第8話 王子様
公園に、男の死体はなかった。テレビで見たことのある「殺人現場」のようなテープも貼ってなかった。
私は意を決して、自分が襲われた場所まで歩いて行った。松岡くんが後ろからついてきてくれる。
驚くほど大量の血が吹き出ていたように見えたのに、残っていた血痕が意外と少ないことに安堵する。私が使ったレンガはまだそこに転がっていて、角の部分に血がべったりと付いていたが、後は雑草や花壇に赤黒いシミができている程度で、気を付けて見ないと分からないくらいだった。
私は小刻みに震えていた。昨日の恐怖が蘇る。でも(死んでなかった。)と思うとほっとして、膝がガクガクした。
松岡くんが「大丈夫か。」と尋ねる。
私はなんと言っていいかわからずに、下を向いて震える膝で立ち尽くす。
「しょうがねえな。」と松岡くんがぼやいた。「ついてこいよ。」と言って歩きだす。
私は言われるまま、松岡くんの後をついて行った。
商店街を抜けて、さらに20分ほど歩いたところに、公団があった。築30年は建っていそうな古い建物の一角に、松岡くんは迷いなく歩いて行く。エレベーターがないその建物の階段を登って三階に、その部屋はあった。
松岡くんは鍵も使わずにドアを開ける。最初から鍵はかかっていないようだった。玄関にパンプスが何足かが散らばっていて、生ゴミの饐えた匂いがプンと鼻についた。
松岡くんは玄関で靴を放り出し、中に入る。振り返って「入れよ。」と言った。
「ここ、松岡くん家?」玄関先で私が聞くと。「おう。」と言いながらさらに奥へ進む。
私も慌てて靴を脱ぐと、松岡くんの後を追った。
そのアパートは、びっくりするくらい散らかっていた。畳の部屋には、洗った後なのか洗う前なのかわからない衣類が山積みされていて、キッチンは洗い物がいく層にも溜まっていた。ゴミ箱はゴミで溢れんばかりで、周りをショウジョウバエが数匹飛んでいた。
松岡くんは、キッチンのテーブルからメロンパンを掘り出し、冷蔵庫から缶ビールを二本取り出した。松岡くんに促されて、私はアパートのさらに奥の部屋へ行く。
その部屋のドアは、半分しか開かなかった。半分開いたドアに体を滑らせ、松岡くんが中に入る。私もそれに続く。
「足の踏み場もない」を比喩でなく実現した部屋を私は初めて見た。床に散らばった本や衣類やその他よくわからない雑多な物たちを、松岡くんは踏みつけながら窓へ向かい、カーテンと窓を開けた。それから、足で物をグイグイと押しやって、窓際に二人で座れる分だけのスペースを作った。
松岡くんがそこに座ったので、私もいろんな物を踏み付けながら窓際へ行き、隣に座った。
松岡くんが私にメロンパンを投げてよこす。
「空きっ腹でアルコール飲むと、すぐに吐くから、まずそれ食え。」と言われ、私は素直にメロンパンの袋を開ける。いつ買ったのか分からないが、カビは生えていない。賞味期限は見ないようにして、私は一口齧る。そのとたん、急に空腹を覚え、私は数分でメロンパンを食べ終わった。
私がもそもそとメロンパンを食べている間に、松岡くんはビールをプシュッと開けて、チビチビと飲み始める。私が食べ終わるのを見ると、私にもう一つの缶を手渡す。
たまに父と母の晩酌に付き合うので少しは飲めるが、ビールは苦いので好きではない。なのに、今、この世で一番必要な飲み物に思えた。私は一口ビールを飲み、ふうと息を吐いた。
「良かった、死んでなくて。」と私が言うと、松岡くんもビールを一口飲んだ。
それから私たちは、黙ってビールを飲んだ。私は、部屋にランダムに散らばっている漫画本や小説を眺めていた。本棚に入っていなくても、かなりの冊数だと分かる。
一本目が無くなるころは、もう夕方になっていた。あれからずいぶんと長い時間が経った気がする。松岡くんは、キッチンに入ってもう二本、缶ビールを持ってきた。一本手渡され、私は「ありがとう。」と笑った。
私の腫れ上がった顔をじっと見た後、「死んでも別によかったんじゃないか。」と松岡くんが言った。
「殺人罪で捕まりたくないもん。」と私が言うと
「過失致死罪だろ。それに、どう考えても正当防衛だ。」と松岡くんが突っ込む。
「松岡くんって、けっこう本とか読むの?」私が聞くと、松岡くんは顔をしかめた。
「別に、難しい本は読まねえよ。」
少し照れているように見える松岡くんに、「何読むの?」と重ねて尋ねる。
松岡くんは仏頂面で視線を遠くにやる。十数秒間の沈黙が流れる。教えてくれないんだろうな、と思っていたら、
「歴史物とか。司馬遼太郎とか好きだ。」意外とあっさりと教えてくれた。
「司馬遼太郎かぁ。私『おーい龍馬』なら漫画で読んだよ。」と私が言うと
「それ、作者が違うだろ。別の作品だよ。」と突っ込まれた。
「それに、『龍馬が行く』より『燃えよ剣』のがいい。どっちも幕末だけど、負けたやつ側の話しのほうが好きだ。」
意外と饒舌になってきたな、と思う。お酒が回ってきたのかもしれない。私も少し頭がふわふわしてきた。
「なんで?」と私が聞く。
