第5話 初めての痛み
アイリの地図は漠然とした目印のようなもので、集落からおおよその方角と近場の目印しか書いてなかった。講堂の裏手方面をまっすぐ、肉管の森の中、金属筒の寝床。あまりに大雑把な示し方に困惑したものの、歩き出すとすぐさま巨大で鬱蒼とした肉管の森に当たった。子供の時分に迷い込んだ思い出の時よりも近くに感じたが、この巨大な森でアイリを探せというのも無茶なものだと圧倒された。幼少期の自分が恐れたのも無理はない。森に道はなく、迷わぬよう、行き過ぎた道の肉管にナイフで傷をつけながら一歩一歩歩いた。地面は集落の筋肉よりも元気がなく、ぐじゅぐじゅと湿って体液を流している部分もある。にじんだ体液の池には短い脚のついた肉の瘤のようなものがたくさんたむろしている。来るときにはしわくちゃに萎びた体を体液に浸し、ぶよぶよに膨らませて揺れながら、せっせとどこかに運んでいる。体液の回収だろうか?これも生体構造物のシステムの一部なのかもしれない。辺りを見渡せば肉管は高く、密度も増して頭に覆いかぶさるようだった。足場も悪く、集落のように平板な筋肉はすっかり姿を消し、ごつごつと隆起が流れ、点在する骨や瘤の隆起が疲れを蓄積させる。覚束ない足取りで足元を見つつとぼとぼ歩きながら振り向くと、裸馬が常に一定のリズムで姿勢のぶれも、疲れもなくついてくる。軽快にまたがったアイリの姿が脳裏をよぎる。乗ったらずいぶん楽なんじゃないか、と誘惑に抗いつつ踏み出したとき、切り立った筋肉の隆起にぶち当たった。
「うわあ!なにこれ...?」
見上げるに、自分の身長を4倍したほどの高さの筋肉がまっすぐ立っている。左右を見ても壁がどこまでも続き、迂回路はないようだ。背後には自分でつけた目印のある肉管が立ち並んでいる。アイリの地図を見返しても、方向はあっているはずだった。
「こんなの登らなくちゃいけないの...?」
裸馬を停止させ積み荷を降ろし、鉤骨のついたロープを取り出し壁を見上げる。骨の部分を掴んで、壁の縁に届くよう思いっきり投げた。骨は私2人分くらいの高さで失速し、力なく壁に引っ掛かった。焦って引くとより深く刺さった。
「あっ...!どうしよう」
ぐいぐい引いても肉に食い込むばかりで、外れそうにない。田んぼの収穫の際、重い臓袋を肩で支えて持ち上げたことを思い出し、しっかり根を貼った肉管にロープを括り付け、全身でロープを引いた。刺さった骨はがたがた揺れ、壁の肉を抉って血をまき散らしながら飛び出した。足元に鉤骨が落ちる。安心したが、血まみれの服がじっとり体にまとわりつき失敗の代償を思った。支えにした肉管は縛った箇所からひん曲がり、恨みがましく紫色ににじんでいる。投げる距離を稼ぐため、近くの肉管をナイフで切って空間を確保し、長さに余裕をもってロープを構えた。持ち手を支えにロープをぐるぐる回し、勢いに任せてロープを放つ。するすると飛距離は伸び、壁を超えて縁に刺さった。
「やった、届いた!」
鉤骨を見上げつつ、金属のとげが底に打たれた登肉用の靴に履き替える。ロープを右の手のひらに巻き、左手にナイフを持った。慣れない姿勢で片足を高く上げ、壁面に靴底を突き刺す。頼りない腕の力、壁に深々突き刺したナイフを支えとして、もう片足も踏み出す。手のひらの痛みと溢れ出す血のぬめりに耐えながらひたすら繰り返す。上までの距離を確認したいが、ナイフから流れる血が視界を妨げ見上げることもままならない。ロープを巻いた手のひらは感覚がなくなり、と思えば気づいたように激痛が走る。ナイフを突き刺す手は痺れ、揺れる足元は血でぬめる。踏み外しそうになるたび靴底が壁の筋肉をざりざり抉り、血が流れてバランスが崩れる。崩れる姿勢を支えようと握りしめた右手が頑丈なロープに削られる。つい見上げた顔に壁から溢れ出す血を浴びて視界が一瞬途絶えた。
「痛い、痛い、痛い、痛い!」
