第2話 私たち

 ふいに目が覚めた。アイリの夢を見た。夢の中のアイリは幼く、暗闇の中でもがいている。誰かの後ろ姿に追いすがり、閉じ込められた自分の影に刃物を突き刺していた。暗転もなく場面が変わる。何かを叫ぶ失踪前のアイリ。音はなく、口元からも何も読み取れない。私は何かを答えたような気もするが、そうでない気もする。必死に思い出そうとする頭からは既にディテールが零れ落ちてきていた。夢の追跡に疲れると、内臓が張り付くような違和感と激しい喉の渇きをぼやけた脳で感じた。今更ながら周りを見渡すと、見慣れた我が家の寝床にいた。地面を覆う筋肉の隆起に穴をうがち、骨で作った大まかな人型の型を押し付けて固定すると、型どおり治癒して窪みができる。あとは厚いメタン袋の中身を換気したものの口を結んで枕にする。それで寝床は完成。旧時代に使われていたという布団もわずかに残っていたが、湿気でじっとりと重く、不快な暑さばかりを籠らせるので大概布服に加工されていた。昔はおじさんの作ってくれた寝床を使用していたが、今の寝床は一年前にアイリと作ったものだ。これもアイリの発案だった。私の寝床の真横にはアイリの寝床。少しずつ一人でできることを多くして、私には独立の痕跡だけを残していく。

「起きたか。水を持ってきた」

「ありがとう、おじさん」

 細長い骨筒から水を飲み、少しむせた。

「落ち着いて飲め。丸二日意識がなかったのだから」

「そんなに...」

「ああ。それより腹は減ってないか」

 おじさんは大動脈から頂いた食料を粉末にし、お湯で溶いたものを用意してくれていた。少し甘い香りがし、弱った体に優しそうだった。おじさんは旧時代の料理に詳しく、食料は味も栄養も昔でいう穀物に近いから調理しやすいとよく言っていた。

「ありがとう。すごくお腹空いてたから嬉しい」

 食べている間沈黙が続く。以前なら気にならないけど、あんなことが起きた後では互いに様子を伺っているようで落ち着かない。おじさんはアイリについてどう思ってるんだろう。

「あの、おじさん。アイリは...」

「ああ。俺もそのことで話がしたいと思っていた。だが今はだめだ。体力が回復してから、まずお前に見せたいものがある。話はそれからだ」

 おじさんはいつになく疲れた表情で、それ以上の追及はできなかった。


 目が覚めてから半日で問題なく歩けるほどに回復し、二日目の朝にはすっかり元気になった。休んでいる間、みんなに農作業を押し付けてしまったのが申し訳ない。大動脈のおかげで食料はいくらでもあるけど、農作業は感謝の気持ちを示すためにも欠かしてはならないと教わってきた。食料は労働の対価ではなく、信仰の対価だと。欲望のために労働する必要がない生活では、人は簡単に堕落してしまうとおじさんはいつも危惧している。少し外に出て散歩もした。私の田んぼは持ち回りで大事に管理されているらしく、いつもよりむしろ元気に見えた。昼下がりの柔らかい発光に肉管のピンクっぽい赤色が揺れ、楽し気に佇んでいるようだった。集落の人々も私を見かけてはざわざわと心配の言葉を掛け、溢れんばかりに自らの食料を差し入れてくれる。いつも通りの日常。示し合わせたように、誰一人アイリの話をしなかった。その光景は変わらない日常の力強さというよりも、異常事態を抑え込む強力な圧力のように感じた。しかし穏やかな雰囲気や人々の表情にはなじみ深さを感じ、私一人がうがった見方になっているのだろうとも思った。寝床から起き上がって周囲を見渡すとおじさんの伝言が肉壁に傷文字で刻まれていた。

(田んぼの様子を見てくる。用があれば骨鈴を鳴らしてくれ)

 用意されていた朝食を手早く食べ、田んぼに向かった。


「起きたかアイリ、元気そうだな」

 おじさんは私の田んぼを世話していた。丁度成人の儀の前に私が植えた肉管が収穫の時期を迎えている。おじさんは背負っている収穫用の臓袋一杯に肉管を放り込み、体液があふれさせていた。田んぼは肉管の収穫痕から出る体液の黒々とした赤に染まり、豊かさを誇っている。

