あなたと二人、血肉の檻で

デカ用水路

第1話 血みどろの再会

 薄く張られた真っ赤な液体が風に揺られてさざ波をつくる。田植えに没頭して凝り固まった背をしばらくぶりに伸ばし、ぼーっと田んぼの端を見た。私の割り当ては情けないほど少ない。縦横、端から端まで大股で十歩もないくらい。成人たちの半分以下だ。それでもまだまだその半分ほどしか肉芽は植わっていなかった。張ったばかりの真っ赤な血液の下では、肉芽の苗床が緩やかに収縮し泡を吹いていた。穏やかな日の午前。空に輝く発光体は輝きを持て余し、見渡す限りの田んぼと居住瘤を明るく照らしている。ここらで作業を切り上げてもうひと眠りしようかと、うとうと考えた。私なりに十分頑張った。地面の筋肉が呼吸するように震えた。

「おいシャリ、そろそろ休憩にしようか」

 背後の声に振り向くとおじさんが整然と肉芽の植わった大きな田んぼを背景に立っていた。

 赤いにょろにょろした群れが気持ちよさそうに揺れている。

「おじさん、もう植え終わったの?すごい!私なんてまだ半分も出来てないよ。でももう疲れちゃって...向いてないのかな」

「そんなことはない。俺はお前より慣れているだけだ。じき上手くやれるようになるさ。大動脈に捧げる労働は、ただ一心に勤めることに意味がある」

 おじさんはでこぼこした畔肉を踏み越えながら私の田んぼに入ってきて、肉芽の様子を見る。そのまま私の方に向き直り、不出来な植え方を見て苦笑した。

「まあ、上手くできないからと言って食うに困ることはないしな。成果よりも、真摯にやるのが一番大事だ」

 少し恥ずかしくなって俯く。私も次の収穫祭では、大動脈に収穫した肉管をささげる成人の儀式を迎えるのに、肝心の肉管が誰かのおさがりでは恰好が悪い。

「こんな時、アイリだったらもっと上手くやるのに」

 ふっと言葉がこぼれる。おじさんは少し不機嫌そうな表情を浮かべた。彼女は何でもそつなくこなした。成人のやる仕事をいち早く覚えて、一人分には十分すぎる働きをしていた。今思うと集落を捨てて一人で生きていくための訓練だったのかもしれない。

「あいつのことはいい。誰もに平等な生活を下さる大動脈の恵みを軽視するものは集落を滅ぼす」

 妹のアイリは2年前に私たちの集落を抜け出し、行方も知れぬどこかへと失踪した。それは丁度、私が成人の儀の準備のために田んぼを授かった日の夜だった。暗く眠った発光体の濃い闇の中、野生の肉管の茂みとメタン袋の藪の方角へと彼女は走っていった。すぐ追いかけるにはあまりに暗く、明朝には僅かな手掛かりすらなかった。

(もうすぐお姉ちゃんまでこの生活の仲間入り。みんなみんなが同じ顔をして同じ生活をする。私はそんなもの耐えられれない)

 おじさんは三日三晩にわたり、飲まず食わずでアイリを探して回った。集落の人が衰弱したおじさんを抱えて戻ってきたとき、この世界で初めて、本当の意味での死人が出てしまうのではないかと誰もが思った。

「ごめん。思い出させるつもりじゃ」

「いいんだ。お前もつらいことはわかる」

 私とアイリはとても仲が良かった。少なくとも自分はそう思っていた。今となっては分からない。アイリは私の見ているものと違うものを見ていた。この世界で意思を持ったその時から、目の奥には私たちとは違う何かが映っていた。

「おじさん、やっぱり私もう少ししやってから休むよ。先に戻ってて」

「そうか?無理はするんじゃないぞ。我々の苦しみは大動脈の苦しみだ。とにかく自分の安楽を考えろ」

「いいの。考えごとしたいだけだから」

 再び肉芽を植えたとき、水面にアイリの顔が映っている気がした。成人の儀がすぐそこに迫っている。


 大動脈を囲む分厚い肉膜と頑丈な骨格のテント、講堂と呼ばれるその建物は集落の住民でごった返している。私はテントの中に据えられた小部屋で、旧時代の布服をまとって待機していた。非常に軽くしなやかで、青い。青は貴重で高貴な色だ。数少ない布服の中でも特別な日にしか着ることを許されない。今日は私が収穫祭の主役だ。成人の儀を担う者として、大動脈の根元にある収縮口に今季の収穫を流し込む。普段は長であるおじさんにだけ許された儀式を代行するのだ。とはいえ、儀式自体はこれが初めての実施となる。集落に他の子供はおらず、年近いとされる人々も既に皆成人しているからだ。私ももうすぐ成長が固定され、この世界のサイクルに組み込まれる。アイリがこの場所にいたら、成人の儀の助手として私とともに晴れの舞台を迎えただろう。私自身その瞬間を夢見ていた。彼女が失踪するあの日までは。