ナイフは壁の傷口を少しずつ縦に広げ、保持力を失いつつある。何とか靴底を壁に蹴り当てるようにして突き刺し、体勢を立て直す。血の止まらない手のひらでロープを固く握り込んで体を支え、一瞬の安定の隙を突いてはナイフを引き抜き、さらに高みへと突き刺す。先の見えないつらさばかりが募った。
「あ、ぐっ」
痛いのも繰り返していると慣れてくるなと、沸騰しそうな頭で考えつつただ登る。バランスが崩れるたび生傷が増えたが、もうどこが痛いのかもよく分からなかった。ナイフを抜き、また突き刺そうと虚空を数回切ったとき、やっと縁に辿りついたことを知った。手探りで縁の向こうにナイフを突き刺し、両手で全身を持ち上げて腰を引き上げる。息を止めて踏ん張り、ようやく頂上に転がり込んだ。
「やった、やった...」
安心感と達成感で、そのまま意識を失った。
どれくらい寝ていただろう。ゆっくり動かした右手に袖が張り付きぱりぱり鳴った。血が固まり砕けて、粉のように舞っている。体を起こすとまだ濡れたままの服の血がべっとりと重かった。足が動かない。顔を上げるとナイフが深々と太ももに切り込んでいた。登り切った時地面に突き立てたナイフに、転がり込んだ体を勢いよくぶつけていたようだ。気づくと波のように痛みが押し寄せ、血の気が引いて恐怖と焦りが襲った。
「はっはっ、はあーーーっ、うっ!」息を飲んでナイフから太ももを引き抜く。傷は深く、赤々とした血の流れが溢れる寸前、白くつるつるした骨が見えた。
「ああ!!ああ、痛い痛いぃ」
どうしてこんなことをしてるんだろう、どうしてこんなことになってるんだろう?原因になったアイリよりも、安易に何かをやり遂げられると思い込んだ私に腹が立った。情けない思いが溢れる。しかし、この旅はもはや自分のための旅でもある。アイリはいつも私より先に、私よりうまくやる。田んぼだって、道具作りだって、儀式だって...私はアイリの影のようだった。アイリを探し出す、それすらも達成できなければ、もうアイリの横には立てないと思った。ここでやめることはできない。やめる勇気がないのかもしれない。
「あ...治って、きてる、傷もない...」
頭の中ばかり忙しくしている間に太ももの傷はすっかり閉じ始めていた。思えば、昨日の壁登りで負った傷はもう無い。がさがさに割れた手のひらも元通り。痕跡は血まみれの服だけだった。遠くで眺めるようだった不死の体を初めて実感した。
「ありがたいけど、何か、気持ち悪い...」
アイリには見せたくないな、と何となく思った。
どうやって登ったのか、いつの間にか背後に立っていた裸馬に壁登りの装備を片付ける。血まみれの服も、頑丈な干し皮で作った作業着に変えた。姿を変えると気持ちも変わる。落ち込んだ気分が少しだけ上向く。勢いづいて立ち上がり、見晴らしのよさそうな突き出た骨の丘に上がると、見たこともない無機質な光景が広がっていた。
「なにこれ...まるで講堂の地下室みたい。旧時代の建物なのかな。全部崩れて、ごちゃごちゃ...」
壁の上には、見渡す限り灰白色の壁材の欠片が筋肉の上に積み重なり、山を築いていた。斜めに立った高い柱から真っ黒で細長い線があちらこちらに垂れ下がっている。冷たく、尖った人工物の破片があちこちで筋肉に突き刺さり、血の流れる大小の傷跡や腐って黒ずむ体液の池が点在していた。ここからの数歩の近くにも、激しく脈打ち血を噴出する傷跡があった。その時、おじさんの警句をふと思い出す。新しい血。
「そうだ、隠れなきゃ...!」
どんな危険があるのか分からないけど、とにかく手近に見えた崩れた建物に潜んだ。息を殺して様子を伺う。自分でも何を待っているのか分からず、怖かった。いつまで待っていればいいのか知りたかった。落ち着かないままただ見ていると、ふと視界の端に影が見えた。長く細い骨のような四本脚の中央に、円盤状の、黒い内臓のような体が乗っている。腹の中心からは固そうな半透明の棘が伸びていた。のっぺりとしたシルエットで動きも遅いが歩幅が長く、あっという間に新しい傷跡の真上に陣取った。
(何する気だろう?)
