第30話 冬がくる

「もういやだ、こわいよ。もう、誰も傷つくところ見たくないだけだもん」


 初めて見た、と思う。西倉が泣いているところを。

 いや、あの夏の日も西倉は泣いていたはずだ。だけど、俺は勝手に西倉は大丈夫なのだと思っていたのかもしれない。両手のてのひらで顔を覆って、彼女はぼろぼろと滝のような涙をこぼす。ごめんなさい、ごめんなさいと何度も繰り返し呟く姿に、俺は自分の軽率な行動を悔いた。

 どうして、俺は西倉を家までちゃんと送っていかなかったのだろう。どうして俺は、大事な人を傷つけてばかりなのだろう。

 

「茜に、突き落とされたってことであってるんだよな」


 西倉が歩道橋から落ちた、と聞いたとき、まず最初に茜の顔が浮かんだ。まさか、と思うと同時に、心の奥底では「やっぱり」と思った。茜がおかしいことにずっと俺は気づかないふりをしていたのだと思う。だって、茜は俺の恋人だから。茜を信じてあげられるのは俺だけだから。そう、俺は雁字搦めになっていたんだろう。西倉と同じように。

 隣にいた西倉のクラスメイトがこちらをじっと見る。「わたし、出ていったほうがいい?」聞かれてすぐに俺は西倉の顔を見た。西倉は首を横に振って、そいつの腕を強く掴んでいた。「ごめん、委員長」お願いだから行かないで、と言ってるように俺には見えた。


「私は今まで茜のいい友達を演じてきたはずだった」

「……」

「うまくいってたはずだったんだ」

「……」

「きっかけが、あったはずなの」

「……?」


 西倉は涙でぐちゃぐちゃの顔で俺をじっと見る。目の縁にたまった大粒の涙がまたこぼれ落ちていく。彼女の唇は少し震えていて、言葉にするのに時間がかかっていた。


「茜はたぶん、岩田くんのこと好きだったんじゃないかな」



 がんちゃんと茜の関係を深くは知らない。がんちゃんが茜のことをあんまり好きくないのは分かっていけれど、明らかに嫌いという態度を俺の前で見せたことがなかったから、西倉が「岩田くんは茜のことが嫌いだった」という話を聞いた今も、俺は正直半分くらいは冗談だと思っている。

 茜もがんちゃんもお互いのことを中学の同級生としか言ってなかったし、それ以上の干渉もなかった。でも、西倉の言うことがすべて正しいのなら、がんちゃんが俺に恋人ができたときに喜ばなかったことが納得できる。


 中学時代に、がんちゃんと茜には何かがあった。


「私がはじめて岩田くんと話したとき、茜の写真を木っ端微塵に破り捨ててたよ」

「がんちゃんはそんなことするような奴じゃないだろ」

「それは青山くんから「見た」岩田くんであって、それが岩田くんのすべてじゃないんだよ。私の知ってる岩田くんは怖いくらいに茜のことを嫌ってた。いつも、私に茜とは縁を切ったほうがいいって、そう言ってくれてた」


 言葉がどんどん、どもっていく。

 暖房があまりきかない部屋なのか、やけに寒くて、西倉のクラスメイトがひざ掛けをわざわざ持ってきてくれた。


「私は忠告をきかなかった。茜の友達でいることが私の義務だったから」

「でも、がんちゃんが死んだ今、それが間違いだったって気づいたってこと?」

「わかんない。茜がいま、どうしたいのかが私にはわかんない。だけど、私を突き落としにきたってことはたぶん」


 西倉の言葉を遮るように面会の時間の終了の時刻を知らせるベルが鳴る。スマホで時間を確認して、俺は座っていたパイプ椅子を片づける。


「ごめんね」


 西倉は言葉を続けなかった。


「委員長、今日はありがとう。きてくれて嬉しかった」

「ううん。わたし何もできなくて、ごめんね。また明日もくるね」

「青山くんも、ありがとう。ごめんね」

「……ゆっくり休めよ」


 西倉は笑顔で手を振っていた、ように見えた。病室をでたあと、西倉のクラスメイトがちらりと俺の方を見た。「大丈夫、ですか?」とぼそっと小さな声での問いかけに、俺は驚きながらも「大丈夫」と答えた。


「遅いし、俺、送っていくわ」

「……え、わたし電車なので大丈夫ですよ」

「いや、なんていうか西倉もこんなふうになったばっかだから、ちょっと、なんていうか。あんま知りもしない奴に送ってもらう筋合いないってのはそうなんだけど、心配だし最寄駅までくらい送らせて」

「え、ああ、……じゃあお願いします」


 こんなふうに小さなことで敏感になってしまう自分が酷く滑稽だ。

 この女が西倉と同じような目にあう可能性なんて、きっと0に近いだろうに俺は怖くて仕方がない。裏口から面会パスを返してふたり外に出る。風がやけに冷たくて、くしゃみが出た。


「寒いですね」

「そうだな」


 会話はもちろん弾まない。西倉に関係がある人間なだけなわけで、この人は俺と関わりなんて本当は持ちたくないだろうし、きっとそれ以上に厄介だと思われているはずだ。


「……西倉さんのこと、助けてあげてくださいね」

「……え」

「青山くんは、責任があるんですよ、こんなこと言うのはあれですけど被害者面しないでください。わたしはひとりでずっと戦ってきた西倉さんを見てきたから、あなたのことをずるい奴だと思ってます。西倉さんに責任をおしつけて逃げた最低な人だって。だけど、今日、必死で走って病院に来たあなたを見て、少しだけ期待しちゃったんです。お願いです、西倉さんを救ってあげてください。もう、泣かせないでください」


 絞り出すような声で、彼女が連ねていく言葉は俺の心臓をゆっくり突き刺していく。俺は学校での西倉を知らないし、むしろ勝手に大丈夫だと思い込んでいた。

 だけど、やっぱり西倉だって傷ついている。当たり前のことに、俺は気づけなかった。


「青山くんにしか、できないことですから」


 電車をおりると、クラスメイトの彼女は一礼をして帰っていった。ひとりぽつんと俺は棒立ちしたまま、夜の景色を眺めていた。

 想像以上に寒くて、手がかじかむ。はあ、と息であたためようとしても、自分の息すら冷たく感じる。空を見上げると大きな月が俺を見下ろしていて、自分がとても小さな存在だということに否応なしに気づかされる。

 駅のホームに落ちた葉っぱと、強い冷風に冬を感じた。まだあの夏に決着がついていないのに、冬は俺を覆いつぶすように背後から襲ってくる。俺はまたくしゃみをして、鼻水をすすった。「さぶい」と呟きながら俺はスマホで電車の時間を確認していた。

 

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