プロローグ/神話■■

0/プロローグ


1/

 奏戸そうど県の南部、太平洋沿いの港町。燦々と照りつける太陽をキラキラと反射させる海原が一望できるアパートの一室で、男と女が口づけを交わしていた。四畳半の部屋に取り付けられたエアコンは、八月だというのに沈黙している。壊れているのだ。その状況下で、男女はしばらく接吻を続けていた。


 二時間ほど経過した頃、男————桐山きりやま恭弥キョウヤは煙草を片手にベランダから外を眺めていた。汗に濡れた黒髪を潮風で乾かしながら、恭弥は冷めた目で海を狭く睨む。……もっとも、そこに憎しみの感情などはなく、ただただ無感情に見つめるのみであった。


「ねえキョウくーん、どうしたの急にー」


 汗だくの女が恭弥に声をかける。気温の高さからか、軽装から露出する肌はやや紅潮していた。

 恭弥は女には目もくれず、煙草を灰皿に擦り付けながら「外に行ってくる」と言い部屋を出ていった。


 海沿いの道を歩く恭弥は、可能な限り日陰を歩きながらコンビニエンスストアを目指していた。目当ての商品があるというわけでもない。ただ気分転換に出歩いただけにすぎず、一応の目的地としてコンビニを設定したということであった。


 ウミネコたちの高い鳴き声が、恭弥の頭上で交わされていた。恭弥は先刻の女を思い出していた。名は————


「……なんだっけな、みお、だっけ」


 恭弥はそれ以上思い出そうとするのをやめた。この作業を面倒くさく感じ、そこまで必死にならずともいいと判断したのだ。恭弥はそういういい加減な男だった。二十歳になって数週間、成人に至った高揚感は、彼には特になかった。


「全くいい身分ね。人を恋しく思ったこととかないでしょ貴方」


 恭弥が声のする方を見ると、コンビニのそばに一人の女が立っていた。黒絹めいたロングヘアーをゴムで束ねた美女であった。恭弥はその女を知っていた。幼なじみなのだ。名を、文塚ふみづかまもりと言った。


「そんなことないさ。誰かを想う気持ちは俺にだってあるよ。……文塚は俺のこと嫌いなのかもだけどさ、俺は文塚のことだって好きだよ」

「そういうところが嫌いなのよ。誰にでも口当たりのいいことばっかり」


 まもりが苛立ちを募らせたまま返答すると、恭弥は目をわずかに丸くした後、

「だからすぐ別れるんだよ俺は。優しくしてても、合わない時は合わないんだなって思うからさ」

などと答えた。


「ほんと最悪ねあんた……話しかけた私がばかだったわ」


 まもりはそう言って足早に歩き去っていった。恭弥の横をすれ違う時、彼女は一瞬だけ表情をより険しくさせた。恭弥にはそれが泣いているように見えた。


「わからないな。なんて言えばよかったんだろう」


 不思議と、恭弥はまもりのことはあまりよくわからないでいた。他の人のように距離を縮められずにいたのだ。


「子どもの頃はもうちょっと、仲良かった気がするんだけどな」


 海沿いの道に、やや寂しげな物言いが溶けていった。




2/

 奏戸大学の三回生、吾妻瑠奈あがつまルナは講義前にその美しい銀のツーサイドアップをはためかせながら、南沢宗治みなみざわソウジ教授の立つ教壇へ向かい、そして議論を始めた。その内容はいささか非現実的なものだった。


「教授。率直にお聞きしますが、教授は先日出現した『ヴラド・ドラキュラ』という存在についてどうお考えでしょうか?」


 三日ほど前、奏戸県と雷桜らいおう県との県境に、謎の人物が突如現れた。その人物はヴラド・ドラキュラを自称し、人ならざる凄まじき力を振るいとある研究施設を破壊し尽くした後何処かへ飛び去った。その圧倒的な力と存在感から、ヴラド・ドラキュラは『超越者』と呼称された。