「うん、もうすっかり。休んでる間、いろいろ気にかけてくれてありがとう。田んぼのこともね。私がやるより元気になってるみたい」

「日々への感謝をもってやればいい。結果はただの結果だ。何かあったか」

 次の肉管の根元に骨鎌を当てながらおじさんが言う。

「元気になったから、話をしないといけないなって」

「アイリか」

 おじさんが腰を上げた。赤黒く張った水に午前の発光が斜めに差し込み、畔肉の端から見ると大きな鏡のような光景の中でおじさんだけが暗く長い影を落としていた。

「袋を置いてくるから待ってろ」

「私もついていくよ」


 2、3の田んぼと住居瘤を通り過ぎ集落の中心にある集積場に向かう。私たちの住居瘤は集落のはずれの方だけど、集落そのものが狭いおかげで徒歩の移動に困ることはない。100人ほどの住民と30ほどの住居瘤、付属する田んぼ、それが私たちの世界。狭く、孤立して、ずっと変わらない。決まりから外れたことをする人はいないし、誰も裸馬に乗って遠くに行ったりしない。収穫した肉管は臓袋に溜めたまま、次の収穫祭まで集積場に保管する。場所は取るが、ごくまれに腐敗が広がってみんな駄目になってしまうから小分けしておく。まだ収穫の時期になって間もないからか、他に臓袋はなかった。重くたわんだ臓袋から解放され、おじさんは高く背中を伸ばした。

「見せたいものがあると言ったな、覚えているか」

「うん。気になってた」

「とても大切だが、同時に危険なものだ。成人を迎えた信心深い者だけに見せている。お前も成人を迎えたな。俺が思うに信仰も深い。どう思う」

 アイリの姿が頭をよぎった。変わらない世界でいつまでも二人暮らす私たちの幻想。変わってしまった彼女の後姿。

「自分では分からない。私より信心深い人はたくさんいる。おじさんみたいに」

「謙虚なのはいいことだ。信心深いものが己の信仰を誇示したりしない。それは信仰を利用する輩のやり口だ」

 誰かを思い出しているかのようにおじさんが言う。しかしアイリのことではなさそうだった。おじさん自身のことを言っているのかも知れなかった。


「着いたぞ」

「ここって、講堂だよね?いつも収穫祭をしてる」

「そうだ。何か気になるか」

「厳重に隠された場所のように聞いてたから、拍子抜けというか...」

「ここ以上に重要な場所はない」

 おじさんは何気ない足取りで講堂に入り、静かに息づく大動脈までまっすぐ歩いて行った。収縮口は固く閉じ切っていた。

「見ていろ」

「えっ?」

 言うなりおじさんは突然右腕を収縮口に突っ込んだ。収縮口は一瞬ぱっと開いたと思うと、凄まじい力強さでゆっくりとした蠕動を始めた。引きずり込まれている!

「何してるのっ?!」

 急いでおじさんの体に腕を回し、体重をかけて引っ張ろうとする。なぜかおじさんは自ら収縮口に近づこう体重をかけていた。私の努力も空しく、おじさんの右腕から頭までが飲み込まれ、少しして動きが止まった。

「あっ...あ...」

 ゆっくりと力ないおじさんの体が排出される。左肩から骨盤の右端まで、綺麗に切り抜かれた断面からは、水抜きの終わっていない臓袋のような器官が種々飛び出していた。はみ出た肋骨と鎖骨の林、みずみずしい臓物の茂み、農作業で鍛えた強靭な筋肉の丘、私たちの暮らす大地のミニチュアのようだった。心臓が止まっているから、血は田んぼの水路のように穏やかに流れ出た。頭の中では成人の不死を知っていたし、アイリの時にもたくさんの死を見たけど、おじさんの死は初めてだった。死を見るのはやっぱり怖かった。早まっていく呼吸をまとまらない頭で感じていると、すぐにおじさんの体は再生を始めた。出血が止まると同時に筋肉と骨がもこもこ盛り上がり内臓を包み込む。体が再生するやいなや、頭と腕がそれぞれの根元から競うように伸びだした。呆気にとられたほんの5分程度でおじさんの体は元に戻ってしまった。おもむろに立ち上がり首と腕を回す。座り続けてなまった体を慣らすようなさりげなさだった。直前までの焦りと唐突な安堵でもう泣きだしそうだった。

