第3話 魚の缶詰と「キス……欲しい?」

 一週間後、夏休み中の登校日がやってきた。

 うだるような暑さの中、秀一しゅういちは支度を済ませて家を出る。


 家の門前には、何故か宮子みやこの姿があった。

 宮子とは家が隣同士だが、普段はバラバラに登校している。

 何か用なのだろうか。


「おはよう、しゅーくん」

「おはよう。宮子、今日はどうしたんだ?」

「うん……あのね? 一緒に学校、いこっ?」


 宮子は上目遣いで、少しだけ甘ったるい声で言う。

 宮子が好きな秀一としては、これの誘いに乗らない手はない。


「よし、行こう」

「うん! あの……手、握っていい……かな?」

「いいよ」

「ありがとう! えへへ……」


 秀一は宮子に左手を握られ、ドキドキしてしまう。

 夏の暑さもあるため、手汗が気になって仕方がない。


 一方の宮子の手だが、少し温かい。

 けれど手汗は感じず、触り心地がとても良かった。


 学校に到着した秀一と宮子は、学友たちと久しぶりの再会を果たす。

 男友達と夏休み中の出来事を語らい合っていた秀一だったが……


「──御門みかど君、なんですかその黒い肌は!?」

「うわっ!?」


 背後から大声で叫ばれ、秀一は思わずたじろいでしまう。

 後ろを振り向くと、そこにはクラスメイトの美少女・伏見ふしみ姫華ひめかが立っていた。


 日焼けなど感じさせず、汗一つかいていない、雪のような白い肌。

 長い黒髪は手入れがきちんとされていて、とても綺麗だ。

 身長はそこそこ高く、出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいる。


「御門君ともあろうお方が、外で遊び呆けていたというのですか!? 不良になってしまったのですか!? なんと嘆かわしいっ……!」


 秀一の記憶が正しければ、姫華は風紀委員も務めていたはずだ。

 確かに風紀の乱れを取り締まるのは大事だが、外で遊ぶくらいどうってことはないと秀一は思う。

 それをわきまえた上で、正直に答えた。


「遊んでなんかない」

「えっ……じ、じゃあ……日焼けサロン……? 優等生って思ってたけど、結構やんちゃなのね……?」

「それも違う。俺、毎日ランニングしてたんだよ」

「え、ええっ!?」


 姫華は目をパチパチとさせ、瞠目している。

 キス魔王こと御門秀一は、学校では一応「運動音痴」で通っているのだ。

 姫華が驚くのも無理もない。


「こんな暑い中、よく走れますね……私なんて、歩くのすら億劫ですよ」

「まあな。だがそれを乗り越えれば『悟れる』んだ」


 秀一は1週間前のキスを思い出す。


 あの時公園で熱中症にならなければ、宮子にキスされることはなかった。

 朦朧とした意識の中で、快楽と愛情を味わうことなんて出来なかった。

 キス魔王として覚醒することもなかった。


 まあそれを馬鹿正直に風紀委員に伝えるわけにも行かないので、「悟り」という言葉で片付けているわけだが。


「熱中症には気をつけてくださいね?」

「あ、ああ……気をつける」


 もうやらかした後だが。

 秀一は変な冷や汗をかきながら返事をする。


「と、ところで……末広すえひろさんとは、どうなのですか……? クラスでも異常に仲が良すぎる気がしますが、もしかして夏休み中に会ったりしているのでしょうか……?」


 「非常に」の聞き間違いかな?

 秀一はそう思いながら、何故か顔を真っ赤にして身悶えている姫華に返事する。


「宮子……えっと、末広さんは家が隣同士だからな、よく会ってるよ」

「あっ……」


 姫華は、固まってしまった。

 秀一が目元で手を振り「おーい」と呼びかけても、なんの反応もない。


 姫華はどういうわけか、放心しているようだった。



◇ ◇ ◇



 そのあと全校集会が行われ、ホームルームなどが終了し、ついに放課後となった。


「しゅーくん、一緒に帰ろう?」

「そうだな……その前に、ちょっと屋上で風に当たりたいんだが」

「うん、わたしも一緒に行くよ……いい、かな……?」

「もちろんだ」


 秀一と宮子は、誰もいない屋上へ上がる。

 雲ひとつない青空が広がっており、風が非常に気持ちがいい。

 ……まあ、蒸し暑くなければの話だが。


「宮子、今日昼飯はどうするんだ?」

「ママが作ってくれてると思うから、お家で食べるよ」

「そうか……実はな、通販で『似鱚ニギス』の缶詰を買ったんだよ。それが昨日届いたから、今日の昼に食べようかなって思ってて」


 似鱚とは、キスによく似た全長20センチほどの魚である。

 秀一が購入したものは京都府産で、一缶500円プラス送料300円で、合計800円もする品物だ。


 ちなみに、本物の鱚は手に入らなかった。


「キスの、缶詰っ……!?」

「いや、実は似鱚ってのは鱚とは別種らしいんだ。生物学的には何の関係もないんだって。まったく紛らわしいよな」

「うん、そうだね……」

「でも似鱚、食べたい? キス……欲しい?」

「うん、ほしいな……?」


 宮子は瞳を潤ませ、上目遣いで秀一を見つめた。

 その可愛さに、秀一は生唾を飲む。


「じゃあタッパーを持って、俺の家に来てくれ。分けてあげよう」

「ううん、今じゃなきゃダメ。早くキスがほしい」

「宮子は欲しがりさんだな」

「もう、しゅーくんのいじわる──少ししゃがんで?」


 言われた通り、秀一は宮子に目線を合わせるように屈む。

 宮子に両頬を優しく撫でられ、ドキドキしてしまう。


「じゃあ……キス、いただきまーす……」


 艶のある唇が、ゆっくりと近づいていく。

 秀一はこれから行われるであろう「儀式」を想像し、そして夏の暑さに頭をやられ、鼻息が荒くなる。

 新鮮な空気はとても熱くむせ返るほどだが、それすらも心地が良い。


 唇と唇が触れる……

 ──その直前。


「──あなた達、何をやってるのですか!?」

「うわあっ!」


 女の金切り声が聞こえてきたので、秀一と宮子は驚きのあまり、後ろに転んでしまう。

 声の主は、クラスメイトで風紀委員の伏見姫華だった。

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