにお決めになってください」


「以前の僕の名前は何と言ったのですか?」


「トリマーナです。やや女っぽい語感ですがお師匠様は男でしたよ?」


「ではそれで」


「いいのですか?あなたにはアーノルドという名前があったはずですが」


「いいのです。アーノルドという名前は捨てましたからね。捨てられたと言った方が正しいですが。ともかく、アーノルドという人物はいなくなったのですから、この先アーノルドとして生きていくことはできませんので」


「そうですか。ならばトリマーナと呼ばせていただきましょう」


 そうだ。アーノルドという名前はもうすでに消え去っていた。少なくとも名目上では。


 街の住民はともかく父上母上は僕を、僕の名前は忘れてはいないだろう。ケイトも忘れてはいないはずだ。弟のマインハルトはそもそも覚えてすらいないだろうけれど、まぁともかくアーノルドという名前はかえてしかるべきだろう。


「それにしてもお師匠様の名前ですか。本来ならその名を名乗ることを許しはしないのですが、お師匠様を呼び捨てにできるのですから認めましょう。痛めつけることもできますからね。ふふふふふ」


 やや不穏な空気が漂ってきたが、構わない。以前の僕は彼女を千年も置き去りにしたのだからそれくらいは許されよう。もっともその記憶がないのは何度も言う通りなのだけれど。


「それではもう一つ、今思いつきました。この訓練が終ったら何でも質問に答えてあげましょう。何事もご褒美があった方が頑張れますからね。以前のお師匠様のことでもいいですし、今のお師匠様のことでも構いません。この千年の出来事でも構いませんよ?少なくとも人間の国はすべて掌握しておりますので。」


 それは有難い。今の僕には疑問だらけだ。


「それは嬉しいご褒美ですね。では早速訓練の方お願いします。師匠」


「あのお師匠様に師匠と呼ばれる日が来るとは……!千年待った甲斐があったというものです!では始めましょうか!」


 とハイテンションで訓練を始めた伝説の魔女ブルーハ改め師匠なのであった。


「はじめは百キロランニングです!一日で走破するまでずっと続きます。本当は千キロを一日でと言いたいところですが、あなたは10歳ですし、魔法も使ったことがないことを鑑みて十分の一に易しくしました。それでも魔法を使えないと今のあなたでは難しいと思いますが、まぁ頑張ってください。それまで私はのんびりしてますから」


 なるほど師匠の訓練は習うより慣れろというものか。しかも一切の助言なし。


 しかしこれは彼女の師匠が彼女に課したものだろう。つまりは以前の僕がしたことなのだろう。


 僕は記憶にない僕を恨みながらも走り始めた。


 体力はある方だからすぐに終わるだろうと考えていたけれど、それは甘かった。


 百キロを走り終わるころには、とうの昔に一日は過ぎ去っていた。


「まったくだらしないですね。以前のお師匠様はどこへやら。ちょっとこっちに来なさい」


 そう言われて僕は師匠の下へ行く。体力は底をつき、地を這いながら師匠の足元へと何とかたどり着いた。


「まったく情けないですね。ほら手をかしなさい」


 僕は手を差し出す。


「ほれ」


「ギぃやあああああああああああああああああああああああああああああああ」


「まったくうるさいですね。仮にも男なんですから腕が一本取られたくらいで叫ばないでくださいよ」


「ギぃやあああああああああああああああああああああああああああああああ」


 僕は依然として叫んでいた。涙こそ流しはしなかったものの脳の処理能力を大きく超えるその痛みに僕は意識を保つので精いっぱいだった。


「叫ぶだけじゃなくて治そうと努力しなさい。私がそれを治すとは限らないのですよ?腕が一本取られては、片腕ではしたいこともできないのではないのですか?例えばほら、愛しのあの子のおっぱいを揉むとか」


 そんな邪な考えを僕は持っていない。下心など僕は持ち合わせていない。ケイトに抱く感情は親愛だけだ。


「本当にそうですか?いやまぁ持ってないなら持ってないで構いませんが、それはともかく腕を治そうと集中しなさいな。腕がある自分をイメージするのです」


 集中を乱してきたのは自分の方ではないか。そんなツッコミを飲み込み僕は必死に腕に集中する。もっとも痛くてツッコミどころではなかったのだけれど。スパルタがすぎる。


「ほらほら、早くしないと失血で死にますよ?あと十秒ほどでしょうか?いーーち、にーーい、さーーん」


 僕の死に目を目の当たりにしながらも、何とも愉快に数字を数え上げるではないか。師匠に人の心はないのだろうか?


 いや師匠は人ではなかったのだった。あの妖精の言葉を信じるならば。


「きゅーーう、じゅう!」


 そう楽し気に十まで数え上げたとき、僕の必死の抵抗もむなしく僕は意識を失ってしまった。死んでしまったのだ。


「あぁ、ケイトのおっぱいを一度でいいから揉みたかったなぁ」なんていう劣情にまみれながら僕は死んでしまった。なるほどケイトに抱いていたのはどうやら親愛ではなく劣情だったらしい。


 今まで感情がないなどと偉そうに語ってきた僕だったけれど、その実感情を僕は隠し通していただけだったようだ。


 そんなこんなで実にしょうもない最後だったけれど、僕はその天寿を全うしたのだった。




 石碑にはこう刻まれていたらしい。


『アーノルド・トラス ここに眠る 享年十歳』


 と。

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