第3話 地面と銃弾

「え...?」

 何を言っているのか理解できなかった。ただ困惑する私をよそにおじさんは話し続ける。

「旧時代が滅んだのはほんの最近だ。シャリとアイリ、お前たちが誕生したその日、ざっと20年前に旧時代は突如消えた。致命的な環境汚染に備えて世界各地に休眠保存されていた巨大生体シェルター、今俺たちの暮らす生体構造物が突然起動した。お前たちの母親がお前たちを出産しているまさにその最中だった。逃げる間もなく、あらゆる地形、あらゆる建物を飲み込み突き破る何千億トンという肉の津波の隙間から辛うじて産み落とされたのがお前たちだ」

 全てが真実だとはとても思えなかった。物心ついた時から見てきた世界の全てが覆っていく。ついさっきまで現実だと思っていた風景が夢だと気づいた時のような、世界から一歩はみ出してしまった疎外感があった。

「ちょ、ちょっと待って。全く話についていけない...私たちのお母さん?お母さんがいたの?」

 私たち子供は、大動脈の恵みとして生まれ落ちたことになったと聞かされてきた。人間から人間が生まれるのは旧時代の伝説だと思っていた。

「ああ。最期までお前たちを守ろうとしていた。飲み込まれるその一瞬前までも。悲しい出来事だった。今でも心が痛む。彼女は俺が見た人類最後の母親だった。この世界で、もはや子をなすことはないからな」

「ア、アイリは...?」乾いた口で何とか言葉をつなぐ。全身が硬直し、地面の固さを踏みしめた。

「アイリはどうして、どこまで知っていたの...?私たちにお母さんがいて、この世界がどんなものなのかってことも?」

 おじさんは鉄の管が組み合わさった奇妙な台のようなものに座り、底に沈んだ落ち着きで答える。

「アイツは生まれた瞬間から記憶が残っているらしい。漠然とだが、全ての場面を覚えているようだ。生まれたばかりの瞬間、母親が生体構造物の筋肉に飲み込まれるところさえな。小さなころは思い出してはよく泣いていた」

「そんなこと...私には全く話してくれなかった」

「それはそうだろう。アイリも記憶のことはあまり話したがらなかった。ここ何年かは落ち着いていたし、アイツの中でけりがついたんだと思っていたが」

 アイリ。彼女は私を驚かせるのが好きだった。いつも私の知らないところで何かを試し、学び、一歩先に行く。私が知るのはいつも結果だけ。アイリの得意気な表情ばかりを思い出すのに、悩む顔、悲しい顔を知らなかった。

「ともかくアイリが生まれたとき、赤子の腕ででも触れられるような距離にいた母親が、突然覚醒した生体構造物に一瞬で押しつぶされた。建物ごと、世界ごと消えてしまった」

「お母さんが...」

 他人事のように呟いていた。私は母親の顔も知らない。またアイリに置いて行かれたような気持ちになる。

「事故だった。生体構造物の覚醒は告知無しに突如始まり、人類保護の初期プロセスである世界の捕食が始まった。何かが全ておかしい日だったんだ。俺の周りにいたやつも爆発的に膨張する筋肉に飲まれ、大勢が消えた。跡形もなかったよ。覚えてはいないだろうが、シャリ、お前もそこにいたんだ」

「私も...」どんな光景だったろうか。アイリはその記憶から何を思っただろう。

「シャリ、お前にはつらい話ばかりをしていると思う。だが、悲しい出来事で始まったとはいえ、私たちはこの世界に生きている。人間同士で殺しあうことはなくなり、不意の病気や事故で死ぬ人間もない。みな生体構造物の代謝システムの一部として、恒常性の中で生き続けることができるんだ。貧困も差別も飢えも悲しみもない」

 私は何も知らない。お母さんのこと、アイリのこと。今まで自分自身が眠り、食べ、育ってきた場所さえも。

「じゃ、じゃあその生体構造物っていうものが、この世界なの?旧時代を滅ぼして、お母さんを殺した...」

「そうだ。お前たちが生まれついてからずっと暮らしてきたこの世界全体が、つまるところ生体構造物という名の巨大人工生物だ。旧時代の人間は、自分たちの作った危険で溢れかえる世界から身を守るため、巨大な生物を作り隠れ家に仕立てた。星の熱を食って水を排泄し、誰も知らない永遠ともいえる寿命をただじっと生き続ける。完璧な恒常性だけを目的に生まれた生き物。人間はその体内に集団ごとに移り住み、社会活動をそのまま生物の生体活動を補助する活動に転用した。ちょうど俺たちが農業を模して生体構造物の栄養を作っているようにな」

「で、でも、だったら私たちの集落以外に人間がいないのはなぜ?大勢の人間が避難しているんでしょう?ほかの人たちはどうしてるの?」

「他の人間か。避難できなかった者、窮地に至り自ら死を選んだ者は大勢いた。それでも多くの人間が生体構造物の中にいる。もちろんこの個体の中にも何千人といるだろう」

「何千人...」

 途方もない数字だ。それだけの人がいたらどんなことが起きるのだろう?互いの顔を知ることさえ困難なはずだ。それで成り立つ生活など想像もできない。

「だが、人間同士の交流は恒常性の敵だ。異なる生活の相互交流は予期せぬ事態を招く。だからそれぞれの集落同士は物理的に分断されている。生体構造物の分厚い筋肉と骨格の壁は旧時代の海よりも遥かな障壁だ。これからも彼らと会うことはないだろう」

