第35話 冬に終わる2

「はあい、どちらさまですかあ?」


 ドアが開きながら女性の高い声が聞こえた。間延びするような気の抜けた声に、緊張していた自分が酷く馬鹿みたいに思えた。

 私の顔を見たその女性は、一瞬ほんとうに誰なのか分からないという表情をしたあと、思い出したように「あ」と声をあげた。


「詩織ちゃんよね、あらあらどうしたの? 茜のこと見に来てくれたの?」


 嬉しそうに笑う茜の母親に、私は正直動揺した。この人は何も知らないのだろうか。いや、そんなわけがない。

 一緒に海に行った友達が死んだことも、高校を退学したことも、全部知っているはずなのにどうして何もなかったかのようにこんな風に笑えるのだろうか。

 

「せっかく来てくれたからお茶でも入れましょうか。あ、そうだ。さっきね、クッキーを焼いたの、茜の部屋にもっていくわね。ほら、どうぞあがって」


 寒かったでしょう、と私の手をとって引っ張った茜の母親に違和感がしたけれど、私は声がでなかった。何一つ変わらない。前に茜の家に遊びにきたときと何一つ変わらないのに、私はその光景が気持ち悪くて仕方がなかった。

 何も「変わらない」からおかしいのだ。


「お、お邪魔します」


 言われるがままに、私は靴を脱いで廊下を進んでいく。茜の部屋は階段をのぼってすぐの角部屋で、可愛いプレートで「茜の部屋」と彼女の字で書かれてあった。私はノックを三回したあとに「あかね」と彼女の名前を呼んだ。返事はなかったけれど、私はここで帰るつもりはなかったから、彼女の許しなんかなくとも勝手にドアを開けた。

 鍵はかかっておらず、ドアは簡単に開いた。茜は部屋の奥の箪笥と本棚と隙間にちょこんと体育座りをして俯いていた。真っ暗な部屋。真昼間なのに、カーテンを開けていなくて、部屋もいろんなもので散らかっている。香水の匂いなのか、独特なにおいが私の鼻を刺激して、一瞬私は入るのを躊躇ってしまった。


「あかね」


 私が大きな声で彼女の名前を呼んでも、頭をあげることはなかった。

 暗い部屋でひとり、彼女はうずくまったまま。


「ねえ、茜ってば」


 電気をつけても、茜が顔をあげることはなかった。私はイライラして、彼女の腕を掴んで立ち上がらせようとしたけれど、その瞬間、茜の瞳が私を睨んで、降りはらわれた。茜の力の衝撃で私は吹っ飛んで地面に叩きつけられる。歩道橋から落ちたときの怪我もまだ治っていなくて、立ち上がるのに時間がかかった。その時間を狙ったのか、茜は私の頭を掴んで勢いよく壁にうちつけた。がつん、と鈍い音が響いて私は意識を保つのが難しくなった。


「あら、茜。詩織ちゃんは?」

「もう帰った」

「あらそう? お茶を出そうと思ったんだけど。ほら、クッキーも」

「あたしが食べるよ。ありがとう」

「そう、じゃあ食べ終わったら食器だけキッチンの方にもってきてね」

「うん。ありがとうお母さん」


 声が聞こえた気がする。茜と茜のお母さんの会話。

 ふと意識が戻って視界が開けると、私はロープで足と腕を拘束されていた。母親との会話が終わって戻ってきた茜が私の驚く顔を見て、冷静な表情で「ひさしぶり」と告げた。「あ、ちがうか。最近も会ったね、歩道橋で」付け加えられた言葉に他意はないのだろう。私はパニックで言葉を失って、とにかくロープをはずそうとじたばたと体をよじった。


「何しに来たの? もしかしてあたしが歩道橋から突き落としたこと怒りにきた? あ、そうだ喋ってもいいけど、あんまりうるさいようだったら口にガムテープはるから、騒がないでね」

「……別に怒ってないよ。茜のことを心配してきたの、おかしい?」

「へえ。詩織って思ってもないことを平然と吐けるようになったんだ。すごいすごい」


 馬鹿にしたように鼻で笑う茜の顔をじっと見る。

 私の方を見ているのに、私のことを視界に入れていないような口ぶりで、ぱちぱちと心のない拍手をして笑う。とても気味が悪かった。

 

 拘束されて転がった私の隣に靴が放り捨てられる。


「ほんと詩織って」


 馬鹿だよね、茜がそう言ったような気がした。


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