「超越者について、未だはっきりしたことはわかっていない。だがこれはこの一件だけではない。世界各地でも似たような事件がほぼ同時期に発生していたことが判明した。晩のニュースで報道されるだろう」


 南沢教授の発言に、瑠奈は目を見開いた。


「世界各地で? 私はてっきり————」

「破壊された研究所が人体実験でも行っていたと思ったのだろうが、そうではない。あそこは奏雷そうらい遺跡の研究所だ。主に発掘されたアーティファクトの調査研究をしている」

「あぁ、なるほど……」


 瑠奈の返答を不服に思ったのか、南沢教授が再び口を開いた。


「吾妻、君も人類史を学ぶ一人なのだから近場の遺跡ぐらい目を通しておきたまえよ」

「それはその、はい、おっしゃるとおりです……ただその」

「ただその、なんだね」


 南沢教授が目を細める。下手なことを言ったら小言ラッシュになるだろうと瑠奈は思ったがもうここまできたら言う他ない。そう腹を括り瑠奈は覚悟の問いを投げた。


「どうしてヴラド三世がこのようなことをしたのでしょうか? というかヴラド三世とはルーマニアの英雄の名ではないでしょうか? そんな大英雄がどうして現代に?」


 瑠奈は数日間疑問だったことを全て南沢教授にぶつけた。そうすれば答えとまではいかずとも、なんらかのヒントは発生するかもしれないと思ったからだ。

 しかし、南沢教授の言葉は瑠奈にとっては想定し忘れていたものだった。


「そもそもヴラド三世とは何者だ? 吾妻は知っているのか?」




3/

 奏戸大学附属高等学校、その校舎の屋上に継崎承護つぎさきショウゴは立っていた。年齢は十七。高二の夏を謳歌するべく遊ぶことばかり考えていた彼は、よもや夏季休暇中に学舎の屋上に来ることになろうとは思っていなかっただろう。だが、実際今こうして承護は屋上で人を待っていた。それは彼にとっては想定外、しかし同時に嬉しい展開でもあった。


「しっかしマジか……マジで形鳥かたどりさんが俺をここに……? 夢じゃないよな……?」


 承護は意中の女生徒である『形鳥うつわ』に呼び出されていたのだ。彼女の日本人形めいた浮世離れの美貌は他の追随を許さない次元であり、承護のみならずクラス————いや、おそらく校内全ての人間が彼女の虜なのではないかとさえ承護は信じて疑わなかった。


 そんなうつわからのメッセージがスマートフォンに届いたのが昨夜のことであった。突然『明日の十五時、校舎の屋上で待ってて』という文字が通知欄に現れた時の衝撃と胸の高鳴りを承護は未だに鮮明な記憶として抱いている。まだ昨夜の衝撃がリアルタイムな感動として残り続けているのだ。


 一体何が始まるのだろう。何がどうなってしまうのだろう。何かしらがレベルアップするのだろうか。————承護はそのようなことを考えながら身も心もソワソワさせていた。二時間前から待っていることからもそのソワソワは見て取れる。流石に暑いため先刻まで日陰にいたのは致し方ないことである。