 おじさんの目は私を通り越して遠いどこかを見つめていた。同じく移住した他の人間たちの中に良く知った仲でもいたのだろうか。どことなく寂しい表情だった。

「ともかく」おじさんが私に向き直る。

「数千年以上の過ちを経て、人類はついに永久不変の安住を手に入れたんだ」


 沈黙が続いた。一旦話の区切りがついたらしいおじさんはじっと私を見ている。私は私で言うべき言葉が見つからず、所在なく骨色の空虚な壁を見つめる。

「シャリ、お前はこの世界をどう思っている」

「私は...」

 これまで暮らしてきた生活の断片と今知ったばかりの事実の数々が頭の中で混ざり合い、現実感を失う。お母さんの死を思うと悲しいが、この世界への憎しみにつながる感覚はしなかった。どれもが遠い昔話のようで、私自身の今と結びつかなかった。

「私は、今あるこの世界は好きだよ。おじさんの言うように豊かな世界だと思う。お母さんのことはびっくりしたし、悲しいけど、私は何も覚えてないから...」

「シャリならわかってくれると思っていた。この話をするのは集落でも信頼のおける者だけだ。成人とはいえ、信仰の力を利用しなければついてこれない者も多い。盲目の信仰は強力だが、目的への共感には遠く劣る」

 またおじさんは誰かのことを言っているようだった。おじさんの話は過去の影だ。今ここにいる私たちや世界を見ているのか少し不安になる。

「では、見てほしいものがある」

 おじさんは手に持った筒状のものを私に向けて構えた。筒から覗く奈落の底のような穴が無償に気味悪く、目をそらす。おじさんの背後には、ぶちまけたような赤黒い染みがまっさらな壁にへばりついていた。この部屋にあるものの中ではまだ新しく生物的な気配。おじさんは構えを解き、指先ほどの小さな包みを筒に込め始めた。

「シャリ、アイリは恐らくこの世界を壊したがっている。母親の復讐か否か、決定的な理由は分からんが。生体構造物は巨大とはいえ生物、アイリは何か痛めつける手段を感づいているのかもしれない。俺たちはアイツを止めなければならない。これを渡しておこう」

 手渡された筒を握りしめると冷たい固さと重さの中に力を感じた。どこに向かうのか分からない力。良く手になじむ掴みがあって、自然な体制で保持できた。

「これは...?」

「銃。旧時代には誰もが持っていた武器だ。この部分、引き金を指で引くと、筒の指し示す先に弾丸が撃ち出される。旧時代の果て、人間を含むあらゆる兵器を防備していた再生生体防御資材を破壊するため作られた、ネクローシスを誘発する薬剤を込めた弾丸を使用している。命中したのが爪の端だろうと全身を溶かして対象を殺す。つまるところ、この弾丸に撃たれた者は不死だろうとただでは済まない。俺の後ろにあるのは、この銃を侮ったものの末路だ」

 おじさんは背後の壁を指で指した。よく見ると確かに人型に見え、銃を持つ手がぐらぐら震えた。

「かつてこの場所で銃を手に持った男が戯れに自分を撃った。今ではただの染みとなって壁の中に生き続けている。幸い、あらゆる器官が溶けているから意識はないだろう。せめてもの救いだ」

 もう銃に触れるのも嫌だった。


「どうして私にこんな危ないものを...まさかこれでアイリを殺せっていうの?私も一緒に?」

 私にはできない。アイリの話を聞きたかった。どうしてあんなことをしたのか。育ってきた世界と折り合えないか。私と一緒に生きるのでは駄目なのか。20年近く一緒にいたという自負は、私のアイリへの無理解を補強するだけだった。私は彼女のことを何も知らない。

「そんなことは言わない。アイリと話をしてほしい。アイツの考えを知りたい。この世界にはアイリも必要なんだ。そのためにも、アイツとこの世界の妥協点を知らなければ。アイリと話せるのはシャリ、お前だけだ。必要ないとは思うが...この銃は、万が一の時に使え。だがよく考えるんだ。お前が無事に戻ってくること、それが一番大事だ」

「そういうことなら...でもどうしたら。居場所も言うべきことも分からない」

「居場所なら知っているだろう、隠すことはない。もしアイリのことが心配なら、俺に教える必要もない。言うべきことは俺には分からん。それはアイリが思うようにやってくれ。それが一番いいと信じている」

 素直に嬉しかった。アイリのことは何も分からないけど、やっぱり一番アイリに近いのは私なんだと思った。話に行くのは少し怖いけど、私の願いならアイリも無下にはしないだろうと信じた。

「わ、分かった。怖いけど私アイリのところに行くよ。集落にとって...アイリにとって、一番いい今後を探すために。私はあまりに長い間、アイリの表面しか見ていなかった。その償いもしたい」

 おじさんの顔は見る間に明るくなった。崩れた表情が苦労の皺を際立たせた。

「本当に良かった。お前に危険を強いるのは本当に心が痛むが、私たちがアイリのもとへ行っても事態を悪化させるだけだろう。今のアイツには寄り添ってやれる存在が必要だ。くれぐれも銃を使わないで済むように祈っている。少し貸してみろ」

 そういって銃の先端をくるくる回すと、筒の半分ほどが抜け落ちて肘から先くらいの長さになった。軽さ短さはさっきより命の重みを小さく思わせた。

「弾は2発。一発は危機を逃れるために、もう一発は...」

「もう一発は...?」

「もう一発は、自決用だ。万が一だが、不死ゆえに逃れることのできない苦しみに囚われたときに使え」

 銃を握る手に汗がにじむ。震える声で説明を終えたおじさんは、私を隔てて大動脈に向かって祈っていた。真実を知っていることは必ずしも信仰を薄めるものではないのだと思った。

「シャリとアイリ、お前たち姉妹の絆と賢明さを祈る」

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