第8話 逃走
「死に慣れることはない。私はそう思うの。死に慣れるような事態があるなら、何かが決定的に破綻してるのよ」
アイリが回復するまでの永遠のような時間、私はもう何も見なくていいようにひたすら泣いていた。まだ喉に声が引っ掛かり会話できない。すっかり生き返ったアイリは何か手元を動かしながら話し始めた。
「初めて死んだとき、死の恐怖に気づいた。そして思った。集落の成人たちはどうなんだろうって。殺したらどう反応するのかなって。それが集落を襲った理由の一つ。もう一つはお姉ちゃん。あんな場所に置いておいたら絶対にいけないと思ったから、どうにか連れ出したかった。両方やるなら集落を襲うのが効率いいでしょう?結果としてお姉ちゃんはここにいるしね。これが答えだけど、お姉ちゃん聞いてる?」
私の丸まった背中から声が聞こえる。安心と果てしない怒りが脳を熱くした。
「二度としないで...絶対、絶対、絶対」
「ごめんね、こうでもしないとわかってくれないと思って」
「自分も怖いくせに...私ってそんなに信用無いのね」
「本当にごめん。言い訳みたいだけど、お姉ちゃんのことになると何をどこまでやるべきなのか分からないんだ。とにかく私を分かってほしくて」
「許せないけどもういいよ。話が進まないから。人をいつも煙に巻いておいて、一人にはなりたくないのね」
沈黙。
「それで。それで、アイリはどうしても集落を襲いに来るの?」
「...前に集落を襲った時、誰もがあまりにも自分の命に無頓着なことが分かった。吹かれるまま、飛んでいくまま。やっぱりあの集落はなぜか死に慣れている。その理由を知りたいし、そんな状態をなあなあにしたまま集落に戻れるわけなんてない。私はただ、お姉ちゃんと私で、安心できる世界を手に入れたいの。いつどうなるか分からない世界なんて嫌」
「お母さんのこと?」
アイリがはっとこっちを振り向く。私と出会ってから示した初めての驚きだった。少しだけ気分が良かった。
「知ってるの?私が覚えてること」
「うん。おじさんに聞いた。おじさんはお母さんを殺した世界への復讐として、アイリが集落を襲うんだと思ってる」
「そっかあ。そんな思い違いを。そりゃそうか。そうでも思ってなきゃおっさんがお姉ちゃんに話すわけないよね。大好きないつも通りとは相受け入れない出来事だもの。だからお姉ちゃんを説得に寄こしたのね。甘い考えだなあ」
「そうではないというの?」
「そんなわけ無いよ。ただ、自分でよくわかっていない世界なんて、ふとした拍子に立ち消えてしまうことを学んだだけ。小さい頃は悲しかったけど、今じゃ感謝してる」
「アイリはあの集落もいつか消えてしまうと思ってるの」
「そりゃそうだよ。一定のリズムを繰り返すには、何かを犠牲にしなきゃいけない。毎日食べていくには食べ物がたくさんいるし、長い間張り詰めさせた紐はいつか突然千切れるでしょう。いつも安定したあの集落に強いられた犠牲は何?私は不死にヒントがあると思った。本で読む旧時代の生活との一番大きな違いだからね。不死にした人間から定期的に生命力だとか人間性だとかを奪っているのか、それともどこかの時点で決定的に崩壊することがもう定まっているのか。お姉ちゃんもここに来るまで見たでしょ?そもそもこの生体構造物自体、何かしらガタが来てるのは明らかなのよ。いずれにせよ、そんな呪いを甘んじて受けたくはないし、お姉ちゃんを救い出したかった。だから同情や慰めなんかで私の意志は変わらないよ。絶対に自分で自分たちのための世界を切り開いてやる」
「だから集落を襲い続けるというの。どうしてそう短絡的なの。疑問があるなら話してみればいいじゃない。おじさんだってアイリを心配してるよ」