「負けたやつは、ふつう、何も言えねえだろ。負けた方が何言っても、どうせ誰にも聞いてもらえない。だから、負けたやつの言葉を書く誰かがいて、それが後まで残るっていうのが、なんか嬉しいんだよ。」
「ふーん。」と私は感心して頷いた。意外といろいろ考えているんだなぁとぼんやり思う。
「でも、龍馬も死ぬじゃん。」と私が言うと、松岡くんは少し笑った。
「みんないつか死ぬだろ。生きてるやつは一人残らず。」
「ほんとだ、そうだね。」と私は目を丸くする。そうだ。今生きている人間は、一人残らずいつか死ぬ。勝者も敗者も。富める者も貧しい者も。いじめっ子もいじめられっ子も。みんな死ぬという点では平等だ。
酔いがどんどん回って、ぐるぐるする頭で一生懸命考えを整理しながら、私は松岡くんに伝える言葉を探す。
「いつかみんな全員死ぬって思ってたら、私の人生で今起こってること全部、その外側から見てる気分になって、いいね。なんか、なんでも大したこのないように思える。」うまく言えないし、よくわからない。でも、松岡くんには通じているといいなと思う。
「言ってること、なんとなくわかる。」と松岡くんい言われて、私は嬉しくなる。
「お前さ、もっと笑ったり話したりすればいいんじゃないの。」突然、松岡くんに言われて私は怪訝な顔をする。
「取っ付きにくいんだよ、お前の顔。」
そう言われて「分かってる。」と私は呟く。
「みんな、本当はお前に近づきたいんじゃねぇの。」と松岡くんが言う。
私は松岡くんを一瞬見て、何かを言いかけてやめる。すぐに視線を逸らして薄く笑った。松岡くんは下を向いてため息をついた。
「あそこ、出た方がいいな。」と松岡くんがこぼす。
「あそこ?」と私が聞く。ビールを少しすする。松岡くんも同じようにビールを一口すする。
「学校。この街。」と松岡くんが答える。
「松岡くんは、出てくの?」私が聞くと、松岡くんは頷いた。
「近々、学校辞めて働く予定。叔父さんが引っ越し屋やってて、雇ってやってもいいって話しになってる。」
「ふーん。寂しいなぁ。」酔っ払っているので、素直に言葉が出てくる。
松岡くんは少し照れたように笑う。
「お前も、この街を出て、どっか違うところに行ったほうがいい。お前みたいな美人がゴロゴロいるようなところにさ。」
松岡くんは、今度は本当に照れた顔になって黙る。顔が赤いのはアルコールだけのせいではないようだ。私は嬉しくなって松岡くんに抱きついた。この日、私はお酒の一番の効用を知った。「お酒を飲んで気が大きくなる」とはなんと便利なことだろう。
松岡くんの心臓がバクバクと早鐘を打っているのが聞こえる。私はその胸に顔を埋めた。松岡くんの汗とタバコの匂いがした。数秒間固まっていた松岡くんは、深呼吸をすると、体の力を抜いた。私を抱き返して頭をぎこちない手で撫でてくれる。幼い頃、母にそうやって抱かれたことを思い出した。私たちは、しばらくそうしていた。
私はぼんやりと白雪姫のストーリーを思い出す。城を追われた白雪姫は、森で襲われ、命からがら逃亡し、七人の小人の家に転がり込む。その後、毒りんごを食べて死んでしまう。通りかかった王子様のキスでよみがえる。
襲われた私を助けてくれた松岡くんは、七人の小人の一人なのかな。それとも、王子様なのかな。この王子様はキスしてくれるのかな。クラクラ回る頭で支離滅裂なことを考える。
私は顔を上げて松岡くんを見つめた。少し戸惑ったように私を見つめてから、王子様はキスしてくれた。唇が柔らかくて気持ちいい。胸がドキドキする。泣きそうなほど幸せな気分だ。この時間がずっと続けばいいのに、と思う。
その瞬間、急に吐き気に襲われた。私は体を急いで起こして口に手を当てた。松岡くんもびっくりして体を起こす。
「…吐きそう。」と私が言うと、松岡くんは慌ててゴミ箱を持ってきた。
ゴミ箱の中に盛大に吐く。松岡くんは急いで水を持ってきてくれる。松岡くんに背中をさすってもらいながら、私はお水を飲んでは吐いた。吐瀉物の匂いが立ち込める。気持ち悪いのに加えて、情けなくて恥ずかしくて涙目になる。
自分の顔が殴られたせいでひどい有様なことを思い出す。(こんなお岩さんみたいな私にキスしてくれたのか。)と気づいて、嘔吐しながら(松岡くんが、大好きだ。)と思った。
吐いてしまってスッキリした私は家に帰ることにした。せめてもの罪滅ぼしに、私はゴミ箱の中身をトイレに捨て、洗面所で簡単に洗った。トイレも洗面所もギョッとするほど汚なかった。松岡くんは私が目立たないように、顔にマスクを付けさせ、男物のコートを羽織らせた。私がまだ千鳥足だったので、おぶってくれた。
新月で星がキラキラ輝く夜道を、松岡くんは私をおぶって私の家まで歩いた。松岡くんの背中の体温を感じて後頭部の匂いを嗅ぐ。こんな幸福な気持ちになったのは初めてだった。
今日のことは絶対に忘れないと思った。宝物のように何度も思い出すのだろう。私はそっと目を閉じた。
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