第5話

 僕は草原をひた走りに走っていた。理由はもちろんあのウサギ親子だ。正確には親ウサギだが。


 森の入り口で休んでいたことが幸いし、森を越えては追いかけるようなことはしなかった。




 ……かのように見えた。




 周囲を見渡し僕がなにも企んでいないことを確認すると、いきなり僕の方へ向かってきたのだ。さながら短距離走者のごとく。クラウチングスタートまでバッチリ決めていた。


 こんな状況でなければツッコミを入れたいところだけれど、生憎僕にはそんな余裕はない。ツッコミなんて入れてたら僕が突っ込まれる。その超重量、超スピードでタックルをかまされては命どころか僕の体を維持することすら無理だろう。


 そんなこんなで必死に逃げていたけれど、あることに気づく。今まで感じていた違和感の正体に。


 そのウサギは僕と一定の距離を保って追いかけていたのだ。さながら追い込み漁のように。


 勢いよくスタートダッシュを決めたウサギだったけれど、罠はないと判断したものの僕に接近することはなかった。恐らく過去に人間から痛い目にあわされたことがあるのだろう。一般的な魔法の射程距離以上に距離を縮めることはなかった。


 しかしそのおかげで、僕は冷静に状況を分析できた。あのウサギは僕が力尽きるのを待っているのだろうと。僕が力尽きたその瞬間を狙っているのだろうと。つまりは僕は死以外の選択肢を持たないだろうと。


 絶望しかないのは依然として変わらずだった。


 しかし、僕は諦めない。僕を鍛えてくれた父上も『諦めたらそこで試合終了だ』と言っていた。


 諦めては掴めるものも掴めない。僕は死ぬ気で走る。文字通り死ぬ気で。諦めたら試合終了どころか、人生終了なのだから。




 およそ二時間は走っただろうか。空は明るみ始め、僕の体力は限界に来ていた。


 二時間も全力で走り続けたのだから少しは褒めてもらいたい。もっともここに僕を褒めるのは僕以外いないし、今までケイトや母上以外に褒めてもらったことなどほとんどない。父上に至っては一回も。


 僕は心もまた限界が来ていた。


 もう諦めて大人しく餌になろうかとも考えていた。食物連鎖の最下位よろしく。


 しかし、今までの頑張りが功を奏したのか、ウサギは突然追うのをやめた。


 理由は分からなかったが、ともかくラッキーだった。理由も次の瞬間分かったことだし。


 一体どういうことかと言うと、僕は崖から落ちたのだ。ウサギが追いかけるのをやめた理由もそれだ。僕はめでたく追い込まれたのだった。


 ここまで不運が続くと、さすがに何者かの意思が働いてるかもと邪推してしまうが、しかし僕はラッキーだった。崖の下は土ではなく水だったのだから。水というと水たまりなんかを想像するかもしれないけれど、崖の下は川だった。しかも崖の高さは目測10メートル。よほどの浅瀬でなければ大丈夫だろう。


 僕はすぐさま体制を変えて水面に対して垂直に……




 飛び込みたかった。




 さすがの父上もこんな状況は想定していなかったようで、僕は空中で体制を変える方法なんて知らなかった。


 僕はもれなく顔面からダイビングした。ただでさえ疲れた体だ。水面と固く冷たいキッスをきめた瞬間、僕は意識を失ってしまった。ダイビングでダイニングしてしまったのだ。


 いや、冗談を言ってる場合ではない。水中で意識を失ったら死んでしまう。僕の逃避行の終着点が溺死なんてたまったもんじゃない。さんざん逃げてきて死因が溺死なんてお話にならない。笑い話にはなるかもしれないけれど。


 ともかく僕はすぐに意識を取り戻し、命からがら岸辺に上がる。


 今が冬でなくて本当に良かった。冬なら死だ。せっかく乾かした木も水浸しになってしまったのだから、木を乾かしているうちに凍死してしまうだろう。


 ひとまず僕は服を脱ぎ乾かす。このまま濡れた服を着ていたら低体温症でさらに体力を奪われるからだ。ついでにリュックから濡れた木を取り出し乾かす。


 幸い、この川の周りには木が多い。僕が落ちてきた側は岩だらけだけれど、反対側は森だった。燃料には困らないだろう。


 森というと、さっきのウサギがフラッシュバックするけれど、さすがにもうそんなことはないだろうと。




 そう思ってしまった。


 そんなことがあるのはお話の中だけだと思っていたけれど。


 おめでとう僕。フラグ回収だ。


 森からのファンファーレも聞こえてくる。初めての体験に森も祝福してくれているようだった。


 もっとも、その祝福を僕が望んでいないことは断言しておこう。

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