「ああおじさん...助かって良かった...どこも痛くない?私の顔はわかる?どうしてあんなことを...」

「体は痛いが...俺たちが死ぬことはない。それは知っているだろう」

「それはそうだけど!そういう問題じゃないでしょう...」

 おじさんは困ったように私を見つめる。

「言いたいことは分からんでもない。成人したばかりのお前に配慮が足りなかった。すまん。アイリのことがあったばかりなのに」

「さっきまで死んじゃってたのに何で冷静なの...」

 おじさんは何だか死に慣れてる、ように思う。アイリの言葉を思い出した。

「これは鍵だったんだ。お前の足元を見ろ」

 見ると、大動脈の周囲を固める強靭な筋肉の土壌が割れ、人一人が何とか通れる狭さの通路があった。中は暗く、地下に続いているようだった。

「すごい...」

「普段は隠しているからな。集落を担う覚悟がある者にしか見せない。先ほどの行動もそのためだ。大動脈に喜んで命を捧げる覚悟を試している。行くぞ。私が先導する」

 おじさんは私の手を引いて躊躇なく通路に足を踏み入れる。

「暗いから足元に気をつけろ」

「え、ああ...」

 おじさんが食われた瞬間からずっと、ひどく現実感が薄れていた。今まで当たり前に生きてきた生活が崩れていく。アイリはどこまで知っていたんだろう。


 歩いているうち暗闇に目が慣れ、周囲の環境がわずかに見えた。通路は壁面、天井、階段、全てが骨で覆われている。1本1本の骨が互いにぴったり組み合うよう形を整えられ、僅かな隙間もない。常に暖かな体温と鼓動に包まれた外の世界とはまるで違う。

「ここは集落で最も古い場所だ」

 階段は思いのほか短く、2分ほど降りると行き止まりになった。アイリの持っていた刃物のような光沢の残る金属の扉に、細い管を円形に丸めたようなものがくっついている。おじさんは円を両手で掴み回した。鈍く耳障りの悪いぎいぎいいう音を出しながら扉が開く。

「ここだ。私がお前に見せたかったのは」

 最初に目に入ったのは強烈で冷たい光だった。真っ白で、目を焼く暴力的な光。集落を照らす発光体とは比べ物にならないほど固い。恐る恐るぎゅっと閉じた目を開けると、内部は人を拒むような完璧な四角形で、骨に似ていなくもない灰白色のざらざらした固い素材で覆われた部屋だった。いたるところに足の着いた金属板があり、雑然と用途不明のものがあれこれ置かれている。その全てが、冷たい空気をまとうテカテカした見たことのない素材でできていた。気になるものばかりだったけど怖くて手が出せなかった。

「ここは旧時代の遺跡だ。俺たちがこの世界に飲み込まれるまさにその瞬間まで、どうにかして人間が作り出した答えの一つだ。もっとも、旧時代の水準でいえば何でもないような場所だが」

「すごい...集落にこんな場所があったなんて。なんていうか生きた心地がしない。骨と金属に飲み込まれてるみたい。すごく、冷たい」

「そうだな。少なくともここは、俺たちを育くんでくれる外の世界から隔離されている。暗く冷たい旧時代の産物だ。壁も床も全てが作り物の」

 壁に手を触れながらおじさんは言う。ざらざらと乾いた音を鳴らし、人を寄せ付けない厳しさを感じる。脈も体温もない、静けさに全てを監視されているようで、所在なく入り口に立ち尽くした。

「旧時代の遺産ってこんなに、なんといえばいいか、怖いものばかりなの?部屋全体が何かに備えているようで落ち着かない」

 おじさんは金属製の台に座り込んでいた。手には金属とつやつやした固い材質でできた長い筒を持っている。何やら農作業の道具を確認するような手つきでくるくる回している。

「旧時代の世界を表すのは簡単だ。骨のようにごつごつした土地と、傷口や目を焼く飲めない水。そして何より、人間にとってあまりにも少ない食料。誰もが生きるために奪い奪われる歴史を繰り返した闇の時代。彼らは貪欲に生きようとするあまり多くのものを作り過ぎた。厳しさを増していく世界に絶望し、生き延びるために世界を殺した。皮肉な話だ」

 苦々しい表情で室内を眺めながら言う。その目には憎しみと憐れみが共にあった。おじさんから直接旧時代の詳しい話を聞くのは初めてだった。あまりにも古い世界で、ほとんどおとぎ話のようなものだと思っていた。私にとっての旧時代は金属や布といった便利な道具でしかなかった。

「おじさんはなぜ旧時代のことに詳しいの?アイリの話をするために、わざわざこんな場所に連れてきたのはどうして?」

 おじさんは眠りから覚めたように私へ顔を向ける。瞳には魅入られたような冷たさがまだ残っていた。

「アイリは今俺たちの暮らしている世界をひどく憎んでいる。恐らく旧時代の記憶と関係があるに違いない」

「アイリが?でも旧時代はとても昔のことなんでしょう?」

「お前たちの母親を殺したのはこの世界だ。そしてアイリはそれを覚えている」

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