大切なモノ
桜楽 遊
大切なモノ
高校二年生の夏休み。
僕は、市が運営する図書館に通い詰めていた。
理由は明白。勉強するためだ。
両親に将来を嘱望されている僕は、塾に通わずして、地元の有名な進学校へ入学した。
そんな僕にとっての聖域とも呼べる場所が、この図書館。午前九時から午後八時まで、この場所で勉学に没頭する。
そして、僕は今日も自習スペースの一角で、持参した参考書や問題集を開いていたのだが――。
「何か用?」
熱の籠もった視線を感じた僕は、その視線の送り主に顔を向け、問いかける。
目に入ったのは、一人の少女。両腕を枕代わりにし、こちらを下から見つめている彼女に、何故だか見覚えがあった。
「っ! ……見ていたいから、見ているだけよ」
ほんの一瞬だけ目を見開き、その瞳に動揺の色を宿した彼女は、瞬きと共にその色を消した直後、悪びれもせず、開き直ったようにそう言った。
「へぇ、そうかい。集中できないからやめてくれ。あと、単純に怖い」
ぶっきらぼうに言い放って、僕は再びHBの芯が顔を覗かせたシャープペンシルを動かす。
――数十秒間。数学の問題を眺めて、僕は思考を巡らせる。
しかし、ノートに記された文字はほとんど増えていない。
当然だ。考えていたのは解法ではなく、隣に座る彼女のことだから。
徐ろにスマホを取り出し、淡く光る画面を弄り始めた彼女。
いったい何をしているのだろうか。
困ったことに、一度気になってしまうと落ち着かないのが僕の性分。集中力は雲のように散り、霧のように消えてしまった。
「図書館まで来て、君はスマホを触るのか?」
「過ごし方は自由でしょ。もう見つめてないんだからいいじゃない。――もしかして、私みたいな美少女が横にいると、気が散ってしまうの?」
「そんなわけ……」
整った顔立ちに、モデルのようなスタイル。腰の辺りまで伸びた艶やかな黒髪。
美少女と言っても過言ではないのかもしれないが、生憎そんなものに興味はない。
「ねぇ、
「どうして名前を!?」
名前を知られていることに驚いて、反射的に彼女の言葉を遮ってしまった。
そんな僕に、彼女は呆れたように言う。
「クラスメイトの名前くらい覚えていて当然でしょう」
「クラスメイト……」
なるほど。見覚えがあったのは、それが理由か。
「もしかして、私の名前覚えていない?」
「もしかしなくても、覚えてないな」
突き放すような僕の返事を受けて、彼女は『うそ〜。それはショック』と言って項垂れる。
「私の名前は
からかっているのだろうか。
面倒なので、触れないことにした。
「で、桜川さん。遮った僕が言うのもアレだけど、聞きたいことがあるんじゃないの?」
「そう!聞きたいことがあるんだよ」
思い出したかのように、手を打ち鳴らす彼女。
自習スペースの隅に座る僕らの周りにはほとんど人がいないため、小声で話すくらいでは迷惑にならないが、今回ばかりは違った。静謐な空間に響き渡る空気の弾ける音に驚いた人々の視線が、彼女に集まっていたのだ。
しかし、不羈奔放な彼女はその視線を気にしない。
「三枝君はどうして勉強するの?」
「ぇ?」
想定外の質問を前に、掠れた声が漏れる。
動揺する心を強引に落ち着かせ、脳から言葉を引っ張り出す。
「将来のために……」
「それって夢があるってこと?やりたいことがあるってこと?」
「いや……、そういうわけでは……」
今まで考えてこなかった――否、考えないようにしていたものを突きつけられ、僕は言葉に詰まる。
「じゃあ、どうして?」
「勉強は大切だから……かな」
「うんうん、勉強は大切。私も三枝君と同じ高校に合格するくらいには勉強してるし、勉強の大切さはわかってる。でも、他にも大切なモノってあると思わない?私はね、ゲームも音楽も友達も大切だと思う」
