第18話 一歩目
「茜と付き合うことにしたんだ」
がんちゃんは俺がそう言ったとき、どんな顔をしていたのだろう。今となっては思い出せない。がんちゃんが「ふうん」と軽く相槌をうって、俺から目を逸らしたことだけ鮮明に覚えている。
三年になっても持ち上がりだからクラスメイトも担任も変わらない。何も変わらない日常の中に、恋人ができた。「おめでとう」と、親友にはそう笑ってほしかったけど、彼は結局何も言わなかった。そのときほんのちょっとだけ、俺は、
がんちゃんが茜のことをすきだったんではないか、とそんなことを考えた。
■
西倉が言っていたことがよく分からなかった。
がんちゃんが俺のことを守りたかったなんて、そんなこと彼は一度も言葉にも行動にも表さなかったし、いつも一緒にいたけれど、むしろがんちゃんを俺が守っていたくらいだ。
いきなり通話を切られ、複雑な感情を抱えながらも俺はため息をついて頭をかいた。西倉があれだけ取り乱すのは初めてな気がする。
何も知らなくていい、とはどういうことなのだろう。部屋から出て階段をおりながら電話の内容を思い出す。「茜から青山くんを守ろうとしていた」と主張する西倉の言葉は真剣で、嘘や冗談を言っているようには聞こえなかった。だけど、茜が俺に何かしてくるなんて、そんなことがあるわけない。馬鹿みたいだ、と鼻で笑って俺はキッチンの冷蔵庫を開けて麦茶をコップに注いだ。
「ごめんね」
お茶をコップ一杯飲み切った後にスマホがぶんと振動した。通知にはその短いメッセージが入っていて、それが西倉からだと気づくのに時間はかからなかった。
「別に大丈夫」と俺も返信を打つ。
西倉に迷惑をかけていることは十分といっていいくらい分かっていた。このまま逃げてもどうしようもないことは、俺自身が一番わかっている。それなのに、俺は未だに玄関から一歩も外に出れない。
人殺し、夏のあの日の西倉の声が聞こえる。
御崎海岸に行き先を決めたのは俺だった。遊泳禁止だと分かっていたのに、大丈夫だと思い込んで、そのうえ親友を巻き込んで死に追いやった。
茜の「大丈夫だよ」と笑う顔と「本当に行くの?」という不安な西倉の顔が交互に脳裏に浮かぶ。
最後にがんちゃんが俺に手を伸ばして、俺が掴もうとした瞬間、高波に攫われて一瞬でいなくなってしまう。口は「人殺し」と動いて、にっと笑うんだ。泣いても、喚いてもがんちゃんは帰ってこないし、俺の罪が許されるわけじゃない。
だけど、夏に囚われ続けることも許されない。
「私たちは、前に進まなくちゃいけないんだよ」
西倉の言葉を思い出す。このままじゃだめだと、彼女は俺の手を掴もうとしてくれている。人殺しの俺でも、許せなくても、それでも必死で助けようとしてくれている。俺は早くこの夏から抜け出さなければならない。
「西倉」
階段をのぼる。まるで足の付け根に錘でもついているかのように、右足を一歩前に出すだけで苦しかった。
苦しいのは俺だけじゃない。目の前で大事な人を失ったのは俺だけじゃない。
西倉も波にのまれていくがんちゃんを見殺しにしたショックで本当は苦しいはずなのに、それでも前に進もうとしている。
彼女のことをかっこいいと思う。彼女みたいになりたいと思う。
俺も、一緒に前に進みたいと、そう思う。
スマホの写真フォルダの中の笑ったがんちゃんの写真を見る。
がんちゃん、と親友の名前を呼ぶ。俺の頭の中の彼はやっぱり俺を「人殺し」と罵るけれど、それでも俺の知ってる彼はそんなことを言わないから。
ぐっとつばを飲み込む。どれだけ苦しくてもちゃんと罪と向き合う、そう決めた。クローゼットに仕舞ってあったクリーニングの終わった制服を取り出す。
前に進む。がんちゃんと向き合うために、俺は頑張ると決めたんだ。
もう何日もめくっていないカレンダーを久しぶりにめくる。季節は冬に近づいていた。
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