「そろそろ時間だ。手順はいいな」

「うん。大丈夫」

 おじさんの呼びかけに答える。普段と雰囲気が異なり、背筋が伸びる。

「祝詞奏上ののち、骨鈴が三回鳴ったら貢物を持ってこっちに来い」

 小部屋を出たら、参列者に礼をして、部屋の最奥にある大動脈に向き直って一礼。貢物を収縮口に流し込んだらもう一度礼をして退場。何も難しいことはない。ただ、大勢の人の前に出るのが恥ずかしく、上手くやる自信がなかった。

「では、しっかりな。みんなお前の晴れ姿を楽しみにしている」

 おじさんはぶつぶつ呟きながら部屋を出る。手順を頭で三度ほど思い返すうちに声は止まっていた緊張感で時間が引き延ばされる感覚。きん。骨鈴の乾いた音が鳴る。きん。きん。

(よし!いくぞ!)

 部屋の隅にある小部屋から歩み出ると、目前には集落の全員、100人ほどがひしめいている。私の田んぼと大差ない広さのテントは超満員だ。大動脈の真向かいに一つしかない出入り口も圧迫感を増幅し、思わず圧倒される。片手に握った肉袋を握る力が強くなり、臓袋一杯に詰まった肉管がかすかに揺れた。

(落ち着いて私...みんなに礼、大動脈に礼、それから)

 大動脈の前に来て一礼する。一歩踏み出し、臓袋の口を収縮口に近づけ、流し込む。収縮口は大きく開き、何の抵抗もなく受け入れた。微かな安堵が私を中心に人々にまで広がっていくのを感じた。

(良かった、上手くやれた)

 終わってみればなんてことない。緊張でからからに乾いた喉を感じながらそう考えた瞬間、急に背後から押し寄せた圧力で大動脈の根元へつんのめって倒れた。人々の叫び声に遅れて気づく。一体何が?と考える暇もなく、倒れた私の目の前に誰かの肘から先が飛んできた。血が地面の筋肉の隆起に沿って流れ、緩やかな拍動とともに周囲に広がっていくのがスローで見えた。次々合流する血の流れが倒れた私の頬を濡らす。辛うじて背けた顔の先、割れた人ごみのその真ん中に、煙で隠れた見慣れたシルエットが浮かんでいるのを見つけた。揺れる煙がつかの間そいつの顔を曝す。まぎれもない、行方不明になったはずの妹、アイリが帰ってきた。


 右手には紐でかごを括り付けた細長い骨、左手に小さいメタン袋をいくつもぶら下げている。メタン袋をかごに落とし、ぶん回して投げる。爆発。誰かがアイリに飛び掛かる。アイリは腰を落として襲撃を避け、奇妙にきらめく細長い刃物ですれ違いざまに彼の片手を切り飛ばした。吹き出す血。誰かのものだった四肢。積みあがる残骸を避けながら、ゆらゆらとアイリは私に近寄ってくる。背後で大動脈が震え、炸裂するように噴き出る血を浴びた。収縮口からは痙攣したように溶けかけた肉管があふれ出て、床に散乱する大小様々な人間のパーツと混じった。

「久しぶりだねお姉ちゃん」

 いつも心の片隅で待ち望んでいた再会は恐怖の瞬間に終わった。成人を済ませ、死なない身となった今でも死への恐怖が尽きることはない。アイリは私の顔に手を伸ばし頬を撫でた。全身に分厚い干し肉と骨片を腱の紐でつないだ鎧のような衣服を着ている。焦げ付きと返り血の茶色で輪郭がぼけ、本の挿絵に見た枯れ木のようだった。

「ねえお姉ちゃんこれすごいでしょ。集落の外に出ると色んなものが見つかるのよ」

 アイリはたくさんの人を切り刻んだ道具を両手に持って見せつける。昔、綺麗な形の骨を拾った時と同じ仕草だ。アイリは珍しいものを拾うのが好きだった。今、アイリの手にあるのは旧時代の金属でできた片刃の長い刃物だ。大人の肘から先くらいの長さがあり、錆びていない。錆びていない金属を見るのは初めてだった。黙っているとアイリは刃先を素早く振り血を払った。

「死ななくなった気分はどう?」

 アイリが杖を突くように刃先を地面に突き立てた。大動脈のふもとにもたれかかったまま足が動かない。腰が抜けてしまったようだ。右耳の真横に収縮口があり、流れる血液が詰まってごぼごぼいう音が聞こえる。

「どうって...今はただあなたが怖い。どうしてこんなことを、今ままでどこで何を」

「どうもこうもないよ。私がここから立ち去ることを決めたときからずっと、やるべきことは変わらず同じだった。周りを見てよ。これも私が試してみたかったこと」

 私たちは死なない。ぐちゃぐちゃになった人々は徐々に肉と血をその身に取り戻し、覚束ない足取りで立ち上がり始めた。何もかも元通りになっていく。激しく煙る密室の中、突然死んで蘇ったせいか状況がつかめないようで、虚ろな目をしてただどこかを見ている。アイリは彼らを無視して続ける。