 承護が日射しの元に身を晒したのは十五時になる五分ほど前であった。そして、まもなく五分が経とうとする中、ついに彼女は現れた。


「こんにちは、継崎くん。……お待たせしてしまったかしら」


 涼しげな表情で慈愛の笑みを浮かべながら、和服に身を包んだうつわが承護の元へ歩み出る。


「めっめめっめめ滅相もないですよ!? 待ってない、待ってないでありますますよ??」


 緊張と照れ臭さのあまりテンパり続ける承護。うつわは微笑のまま彼の手を取った。


「!!?」

「さぁ、継崎くん。……貴方のお家まで連れて行ってくださるかしら」

「!!!???」


 承護は、やはりこれは夢であると思い、頬をつねった。だが痛みがじんわりと広がったことで、これが嘘偽りのない現実であると理解した。


 それでもこの展開は自分にとって都合が良すぎるのではないか? 承護はそう感じ、優柔不断な状態に陥っていた。その時————


「お願いします。貴方の家にある蔵まで、私を連れて行ってください」


 承護の耳もとで、うつわの声が響いた。その声は鼓膜を通じて脳内を幸福で浸さんばかりの音色であり、承護は実際頭の中が真っ白になりかけた。


 同時に、うつわの淡い黒髪が承護の顔にかかり、うつわの吐息が承護の頬を湿らせた。……心臓の鼓動が高鳴る。承護はうつわに魅了されきっていた。


「わ……わかった。連れてくから、連れてくからちょっと落ちつかせて……」


 どうにか理性を取り戻し、承護はうつわから目を逸らしながら申し出を承認した。



 真夏の県道を、自転車を押して二人は歩き、十五分後に継崎邸へ到着した。現在家に住むのは承護の他には後一人のみ。買い出しに行っている時間帯であるため邸内は無人であった。それも手伝い、難なく土蔵まで二人はやってきていた。


「今買い出し中でよかったよ。いきなり土蔵の鍵を持ち出したら何言われるかわかんないからさ」

「ふふ、それは良かったです」


 ある程度クールダウンした承護は、それはそれとして調子に乗っていた。土蔵で何をするかなどわからないが、とにかく何か素敵なイベントが発生する気がする……そんな期待を承護は抱いていた。


「でも俺、蔵開けるの初めてだよ。なんか面白いものでもあんの?」

 期待感をどうにか抑えつつ、承護はうつわに訊ねた。


「……ええ、ふふ。素敵なものがありますよ」

 目を細めながらうつわは笑い————その直後、


「見つけたぞ、継承の器よ」


 土蔵の中から爆風と共に男の声が木霊した。


「なっ…………?」


 承護は目を見開く。男は鎧を纏った西洋人の男だった。その鎧は血に塗れ、たなびく髪は爆風をものともせず自由に波打っていた。


「我はドラクルの息子、すなわちドラキュラ。この地にその名が轟かずとも、その誇りは消えることはない」


 この人物こそヴラド・ドラキュラ。超越者と仮称されし、大いなる存在である。

 だが承護はヴラドを知らなかった。何者であるか、名を聞いた今でさえわからなかったのだ。


「ドラ……なんだって? ……形鳥さん、知ってる……?」


 承護はうつわに訊ねる。土蔵から現れたヴラドが、こちらに用があるらしいと察したため、うつわが何かを知っているかもしれないと思ったのだ。


「……継崎くん。今はそれを話している時間はありません。ヴラド三世を倒さねばなりません、せめて、撤退させなければ——」


「させん」


 うつわが言い終わらない内に、ヴラドの目が大きく見開かれ——次の瞬間、うつわの体内から杭が出現し、彼女を貫いた。


「形鳥、さ————」


 鮮血が飛び散る中、うつわはそれでも笑みを漏らした。


「継崎くん。杭に貫かれようとも、なんとしてでも私と接吻してください。もうそれしかありません。————さぁ、早く」

「え、」

「早く!」

「————!!」


 最早他に選択肢はない。そう感じた承護は、

————好きな人とキスできるのならそれでいいか。

 そのように諦観と期待感が混濁した感情を抱き、


 胸部から高速で隆起してきた杭に刺されつつもその痛みを利用して身体能力のリミッターを外しうつわの唇に己の唇を重ねた。


 何かが口の中に入ってくるのを承護は理解した。————それは血液だった。うつわの血が、承護の肉体を内側から変貌させていく。


 どくん、と。心臓が力強く脈動した。


 体が炎に一瞬だけ包まれた後、承護は赤き人型の異形に姿を変えていた。消えたと思われた炎は、鎧となり承護の身を纏っていたのだ。


「書き換えたか、少年を」


 尚も冷静さを崩すことなく臨戦態勢を続けるヴラド・ドラキュラ。


 その戦況全てを舐めるかのように見据えながら、うつわが囁いた。


「————さぁ、神話を作りましょう。私たちの手で」

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紅福のアルストロメリア 澄岡京樹 @TapiokanotC

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