「何が言いたい?」
「勉強している時の君は、まるで何かに怯えているようだなぁって思ったんだ。傷ついて、縮こまって、外を恐れている。恐怖から逃れるために勉強している。ううん、違う。勉強させられているんだ。――自我を持った操り人形みたい」
――自我を持った操り人形。
滑稽、皮肉、残酷、不憫。これらの言葉を体現した存在だと思った。
「三枝君は、幸せを落っことしてしまったんだね」
――違う。
僕のことを碌に知らないくせに、勝手なことを言うな。
「三枝君は、光を捨ててしまったんだね」
――やめろ。
そんな目で、僕の心を射るな。
「三枝君は、大切なモノを見失ってしまったんだね」
――やめてくれ。
お願いだから、これ以上はもう。
「私が、君にとっての大切なモノを探してあげる」
「――あ、ぇ?」
一拍遅れて、頓狂な声が漏れた。
思いもよらぬ提案に驚いたから――、否。僕の心を追い詰める口撃が終わったことに安堵したから――、それも否だ。
理由はただ一つ。彼女が発した言葉に聞き覚えがあったからだ。
この後に続く言葉も僕は知っている。
たしか、少年は――。
「大切なモノを、一緒に見つけたいと思わない?」
彼女は無邪気に笑う。
――僕は、答えなかった。何も、答えられなかった。
◇◇◇
あれからも、僕は毎日、図書館に通った。彼女も毎日、僕の隣に座った。
「このゲーム面白いんだよ。一緒にやろうよ」
時には、アプリゲームを勧めてきた。
「この曲、流行ってるんだよ。一回、聞いてみてよ」
時には、流行りの楽曲を勧めてきた。
「この問題、どうやって解くの?」
時には、真面目に勉強していた。
「――――」
時には、僕の横顔を眺めていた。そのまま寝息を立て始めることもあった。
――そんな日々は、あっという間に過ぎ去っていく。
鬱陶しい彼女がいるにも関わらず、図書館に通ってしまうのは、どうしてだろうか。
そんな答えすら見つからないまま、始業式の一週間前を迎えた。
「――雨、酷いな」
カーテンをずらして、外を見る。
大粒の雨が窓に激しく打ち付け、空は不規則にピカリと光る。台風の直撃により、今日は深夜まで雨が降るらしい。
この状況では、図書館に行けそうもない。
「はぁ、勉強するか」
首をコキコキ鳴らし、僕は自室の勉強机に向き合った。
――翌日。
眩い朝日が、窓から差し込んでいた。
どうやら、台風は過ぎ去ったようだ。
「図書館に行くか?」
雨は降っていない。雨が降る様子もない。
「いや、やめておこう」
昨日、家で勉強をして確信した。騒がしい同級生が絡んでくる図書館より、家で勉強をした方が集中できることを。
だから、僕は今日も自室の机に向き合った。
――勉強を始めてから数時間後。
「どうして……、心が落ち着かないんだ?」
僕は、勉強に集中できずにいた。
「なんだよ、これ……」
わからない。知らない感情だ。
まずは、心を落ち着かせなければならない。
そう思って深呼吸している内に、気付けば僕は深い眠りについてしまっていた。
そして、僕は夢を見た。遠い昔の夢を――。
◇◇◇
幼い頃、近所に同い年の女の子が住んでいた。
同じ小学校に通う彼女の名前は、桜川 松華。
僕は親の期待を一身に背負って勉学に励んでいたけれど、遊んだり歌ったりすることの方が好きだった。
でも、彼女は勉強にしか興味がないようだった。
親に言われるがまま、操り人形のように勉強して、滅多に笑わない彼女。
そんな姿が、嫌で嫌で――。
「僕が、松華ちゃんにとっての大切なモノを探してあげる。大切なモノを、一緒に見つけたいと思わない?」
僕は僕が楽しいと思うことを、僕が大切だと思うものを彼女に教えた。
