空腹と電池切れ

 翌日は朝から雨だった。丹泥種行海群乙型一号たんでいしゅぎょうかいぐんおつがたいちごうは、サンノゼから数キロ南方に居座っているようで、黒い怪物たちはいつも以上に遠ざかり、龍弥りゅうやの威嚇の必要はなかった。優斗ゆうとじゅんを除いた全員は、薬草園に立っていた。中心にあったのは、昨日芽を拡げた双葉ではなく、赤く点滅を始めた『叙述された銀河たちナラティブ・ギャラクシー』の二つだった。薬草園に置かれていたバッテリーパックがここ数週間の戦闘による部分断線と急激な温度低下で過度に消耗していたらしい。扉はまだガーネットキマイラの腕力で動くものの、部屋の柱に一つしかない灯火袋とうかたいは数時間前に機能を停止していた。充電を待っていた二つの座布団は、いまにも色を失いかけている。

「龍弥さん、私……」

 クローシェは泣いていた。ミネルヴァも、ファーガルも、悲しさに表情を引き攣らせていた。不思議なことではない。たとえ命のない機械であろうとも、彼らにとってそれは死であって、喪失だった。少しの間でも、そばにあって、温かったものが、動かなくなり、温度を失う。怖いことは立て続き、子どもたちの心は揺らめいていた。泥の力をなくしてふらつくガーデナーがそれでもしっかりと金髪の二人組を抱きしめ、龍弥も長身の少女の肩に片手を置いた。持ち上げたもう一方の腕の指先に纏った火が、寒さに耐える蝋燭にも似て嗚咽だけが響く部屋を満たす。時間はそこまで残っていなかった。龍弥が怪物の気配がないか一瞬外に気を向けたそのとき、息を引き取るように、座布団たちの色が消え、硬いただの金属体に戻った。

 直後、お腹の鳴る音がした。ミネルヴァからだ。子どもたちを優先しているとはいえ、毎日十分な量を食べさせられてはいないし、食材も偏っている。空腹と、電池切れ。この死地において、子どもたちにとってその二つに大きな違いはなかった。近いうちに自分たちもこうなる。身を覆う恐怖に、ミネルヴァの腕に紋章が浮かび、能力が暴発して彼女の身体がどこかに消える。と、同時に隣のファーガルが表情を歪めてボロボロと泣き崩れた。何か優しい言葉をかけている余裕はなかった。同じく震えているクローシェを大人の女性に預けると、龍弥もまた金髪の少女を追いかけて姿を消した。

 ミネルヴァの『洞窟間をランダムに瞬間移動する』能力に対して、龍弥の能力は『行使されていない他人の能力を行使する』というもの。力を込めて、半径二○キロ。彼は自分を中心にかなりの範囲の能力者の力を借りることが出来るし、範囲内で誰がどの能力をどの程度どこで行使しているのか常に把握している状態にある。あの戦いのあと、能力はさらに完成された。金髪の少女のランダムテレポートの行方は、龍弥には何となく把握できていた。サンフランシスコとロサンゼルスの地下に掘られた長さ六〇〇キロメートルの洞窟に刻まれた壁画。僅か一三年、廃墟と化したヨーロッパと滅びつつあったアメリカの全てを費やしたアカシックレコード群。黒焦げたそれらの残骸がとんでもない速度で視界を流れていくのを感じながら、龍弥は考えた。追い付いたら、どんな言葉をかけよう。どう接したら、あの子の不安を和らげられるだろう。それだけを思いながら時速八〇キロで爆走した彼は、目的の少女に過度な風圧がかからない段階で減速し、最後には歩きの速度で追い付いた。

「ねぇ、……」

 電源切れの真っ暗な洞窟。右手に泥の火を燃やした龍弥が何か声をかけるより先に、ミネルヴァは、目に涙をため、汚れでくすんだ金髪を揺らめかせながら口を開いた。

「私たちって、どうなるの」

 少女の腕の紋章が淡く光ると同時に、彼女はその場にへたっと倒れた。能力の行使は体力を使う。いつかの湯河原ゆがわらロウズと同じ限界が、彼女に訪れているようだった。

「俺や純、ガーデナーが助ける。大丈夫だ。きっと前みたいに学校に通ったり、友達と笑い合ったり出来るようになる」

 沈黙が流れるのだけはだめだと思って、龍弥は間髪入れずに声を飛ばした。それは彼がガーネットキマイラの気迫と共に本心を述べたものだったが、空腹の音にかき消され、一切彼女には響かなかった。世紀遅れビフォア・セカンド・ミレニアムさん。そう疲れたように笑って、少女は言う。

「昔は、本当にクリーチャーはいなかったの? 人はもっと多かったの? 学校ってなに? 街って、どんな感じだった? ……やっぱいい、いいよ……」

 黒蝋種が現れて一三年。どうにか専門的な勉強ができたクローシェよりもさらに何歳か若い彼女が物心つくころには、世界は既にかなりの混乱に満ちていたことになる。話せば話すほど、ミネルヴァは伝え聞いただけで何も知らなかった。学校も、街も、龍弥が学生だった頃には当たり前にそこにあった二○○○年代の世界の全てを。ただ、そのことを知ってしまったら、この現状がずっと重く感じられる。そんな暗い恐怖が、彼女の瞳には揺れていた。

 怪物に襲われるまでの自分の人生を反芻する。家族と、友人と、それから……。平凡な色褪せた思い出が、痛みを伴って冷えた心の表面にやすりをかける。二度と戻らない過去がある方が苦しいのか、何もない方が悲しいのか。龍弥は分からなかった。重い空気が黒焦げの洞窟の闇を引き延ばすより先に、彼は頼りなく少女に手を伸ばす。何の話をすればいい。昨日双葉を拡げた芽に関連付けて、何か前向きなことが言えるか。ガーネットキマイラの超常性を以て巡るはずの脳に、血が回っていない。洞窟でこけたときもそうだ。昨日まで昼夜に二回、全力の威嚇で体力をすり減らしながらも、龍弥自身がここ二週間で最も何も食べてはいなかった。

「俺を、信じてくれ」

「……分かったけど」

 どれだけ真摯に言葉を繋いでも、決意で心を満たしても、何の策も考えついていないし、何より身体が追い付かない。納得というよりは、妥協。もだした少女が、彼の燃えていない方の手を握ると、二人はそれ以上何の会話もなく歩き出した。

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