「おっさんが?お姉ちゃん知らないんだね。2年前、私が集落から脱出したとき、おっさんが私を探しに来たでしょう?違うの。殺しに来たのよ」
「そんなはず!」
「本当よ。私一回捕まったんだもん。危険因子だとか言われてさ。裸馬に括り付けて奈落の底まで腐り落ちた肉の崖に落とされそうになった。その時私は裸馬のコントロールを奪って、振り回されながら何とか逃げ出したの。交渉の余地はないわ」
アイリが言い終わるが早いか、背中に強い衝撃を受けよろめく。寝床につるされた大小さまざまの金属がけたたましく揺れ、火の影が揺れた。違和感に振り向いた瞬間。
「そうだ!交渉の余地はない」
入口の方から裸馬の巨体が飛び込んできた。2本の足を高く掲げ、勢いのままアイリを踏みつぶす。焚火がつぶれ、干し皮が飛び散り、辺りは灰色の埃で埋め尽くされた。混乱の中見えた裸馬の肉体は、上半分が破裂したかのように真っ赤に裂けて、集落に残ったはずのおじさんの上半身が中央に生えていた。手には銃を構えている!慌ててまさぐった背中からは銃が消えていた。
「アイリっ!」
下敷きにされたアイリは背骨があらぬ方に曲がり、肋骨が3本ほど腹から飛び出ている。呼吸はできないだろう。裸馬の脚は4本しかなく、私の連れてきた奴だと気づいた。
「おじさん!どうしてここに...」
「すまんなシャリ。お前の安全を見守るため、裸馬のくり抜いた腹部に潜り込んで追ってきた。よくここまでやってきたな、偉いぞ。だが詰めが甘い。ここでアイリを殺す!」
おじさんの言葉は何もかも形式的で、その真意は明らかだった。最初から私はただの囮だったんだ。アイリをおびき寄せるための。悔しさと恐怖がこみ上げる。
「待ってよおじさん!アイリだって悪気があったわけじゃ。むしろこの世界のことを心配して」
おじさんは両手で持った銃を肩に構えて、足元のアイリに狙いをすます。自然で、無駄のない動き。何度も繰り返したような。
「だめだ。こいつは自分のためにこの世界を壊そうとしている。どんな病原体にだって悪気はないが、しかし我々自身を守るためには殺さないといけないだろう。幸いここは無機物に囲まれている。生体構造物に弾が当たる心配もない」
急いで辺りを見回す。足元には裸馬からこぼれたであろう小さなナイフと、金属製の長い柄が転がっていた。おじさんの注意がアイリに集中しているのを確認し、それらをひっつかんだ。ナイフを柄に組付ける。深呼吸。
「悪いなシャリ。でもこうするしかないんだ。見ない方がいい」
静かに、そう言う。私ではなく、自分自身に言い聞かせているようだった。狙いをつける目はまっすぐアイリだけを鋭くとらえている。おじさんは深く息を吸い、止める。瞬間、飛び出した。
「!シャリ!何をするっ!」
長く伸びたナイフの切っ先は銃を支える左手を勢いよく強打し、滑るように右手首を深く抉った。銃が勢いよく落ちていく。そのまま刃先を切り返し、おじさんの顔を狙う。運よく喉に抉り込み、固いゴリゴリした抵抗を力の限り引き切った。だらんと前向きに倒れ込んだおじさんは喉から吹き出すねばついた血の噴出で、自分自身と裸馬を赤黒く塗りこめた。しなびたその姿は大きな生物に取りつく哀れな寄生体のようだった。
「おじさん!おじさん...ごめんなさいごめんなさい...でも...」
このままではすぐに回復して私たちを追ってくるだろう。這うようにしてばたばたと落ちた銃に駆け寄り持ち上げる。その冷たさと重さに狂気の力強さを感じながら、ぶるぶる震える手でおじさんの頭蓋に銃口を押し当て引き金を引いた。
(バアン!)