蝉の鳴き声が煩い夏休みだった。
「ありがとう、咲太くん。大切なモノを教えてくれて」
次第に、彼女は笑顔を見せることが多くなっていった。
二人だけの、とても楽しい日々。それが、いつまでも続くと思っていた。
――ある日。
彼女は何も言わず、隣の市に引っ越した。
台風が直撃し、豪雨に見舞われた翌日のことだった。
その後、母から聞いた。
昨日、彼女は僕を公園に呼び出して、引っ越すことを伝えるつもりだったのだと。しかし、大雨の影響で呼び出せなかったのだと。
「――――」
夏の終わりに、幼い僕は大切なモノを失った。
◇◇◇
目が覚めた。
開いた目から、涙が溢れ出す。
その涙を乱暴に拭った僕は、転がるように玄関へ向かう。
「行ってきます! 母さん」
外に出ると、空は茜色に染まっていた。
夏の夕日を浴びながら、僕は走る。図書館に向かって。
短気な彼女のことだ。もう帰ってしまったかもしれない。
『大切なモノを、一緒に見つけたいと思わない?』
脳の奥に、彼女の声が響く。
図書館で聞いた時、何故だか聞き覚えがあった。
今にして思えば、聞き覚えがあって当然だった。昔、僕が発した言葉なのだから。
彼女に見覚えがあったのも、過去に出会っていたからだ。
クラスメイトだと彼女は言ったが、それは嘘だろう。
何も言わずに僕と別れたことが心残りだった彼女は、親を通じて僕がどうなったか――どうなってしまったのかを聞いていた。
そして、これまた親を通じて、僕が夏休みの間、ここに通い詰めていることを知った彼女は、偶然を装って僕との接触を図った。
全ては、自分の殻に閉じこもった僕を助けるために。
勿論、これは予想でしかない。予想でしかないが、大方正しいと断言できる。
『自我を持った操り人形みたい』
――ああ、そうだとも。
大切なモノに裏切られた僕は、もう二度と同じ思いをしたくなくて、それらを排斥した。辛い記憶に蓋をして、勉強に逃げていた。
勉強だけは自分を裏切らないから。努力した分だけ、己の力になるから――。
操り人形も、それを操っていたのも、僕自身だったのだ。
「勉強から逃げるっていうのはよく聞くけれど、僕は勉強に逃げていたのか。この弱虫」
自分の臆病さに呆れながら、僕は走った。
走り続けた僕の前に現れたのは、見慣れた図書館。その外――出入り口付近に、哀愁を帯びた彼女の背を見つけた。
待ち人が来なかったことに落胆し、家に帰ろうとしているのだろう。
僕は、そんな彼女に向かって叫んだ。
呼吸の乱れを唾と一緒に飲み込んで、腹の底から声を出した。
「桜川さん!」
「……咲太くん」
こちらを見て、瞠目する彼女。
必死に走るが、僕と彼女との距離はまだ長い。
「咲太くん、ごめんなさい! 黙って引っ越してごめん。遅くなってごめん。直前で怖気づいて、クラスメイトだなんて嘘をついてごめん。……傷つけて、ごめん……、なさい……」
震える瞳から溢れ出す、彼女の涙。
その涙を止めてあげたくて、僕はより一層足に力を込める。
そして、彼女に手が届く距離に達した僕は、この胸を駆り立てる衝動に身を任せ、彼女を抱きしめる。
「やっと、気付けたよ……」
そう言って、彼女の顔を見る。
彼女の顔はキョトンとしていたけれど、それでも僕は言葉を続ける。
「見ないふりをしていただけで、ずっとこの胸にあり続けていた気持ちに――、大切なモノに――」
人差し指で、彼女の涙を優しく拭う。
目を潤ませた彼女は、雨上がりの太陽のような顔で笑っていた。
「僕にとっての大切な者は――――」
――もうすぐ、夏が終わる。
けれど、
大切なモノ 桜楽 遊 @17y8tg
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