腹部の棘が緩やかに伸び始めたと思った一瞬、一気に傷に突き刺さる。棘の中では何か液体が流動しており、傷に流し込まれているようだ。傷は見る見るうちに茶色くしなびていき、血も枯れてしまった。四本脚は足を畳み、枯らした傷に座り込んだ。腹部から円形に並んだ歯が伸び、回転し傷を抉る。音はしないはずなのに、頭の中に苦痛が凄まじい轟音でがんがん響いて今すぐ飛び出したくなった。頭を固く押さえつけ、僅かに残った冷静さで、己を引きとどめた。苦しみに耐えながら微かに目を開くと、四本脚の体の上に、単純な形の四肢を持つ人間のようなシルエットが、四つん這いで張り付いている。頭はなく、胴体から手足だけが伸びているようだ。皮膚の質感は体毛がない人間そのものだった。気づいた四本脚が急に立ち上がる。人間もどきの片手が振り払われるが、すぐにまた四本脚にしがみつく。人間もどきの手の先は口のようになっており、押し付けることで相手に噛みついているようだった。四本脚は人間もどきに噛まれている箇所からずくずくと溶け出してきている。夢中で見ているうちに周囲から2、3体の人間もどきが集まり、それぞれ四本脚に張り付いていく。四本脚は必死で暴れるものの、もう元気がなく、どんどんと溶かされ、少しするとただの茶色い粘液になってしまった。人間もどきの一匹が枯れた傷に横たわると、傷に同化して癒し、消えた。他の人間もどきたちも解散していく。四本脚だったものに、壁の下で見た足つきの肉塊の群れが集まり、己の身体で吸い取ってはどこかに運んでいく。
(この人型のやつがおじさんの言ってた免疫体?見つかったら私もああなるのかな...死なないかもしれないけど、どうなっちゃうんだろう)
建物から慎重に抜け出し、様子をうかがう。肉管はあまり生えていないから見通しは良いものの、建物の破片や山が邪魔で、どこを進んだものか分からない。地面の生傷はそこら中にあり、隠れつつ静かに進むしかなさそうだった。隠れて進むすぐ傍にも、あちらこちらで人間もどきと四本脚の様々なバリエーションが歯ぎしりのように静かな戦いを繰り広げている。怖いけど仕方がない。幸い裸馬は無視されているようだし、自分の進む道だけを見据えてゆっくり歩いた。静けさが環境音を際立たせ、周囲を囲むメタン嚢のシューシューいう音が嫌に耳についた。そういえば、やけにメタン嚢が多い。壁の下よりも遥かに密集している。見れば、メタン嚢の周辺には、体液に群れる肉塊が歩いている。体液の運び先はメタン嚢なのだろうか?この辺には傷口が多いし四本脚みたいな敵対生物もいるから納得はいく。何となく冷静に環境を分析している自分に少し満足する。不死のおかげか疲労の回復が早く、屈んだ姿勢とはいえだんだん動きが大胆になっていた。不死の力に慣れてきているように思う。うろつく思考は突然開けた視界に遮断された。遮蔽物が途切れている。危うく身をさらすところだった。
(どうしよう、建物がない...)
急いで見繕った隠れ場所は少し高さがあり、周辺の状況を見ることができた。目の前には講堂と同じくらいのサイズの開けた空間。中央に大きく黒いメタン嚢があり、大量の生傷が紫色にただれている。周囲には5匹もの四本脚がじっと座り、人間もどきのようにみえる皮膚の袋が溶け出した中身とともに散らばっている。免疫体には期待できそうにないようだ。四本脚は私に反応するだろうか。ここで躍り出るのは得策ではないはずだ。アイツらは案外素早いし、こちらも不死とはいえ、奴らに拘束されるのは怖い。動けず見ていると、ふらふらと新たに2匹の人間もどきが四本脚に近づいていく。四本脚は瞬時に立ち上がり、跳ね上がった。空中で四本の細長い脚部が傘のようにぱっと開き、まとめて人間もどきを覆う。数回ばたばたと音が聞こえたが静かになり、立ち去った四本脚の後には人間もどきの皮だけが残っていた。残りの四体は見向きもせず傷をむさぼっているようだ。到底近づけない。
(弱ったな...こんな時アイリだったらどうするんだろう)
アイリの襲撃のことを思う。メタンを詰めた袋をぶん投げ、武器にしていたアイリ。メタン袋の爆発は小さくても強力だった。なら、あれだけ巨大なメタン嚢にはどれほどの威力があるだろう。近くに佇んでいた裸馬の方まで這って戻り、身を隠しながら手を伸ばして道具を漁る。壁登りに使ったロープ、ナイフ、煮炊きに使う着火棒と乾燥糞。鉤骨を結わえたのと反対側の端に乾燥糞を擦り付け、着火棒の背をナイフでこすって着火する。きんきん鳴る音にびくびくしながらも、数十回に及ぶ試行で運よくロープに火をつけることができた。ロープの鉤骨の結び目で緩く持ち、メタン嚢までの距離を目で見積もった。水平方向とはいえ、距離は先ほどの壁と似たようなもの、深呼吸をして覚悟を決めた。
(3、2、1、それ!)
小さく、しかし勢いよく回しつつ、斜め上方向に鉤骨を放り出す。途中かなり失速して焦ったものの、高く投げたのが功を奏してか、鋭い鉤骨がメタン嚢に穴をうがった。
(よし!すごいすごい私!)
メタン嚢からは緩やかながらガスが漏れている。ここまで微かに独特の臭いが流れてきた。慎重に機を伺う。ここでミスをしたら台無しだ。火を起こしたロープを手に、必死に自分の力を信じた。四本脚がざわつき始める。メタンの気配に反応しているのかもしれない。やるなら今しかない。
(行けえ!)
鉤骨の刺さった場所を狙って火を投げる。何かを照らすほどの明るさもないちっぽけな光が宙を舞っていく。音が止まった。自分も、四本脚も、人間もどきも、全てがその光をただ見守っているように錯覚した。瞬間、世界が破裂したかのような音が響く。全てが黒くなった。
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