第2話 松岡くん

 朝、時間通りに登校すると、靴箱にある私の上履きに土が盛られていた。朝からげんなりする。


 無視をされるのも地味にストレスだが、これといって実害はない。物理的な被害を被るような嫌がらせは本当に疲れる。下駄箱の中の土を片付け、上履きを洗わなければいけないのは私なのだ。最近はこの手の嫌がらせから解放されてほっとしていたが、また何かが始まったようだ。


 この前、テニス部の可愛い(らしい)娘と付き合っているはずの男子からラブレターを貰ったが、すぐに捨てて返事をしなかった。面倒に巻き込まれたくなかったからなのだが、返事をするべきだったのかもしれない。今日はテニス部の可愛い子ちゃんの「親友」たちから、吊し上げられるのかもしれないと思った。それとも、その彼氏くんから報復を受けるのだろうか。どちらにせよ、今日は気分の良い一日にはならないのだろう。私は溜息を吐いた。


 とりあえず来客用のスリッパを履いて、重い足取りで教室へ行った。教室に入るなり、私のスリッパを見てクラスメートの数人がクスクスと笑った。


 机の上に花瓶に挿した花が飾られていた。古典的だ。うんざりする。無言で花瓶を持ち上げ、教室の背後にあるロッカーの上に置いた。椅子に画鋲などが置いていないか確かめ、私は腰を下ろす。完全に椅子を腰に下ろす前のタイミングを見計らって、誰かが椅子を後ろに引いた。私はよろめいて尻餅をつく。(ちっ)と心の中で舌打ちをするが、声に出さないように気をつける。


 私が尻餅をつくのを見て、周りにいる数人が吹き出した。その様子を気の毒そうに、もしくは怯えた目で遠巻きに見ているクラスメートの方が数は多い。そのことにいつもながら安堵を覚える。人類の全員がくだらないわけじゃない。


「ねえ、なんでここにいんの?」とスカートの短いクラスの女子が私に絡む。椅子を引いて私に尻餅をつかせた子だ。「死んだかと思って、花飾ってたのに。」とニヤニヤしながら言葉を続ける。


 うざい。疲れる。昼ドラか。安い芝居に辟易する。


 私はその女の子を睨んだ。私は意図的に「人を殺しそうな目」をすることができる。簡単だ。本当に死ねばいいと思っているからだ。(死ね)と呪いをかけながら、その子を氷のように冷たい目で睨む。


 スカートの短い女子は「ひっ」と息を飲んで後ずさりした。「美人が凄むと迫力がある」とどこかで読んだことがある。この時ばかりは私の容姿の効果に感謝する。


「お前が死ねよ。」私はその女子を睨みながら、静かにはっきりと言い放った。


 その子の顔がカァーっと赤くなり、みるみるうちに目から涙が盛り上がった。顔を手で覆って泣き始める。「親友」たちがその子の周りを囲んで慰める。


「柏木さん、ひどいじゃない。」と私を咎める親友ちゃんその2のことも、全力で睨む。そうすればみんな黙るからだ。


 先生がやってきた。騒ぎに気づいてうろたえている。ことが大きくなる前に、教室を出ないとまた面倒なことになる。


「具合が悪いので保健室へ行ってきます。」と私は小さく言い置いて、教室を出た。


 *


 睨んで「お前が死ね」と言い捨てたことで若干、溜飲りゅういんが下がったが、同時にひどい自己嫌悪に苛まれた。こんな態度をとるからますます嫌われるのだ。だから誰も同情してくれないし、先生や親にも助けてもらえない。分かっているのに、他にどうしていいのか分からない。自分が自分でなかったら、どんなに楽だろうと思う。私にとっても、周りにとっても。

 

 保健室へ行くと親に連絡されたり、あれこれ詮索されるので、私は屋上へ行く。屋上には先客がいた。松岡くんがタバコを吸っている。少し汗ばむくらいの、初夏の日差しが気持ちよかった。


 私が来たことに気づいた松岡くんが、「ちっ」と舌打ちをする。邪魔して申し訳ないとは思うが、屋上は彼の所有物ではないし、私は他に行くところがない。微妙に距離をとったところに座って空を見上げる。カバンからノートを出して鉛筆で落書きをする。一人でいるときの暇つぶしに、絵を描くのは好きだ。ノートの隅に鳥の絵を描いて、パラパラ漫画を作る。


 松岡くんは、マイペースにタバコを吸っている。前に屋上で会ったときは、慌ててタバコを消していたが、私が別に誰にも言わないことを知って消さなくなった。そのくらいは信用されているのだろうと思うと、悪い気はしない。


 松岡くんは、前の学校でクラスメートに暴力を振るって退学になったと聞いた。鑑別所に入れられたけど、少年院に行くのは免れたのだといううわさだった。転校してきた初日から、「話しかけんな」オーラを出していたので、友達は少ないようだったが、それでもたまに他の男子とタバコを一緒に吹かしているのを見たことがある。松岡くんにさえ友達ができたのに、私には一人もできないことが、ちょっとだけショックだった。


 私たちは一度も口を聞いたことがない。それでも私は松岡くんにほんの少し好意を抱いていた。松岡くんは、私に不躾な視線を向けたり、逆に怖いものでも見たように目を逸らすことがなかった。松岡くんといると、私は普通の人間だという気になれた。普通の人間なのだけれど。二人で黙って、同じ空を見ている。それだけで嬉しかった。私はそのくらい孤独だった。

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