第42話 淡い感情
病室を出て、受付近くにあるコンビニでパンとジュースを買った。バス停の時刻表を確認すると、駅まで向かうバスがあと二十分もかかるみたいで、俺は偶然いまきたバスに乗ることにした。中にいるのは年配の人が多く、四、五人程度で俺は一番後ろの広い席の窓際に腰掛けた。
あまりよく知らない街並みを眺めながら、聞き馴染みのない場所で俺はバスを降りる。ちょうど、曇り空からぽつりと雪が舞ってきていた。
「夏目」
前に来たのは茜に連れられて。お母さんが一度会ってみたいって、といって付き合って一か月記念の日にその家を訪れた。優しそうな茜の母親は美味しそうなパウンドケーキをお茶菓子に出してくれて、幸せそうな家族のもとで育ったんだなと彼女の笑顔を見てそう思った。
表札を見つけたのは、バスを降りて歩き始めて三十分くらい経った頃。彼女の家に行ったのはも半年くらい前だし、たった一度きりだったためにしっかり覚えていなかった。俺は玄関の前に立つと、インターホンを押した。
出てきたのはやつれた顔をした茜の母親で、俺の顔を見るとびくりと体を震わせて、顔を伏せた。「あら、何しに来たのかしら」前に会ったときからは想像できないくらいの冷たい声が俺を突き刺す。
「茜、いますか?」
「いません」
「いますよね。このまえ、西倉が来たと思うんですけど」
「来てないわ。茜もいないから、早く帰ってちょうだい」
「じゃあ茜はいまどこにいるんですか?」
「さあ、知らないわ。あなたには関係ないことでしょ」
「でも」
「うるさい。早く帰ってちょうだい」
俺のことを突き飛ばして、茜の母親は勢いよくドアを閉めた。そのあと何度家のチャイムを鳴らしても、ドアをノックしても母親は出てこなかった。
諦めて帰ろうとしたとき、二階のカーテンが少し動いたことに気づいた。あそこは確か茜の部屋だった。いない、とあの母親は言ったけれどそれはきっと嘘なんだろう。
俺に会わせたくないのは母親の意思なんだろうか。それとも茜の意思なんだろうか。ポケットからスマホを取り出して、茜に電話をかける。ぷるるる、とコール音が一回鳴って、すぐに切れた。
逃げて、どうするんだろうか。このまま、何もなかったことにして、そういう生活を続けるのだろうか。俺はそんな茜のことをどう思えばいいのだろう。
□
雪が積もってきたのか、踏みしめる足の感覚が少しぎこちなくなる。
俺は大きな口を開けて欠伸をひとつ、バスが動き始めると瞼が自然と落ちてきた。視界が真っ暗になると、また嫌なことを思い出す。
その繰り返し。毎日、眠るたびに。
がんちゃんが笑う。がんちゃんが怒る。がんちゃんが拗ねる。がんちゃんが照れる。がんちゃんと一緒に過ごしてきた日々が昨日のことのように俺には思い出せる。それなのに俺の隣に彼はいなくて、心にすっぽり穴があいていて冷たい冬の風が吹き抜けて苦しい。
がんちゃんを失った苦しみを塗りつぶすために西倉への淡い恋心が芽生えたと思う。俺に優しくしてくれる西倉が好きなわけじゃない。俺の弱い部分を知って、それでも見捨てずに一緒に戦ってくれる彼女に恋に落ちた。
好き、と言えば西倉はどんな顔をするだろうか。怒るだろうか、悲しむだろうか、喜んでくれることだけはないことを知っているからこそ口にすることを躊躇ってしまう。
このまま、俺がこの感情を黙っていれば、きっと西倉のそばにいまはいられるだろう。それで十分だと思えたらよかったのに。
窓の外の景色を眺める。家の近くのコンビニが見えて、俺は降車ボタンに手を伸ばした。交通系のICで支払いを済ませ、バスをおりる。雪がまた一段と強く降り始めてきていた。
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