「ねえ、こいつらすごく冷静じゃない?突然襲撃されて、隣の人がばらばらに吹き飛んでも聞こえてくるのは痛みの叫びだけ。恐怖じゃない。死なないとわかっててもお姉ちゃんは死に直面して恐怖したでしょう?こいつらは死に慣れてる。死なないってだけで、そんなざまで生きているなんて言える?怪しいでしょう?この生活には何か隠しごとがある」

 アイリは手慰みに隣の人間を切り裂いた。喉を切られ溺れた口から血の泡が飛んできた。

「もうやめて!あなたは何がしたいの。あなたが一人で不満だからって、それが集落の人を殺す理由になるとでもいうの」

「睨まないでよ。私はこの人たちを殺したいわけじゃないの。そもそも死なないし。私はただこの世界の欺瞞を暴いてやりたい。適当なこと言って私たちに恩を売ったような気になりやがって腹が立つ。こんなもの結局どこかで崩れるよ」

 アイリの語気が強まっていく。

「誰も死なない、いつまでも変わらない生活に対価が無いわけがない。その正体を見つけてやる」

 ひとしきり言い終わると、周囲の環境はもうだいぶ回復してきた。先ほどまでの血と肉の乱舞は鳴りを潜め、成人の儀の瞬間に時間が巻き戻っていく感覚だった。しかし、誰もがこちらを伺いながらも、誰一人私たちの間には入ってこない。中にははっきりとアイリに殺されたことを自覚している人もいるだろうに。先ほどまでの惨劇に似つかわしくない沈黙。なんとも不気味な感覚だった。世界に私とアイリだけのよう。アイリがため息のように言う。

「張り合いがない連中ね。まあ今日のところは様子見だからもう潮時かな。お姉ちゃんにこれ渡しておくから」

 薄くのばした干し肉をひっかいたメモで地図が記してある。

「そこに私はいる。誰にも内緒ね。目印しておくからいつでも来て」

 その時、テントの出入り口の一つから聞き覚えのある声が響いた。おじさんだ!いつの間にか姿を消していたが、武器を用意していたらしい。人をかき分けてアイリに近づいていく。

「止まれアイリ!」

 おじさんは骨棒の先端に臓袋を括り付けた器具を携えている。臓袋からは、おじさんが農具を修理する時によく使っていた膠がこぼれた。浴びせかけて鈍らせるつもりだろう。おじさんの檄によって、みんなの虚ろな瞳に光がともり一気に視線が集中した。個人の区別がつかない、無意識の目線。アイリはおじさんの方を向いて刃物を構えた。

「久しぶりだなアイリ。よりにもよってシャリの成人の時に。大動脈のため、集落のため必ず罪は償ってもらうぞ」

「どこ行ってたのおっさん?まさかそんなちゃちな道具を取りに?こんな子供が怖いの?」

 二人は距離を保って対峙する。おじさんの方が不利に見えたが、こちらには人数もいるからアイリも容易に動けないようだ。

「教えてよおじさん。あんたたちは人を不死にして何をしようとしているの?身の安全の代償に何を要求してるの?恒常的な社会なんて嘘。あんたたちが必死に隠している、この世界の中身を教えてよ」

「そんなこと知ってどうする」

「やっぱり何かあるんだね。大動脈に生贄でも出してるのかな?私はこいつが嫌いよ」

 アイリは横目で振り返り、すっかり回復した大動脈を見る。気づかれないようにさりげなくおじさんが半歩距離を詰めた。

「大動脈に頼り切りで、考えることも止めてしまう生活なんてまっぴら。全部壊して、私とお姉ちゃんで生きていくのにふさわしい、私たちのための世界をつくってやるんだ」

 そういうとアイリは後ろ手にメタン袋をぶん投げた。煙に続いて血と肉が吹き飛び、大動脈の脇の壁に大穴が空く。飛ぶようにしてアイリが走り出す。おじさんが一瞬遅れて駆ける。足を引きずって目の届く範囲に移動すると、アイリは重作業用の裸馬に乗って駆け出していた。毛一つない分厚い筋肉の丸太のような八本脚がアイリを激しく揺さぶりながら駆けていく。裸馬に乗れる人間など集落にはいない。おじさんはただ立ち尽くして見送っていた。数秒後こちらに気づき、私に話しかけた。

「ああ...怪我はないか?」

「うん」

「すまないな、急にいなくなって」

「ううん」

「今日はもう疲れたろう。おぶってやるから帰って休もう」

 私たちが立ち去るとき、群衆は何事もなかったかのように解散し、集団が大動脈からあふれ出る食料をせっせとかき集めていた。毎年の祭りと同じ結末。自分さえ早くも先ほどの惨劇から遠ざかり始めていることに気づいた。異常事態だってすべて忘れてさえしまえたら平穏は続くのだと思った。アイリのことさえ忘れてしまえたら。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る