第9話 パンドラの箱 終章



 アルバートの結界への接点は、やはり青蘭を描いた絵のようだ。


「じゃあ、行きましょう」と、ルリムは龍郎の腕をとる。

 マルコシアスもよってきて、龍郎は両者に挟まれた。


「わかった。行こう」


 清美や穂村の手をふる姿が、一瞬で遠くなる。気づいたときには、あの砂漠だった。


「ここから、どうするんだ?」

「箱のなかへ行くんでしょ? そのために、あたしを呼んだ」


 ルリムが龍郎のにぎりしめた黒い箱を示す。


「さっきはこれが固くて、まったくひらく気配がなかったんだ」

「貸して」


 ルリムが箱をとり、ふたに手をかけると、あっけなくひらいた。信じられないくらい、たやすい。


「そんな……」

「見くびらないでよ。戦闘が苦手なぶん、翔ぶことにかけては誰にも負けないわ」


 そうだった。彼女たちの種族は仕事の分業がきわだっていて、戦いには専門の戦闘天使がいた。


 ひらいた箱を砂上に置くと、ルリムは手をさしのべてくる。


「さあ、行くわよ。なんだか、とってもイヤな気配がする。誰か暴れてるんじゃない?」


 箱のなかは異様に黒い。宇宙の深淵のようなものがたゆたっている。本来なら見えるはずの箱の底が見えない。


 砂嵐が起こり、龍郎たちは箱のなかへと引きこまれた。

 先刻はあれほど苦労しても入ることのできなかった箱のなかに、容易に侵入を果たす。


 龍郎はドキリとした。

 暗い。龍郎が箱のなかに閉じこめられていたときと同じだ。鉄の箱が巨大化して一つの部屋になったような空間。

 そのなかに、青蘭がいた。

 いや、アスモデウスだろうか?

 アルバートの姿はない。

 青蘭をここへ監禁して自分は去ったのだろう。


 だが、これは狂っているときのアスモデウスだ。狂気におちいった目をしている。

 それに……この姿はなんだろうか?

 死神のような大鎌を持ち、全身、血をあびた白銀の髪の天使。しかし、身にまとうローブに見えたものは、無数の触手だ。

 まるで、クトゥルフの邪神である。

 上半身はこの上なく美しい天使だが、下半身はもはや見なれた人魚のよう。

 鎌を持つ反対側の片手は腐りおちている。


「せい……ら? なぜ、こんな姿に……」


 ルリムが答える。

「あれは魂でしょ? 魂はどんな形にでもなれる。自分が思う自分の姿よ。彼はこれまで、さんざん悪魔や邪神に弄ばれてきたから、あれが彼の思う“自分”ってことじゃない?」


 龍郎の胸が痛む。

 あれが青蘭の思う青蘭の姿。

 どこにも青蘭の面影はない。

 美醜のきわだつ、おぞましくも悲しい姿……。


 赤く血走った目で、青蘭はふりかえった。

 泣いている。

 血の涙を流している。


「……心臓がないの。わたしの心臓が」


 ささやくように言うと、アスモデウスの姿の青蘭は、大鎌をふりかぶり、襲いかかってきた。


「あなたともう一つになれない!」

「青蘭!」


 完全に正気をなくしている。

 いや、それとも心のどこかに、まだ正気を残しているのか。だからこそ、快楽の玉を——アスモデウスの心臓をなくしてしまったことを認識して暴れているのだ。


 青蘭にとって、アスモデウスの心臓はそれほどまでに大事なものなのか。

 正気を失うまでに。

 まるで青蘭の存在そのものであるかのように。


「青蘭! やめろ。しっかりしてくれ!」


 龍郎の言葉も解したふうがない。

 やみくもに大鎌をふりまわす。


 青蘭と戦うことなんてできない。

 龍郎は必死に刃をよけながら、どうにかして青蘭の腕をつかもうとした。

 が、青蘭は本気で龍郎を殺そうとしているようだ。鎌をふりまわす手つきに迷いがない。


「青蘭。なんでだ? おれだよ。わからないのか? 龍郎だよ」

「一つになれないくらいなら……あなたを殺して、わたしも……」

「バカなこと言うな。快楽の玉なんてなくたって、おれは青蘭を愛してるよ。ずっといっしょだ。そうだろ? 青蘭!」


 青蘭は悲しげな顔つきで龍郎を見つめる。血の涙が、すッと頰にひとすじこぼれおちた。


「……終わり。何もかも終わり」


 なぜ、そこまでにこだわるのだろうか。

 たしかに生物にとって子孫を残すことはひじょうに重要だ。とは言え、それができなくても生きてはいける。

 だが、今の青蘭はそれができなければ自分自身さえ生きてはいられないかのようだ。


 とつぜん咆哮をあげて、マルコシアスが突進した。巨体でのしかかり、いやおうなく青蘭の動きを止める。そのとき、マルコシアスは青蘭の耳元に何事かささやいた。


「アスモデウス。落ちつけ。まだ…………までには…………」


 すると、どうしたというのか、青蘭が急におとなしくなった。


「そう……だね。まだ…………は起こらない」


 寝入るように目を閉じる。

 触手だらけの姿が淡く輝き、いつもの青蘭に戻った。

 いったい、マルコシアスは何を告げて青蘭を鎮めたのか?

 とても気になる。


(そう言えば、アスモデウスが神の密命で邪神を調べに行ったとき、何かが起こったんだったな。そのとき、マルコシアスもいっしょに行った)


 つまり、マルコシアスはアスモデウスが調査していた内容も、そのときの経過もすべて知っているということだ。


 眠ったように見える青蘭を抱きかかえて、龍郎たちは絵の外へぬけだした。

 絵から出ると、青蘭の魂は青白い尾をひき、青蘭の体内へと吸いこまれていった。


 これで意識は戻る。

 だが、龍郎は悟った。

 青蘭には、快楽の玉がなくてはならないのだと。それを手放すなど、考えもおよばないのだということを。


(どうする? ルリムに約束してしまった。快楽の玉、苦痛の玉、またはおれ自身。三つのうちのどれかを渡すと)


 龍郎が流し見ると、ルリムは、

「龍郎。少しだけ猶予をあげる。何を渡すか、しっかり考えておくのね。必ず受けとりにくるから」

 高らかに笑い声をあげ、去っていく。


 大変なことになってしまった。

 悪魔との契約をやぶると魂を持っていかれる。

 三つのうち、どれかを渡すことができるとしたら……。




 第九部 完



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