第32話 消えゆく記憶
「教師は何もしてくれません。わたしたちが「勝手」にやってることなので、自分たちには何も関係のないことだと思ってるんですよ」
「介入して面倒になることを避けたいんだろ」
「その通りだと思います。大衆の意見ほど怖いものはないですから」
「それで西倉が傷ついて死んだら?」
「そしたら、全校集会で「いじめはダメですよ」みたいな、そんな長ったらしい校長先生の話がはじまるんじゃないですか」
朝のホームルームが始まるまで、職員室を出たすぐの廊下で彼女と話した。真面目そうな印象からは想像できないほど、棘のある辛辣な言葉が彼女の口から吐き出される。
チャイムが鳴って、彼女が「じゃあ」と教室に向かう。俺もついていくように足を進めようとした、のに、足は動かなかった。
どうしてなのか分からない。怖いのだろうか、何が怖いのだろうか。
踏み出す足は鉛がついているかのように重く、一歩進めるだけで心臓がどくんと嫌な感じに脈打つ。教室に近づけば近づくだけ、気分が悪くなるような気がした。何も怖くない、そう言い聞かせる。だって、怖いものなんて何もないんだから。
クラスメイトに責められることも全部覚悟してここまで来たのに、それでも俺の足は思うように動かなかった。
教室に入る前に大きくひとつ深呼吸をした。がらっとドアを開けると、クラスメイトがちらりと俺のほうを見て、そして何も見ていないかのように元に戻る。視線の集中に、気味の悪さを感じて吐き気がした。
「きた」「あいつよくこれたよね」「どんな神経してんだろ」ぼそぼそと聞こえてくる俺への攻撃を、軽くかわせるほど俺は成長していなかった。西倉はどうやってこれを耐えていたのだろうか。西倉は傷ついていなかったのだろうか。
「馬鹿みてえ」
耳栓をしているみたいに、すっと周りの声を遮断する。俺への悪意ある言葉にいちいち傷ついている時間はない。心だけがどんどん黒く染まっていく。周りから死ねと言われているみたいに、鼻で笑ったような嫌みが雑音とともに耳に入る。
ぞわり、込みあがってくる感情はなんだろうか、これは。
■
「ふうん、青山くんは学校行ってきたんだあ」
学校に行ってきたことを土産話として話すと、西倉は一瞬怪訝な表情をして、すぐににこりと笑った。
「どうだった、学校」
もちろん西倉は俺に「楽しかった」という子供みたいな感想を求めているわけじゃないだろうし、俺が苦痛で帰りたかったという事実を口にすることはしないということも分かっていたのだろう。
「別に」
思春期の子供のような返答をして、俺はそっぽを向いた。
今日、一日教室で過ごして分かったことがある。
視線で人は殺せるのだろう。何も言わずとも、悪意ある視線は皮膚をじりじりと傷めつけて、気づかないうちに心まで侵食していく。ふと、気が付くと足が空を踏んでいるのだと思う。命を軽んじているわけではなく、もうどうしようもないんだ。恐怖と、後悔と、嗚咽と、不安が全部入り混じって、感情がゆっくり崩壊していく。そうやって、我慢できる範囲を超えて、そして死を選ぶんだろう。
「西倉はさ、死にたいとか、思ったわけ?」
「なんで?」
「クラスのさ、自分を見る目がさ、がらって変わったわけじゃん。クラスメイトはなんの事情も知らないし、西倉は何もされなかったわけ?」
「何かされたとして、私が自殺したりすることはないよ」
「……何かされたのかよ」
「それは関係ないよ。人間なんてみんな自分勝手だもん。馬鹿やって人が死んだことに無関心な人、呆れる人、自業自得だと鼻で笑う人、人殺しだと責め立てる人、みんなそれぞれだよ。私も、もしかしたら立場が違ったら今とは違う感情が芽生えてるかもしれない」
笑う西倉を見て、俺は動揺した。
あの殺すように鋭い視線を、悪意を、言葉を受けても西倉は変わらない。西倉は強いから大丈夫だと、勘違いしてしまいそうになる。
「青山くんは、大丈夫?」
「……なにが」
「久しぶりの学校だったから、不安だったんじゃないかなって」
「だから、平気だって」
「本当はね、一緒に登校してあげるべきだと思ってたの。クラスがどんな感じになってるのか、青山くんが嫌な気持ちになることが分かってたから。ごめんね、ひとりにして」
どうして西倉が謝るのかが分からなかった。
ひとりにしたのは俺だったのに。
「人の噂も七十五日っていうし、そろそろ終わるよ。いつかみんな忘れるから」
「がんちゃんが死んだことも?」
「私は忘れないから。青山くんも、忘れないでしょ?」
西倉の言葉には芯があって、直線で俺の心に突き刺さる。俺は上手く言葉が紡げずに、こくんと首を縦に振るだけでいっぱいいっぱいだった。
がんちゃんの死を思い出すと、涙がこみあげてきそうになったけれど、西倉の前で泣くのは恥ずかしかったから必死で堪えた。
俺たちは忘れない。がんちゃんの死を絶対に、忘れない。
それで傷ついて後悔することになったとしても、俺たちはがんちゃんのことを一生忘れない。
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