衝撃にのけぞり、支えた右肩に銃が跳ね当たる。腕が千切れるように痛む。おじさんの顔は黒く沸騰する穴になっていた。傷口から泡を吹きながら血の色に燃え広がっていく。肉体の激しい崩壊は踊るように進み、不死の死を感じさせた。
「ああ!ごめんなさい...ごめんなさい...」
踊るように溶け続けるおじさんから目を背け、アイリのもとに駆け寄る。
「アイリ..っアイリ...!大丈夫...?」
呼びかけるとアイリは痙攣し、折れた肋骨が内臓に刺さったのか呼吸のリズムで血の泡を吹いている。目は虚ろで力なく、ただどこかを見ていた。
「ああ...とにかく遠くへ...」
アイリの寝床にあった武器になりそうなものを手近な臓袋に詰め込む。放り込めるだけのメタン袋、アイリのナイフ。まとめて放り込み重く垂れる臓袋を背負う。口の中で謝りながらアイリの体を片手で何とか引きずり、私自身もほとんど地面を這いながら長い時間をかけて入り口までたどり着いた。
「ごめんね...!」
銃以外の荷物を放り投げ、ためらいつつアイリを突き落す。彼女が不死とはわかっていても、自身の行為に目を背け鈍く響く落下の衝撃音から耳を塞いだ。不意に後ろを振り向くと、既におじさんのシルエットはなく、黒い血だまりが泡立っているだけだったが、異様に気が焦った。急いでロープを滑り下り、手のひらの焼けるような痛みを噛み殺した。落下で散乱した荷物をまとめ、急いで荷物をアイリの裸馬にねじ込み、もう息をしていないアイリ自身も馬上に上げる。
「ここからどうすれば...逃げる?どこに?」
取り付けた荷物にあふれた裸馬を目前に見据え、途方に暮れた。ここまではおじさんの指示、アイリの地図があった。今は何もない。
(っ!)
背後でびちゃっという水っぽい衝撃音が響いた。恐怖とともにゆっくり振り返る。何が落ちてきたのか、振り向く前から直感では分かっていた。直視する勇気がないだけ。ゆっくりと視界に浮かび上がってきた輪郭のないそれは黒々とした血の塊のように見え、ごぼごぼと泡立ちながら何かの形を取ろうとして何度も何度も崩れ落ちた。
(おじさん...?だよね?私のせいでこんなことに...)
やがてその表面には透明な薄膜が張り、徐々に皮膚を形成しては破れて体液を溢れ出す。未成熟な種々の内臓が、肉や骨の支えを得られないままびちゃびちゃとこぼれ続ける。眼窩から手や指が生え、腹部のような空間にいくつもの目の原型が浮かび上がっては沈んだ。銃弾により崩壊した体の、再生へのあがきなのか死滅への過程なのか、推測のつけようもなかった。結局崩れ落ちた体だったものの溜まりの中心で、もろくも形を成した頭部からおじさんの声がする。。
「どうしてなんだ...?どうしてこんなことをする」
声とともに流れるシューシューいう空気の流れが指の突き出た眼窩を押し、潰した。少し離れた場所に落ちている簡素な肺と横隔膜から直接送り込まれた空気は、音の出る度もろいのどを削り、軟らかな頭蓋骨をぺこぺこ動かしている。
「ひっ...だっておじさんがアイリを...私のことだって囮にしたでしょう!」
「俺はお前を本当に信用していた。でなければ銃を渡すと思うか?お前がアイリを説得するか、この世界を守るためにしかるべきことをするはずと思っていた」
おじさんの体が崩壊したまま固まり始める。遠くで鼓動のような音がした。
「なぜ、お前らは今ある世界に満足できないんだ。周りの全員を傷つけても、自分たちだけが納得できるクソを掴めれば満足か?」
「そんなこと...アイリは、私は選択肢が欲しかっただけ!あの集落じゃ、この世界じゃ何も自分の手で掴めない。アイリはきっとずっと昔から気づいていたし、私も集落を出て思った。私たちは本当に、巨大な生物を活かすためにサイクルし続ける一機能に過ぎないんだって。私たちは、私が私である意味が欲しいだけなの!」
おじさんの体が揺れる。地面が隆起しておじさんの頭を高く持ち上げていった。
「わがままを!お前たちは何かに反抗したいだけだ。目についた大きな流れに逆らってさえいれば存在が証明できると勘違いしやがって。ガキは旧時代と何も変わっちゃいない」
今やおじさんの頭はしっかりと輪郭を持ち、頬のあたりに生えた眼球と斜めに裂けた口以外に何もない顔で、最低限の人間らしさを保っていた。隆起した地面には筋肉の端切れのようなものが散らばっている。やがて端切れはぶよぶよと振動し、小さな人体を模してはおじさんの頭部に這いより群がっていく。その異様な光景につい気を取られる。
「な、なにこれ、ちょっと?おじさん!」
「ああ...俺は生体構造物と一体になる。もう肉体は保てないが、大動脈で生まれ直したこの俺という存在が滅びることはない。この区画の全生命力をもってお前たちを処分する!」
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