第9話 パンドラの箱 その二



 その箱にはどこか見覚えがあった。

 どこで見たのか必死に考える。


(そうだ。黒川と出会った最初の日、美術館で……)


 それは絶望するパンドラの絵なのだと黒川は言った。あの絵のパンドラが持っていた箱だ。

 世界中のありとあらゆる災厄がつまっていた箱。最後に希望だけが残っていたという神話だ。だが、その残っているはずの希望がないと気づいたときのパンドラだと。


 絵のなかの青蘭が悲しげに微笑みながら箱をあけると、さらさらと砂がこぼれてきた。同時に龍郎たちのまわりで砂嵐がまきおこった。

 目をあけていられない。

 しばらく砂が体を叩きつけていくのにまかせる。


「青蘭……青蘭! 大丈夫か?」

「龍郎さん。どこ?」


 青蘭の声だけをたよりに歩いていく。

 しっかり手をにぎっていればよかった。絵のなかの青蘭が動きだして、おどろいたときに離してしまったから。


 手さぐりで歩いていると、誰かとぶつかった。やわらかな手が龍郎の手をにぎりしめてくる。


「青蘭?」


 龍郎も急いでにぎりかえす。

 すると、その手の持ちぬしがよりそってくる。花の香りがした。優しく包みこむような、誘うように艶やかな……。

 天使の香りだ。

 青蘭だと思い、龍郎は抱きよせた。


「青蘭。いきなり、何が起きたのかな? もう離れないようにしないと」


 さらりと羽毛のように繊細な髪の毛が、龍郎の頰をなでる。

 違和感をおぼえた。

 青蘭の髪がこんなに長かっただろうか? たしかに前髪は長めだが、それよりもっと豊かなロングヘアーのようだが……。


 ふふふとくすぐるような笑い声が聞こえた。


「ずっと……探していたの」


 ドキンと心臓がとびあがる。

 違う。

 青蘭じゃない。


 体を打つ砂嵐がいくぶん弱まった。

 龍郎は片手で目元を防御しながら、まぶたをあけてみた。


 なかば予想していた姿。

 龍郎の腕のなかにいたのは、白銀の髪の天使——アスモデウスだ。

 だが、目つきがおかしい。焦点があっていない。ちゃんと龍郎のことが見えているのかどうかも怪しい。


「なんで、アスモデウスが! 青蘭は? 青蘭はどこなんだ?」


 周囲を探すが、砂嵐のせいでよく見えない。

 龍郎が腕を離そうとすると、アスモデウスがものすごい力でしがみついてきた。青蘭でさえ少年のような体躯からは想像もつかない剛力だが、それどころではない。骨がくだけそうだ。


「ちょ……離してくれ。ほんとにアスモデウスなのか? おまえが探してる天使は、おれじゃないよ」

「あなたを……探していた」


 このままでは、ほんとに死んでしまう。龍郎は無我夢中で抵抗した。右手でアスモデウスの胸をつくと、なぜか油のこげる匂いがして束縛がゆるむ。そのすきにあとずさった。


 アスモデウスは龍郎を見ていない。どこか天上の景色をながめているかのように、少し首をかしげてななめ上を見ながら、腕だけを伸ばしてきた。

 その胸に火傷のあとがある。それもたったいま炙られたように真っ赤に焼け、血が流れていた。


(そうか。アスモデウスも悪魔なんだ。堕天したから)


 苦痛の玉の浄化の力で焼かれてしまうのか。

 愛する人の心臓にふれると、ただれる。そういう存在になりはてたのか。


 なんて皮肉で残酷な事実だろうと龍郎は思った。が、そこで気づく。

 天界から苦痛の玉を盗んだのはアスモデウスだ。その時点では苦痛の玉にふれても平気だったということだ。


 何かがおかしい。

 龍郎は狂人の目つきをしたアスモデウスを凝視した。

 ジリジリと焼けただれる傷跡から、オイルの匂いがする。この匂いには覚えがあった。ついさっきまで、この匂いをかいでいた。

 そう。テレピン油だ。油絵を描くときに、絵の具をとくために使用するオイルである。


 壊れたロボットのように立ちつくすアスモデウス。

 魂がぬけたように見えるが、もしも、もともと魂など持っていなかったとしたら……?


(長いあいださまよっていたと言ってた。ずっとつらくて、さみしくて、心細かったと。どんなに空虚だったろう。狂っても不思議はない。でも、これは……)


 龍郎は確信した。

 もしもこれが本物のアスモデウスなら、まだ体内にを持っているはずだ。時間を超えて、過去のアスモデウスに遭遇したというのなら。

 快楽の玉はアスモデウスの心臓だったのだから。アンドロマリウスが実験で青蘭に埋めこむまでは、ずっとアスモデウスの体内にあった。


 だが、今、この目の前にいるアスモデウスからは、快楽の玉の波動を感じない。偽物だからだ。


「ここは黒川の描いた絵のなかか。ヤツの結界にとりこまれたんだな?」


 返事はない。

 しかし、爛れた焼けあとから流れる真紅のものは、血ではなく絵の具だ。粘性が異なる。


 黒川の造りだした、まがいものの生命だろう。

 そうとわかれば、遠慮はいらない。

 早くこの世界から脱出し、青蘭を見つけなければ。

 アスモデウスの姿なのはやりにくいが、退魔するしかない。

 龍郎は右手に意識を集中した。


 そのときだ。

 表情のない作りもののアスモデウスが、どこからか箱をとりだした。絵のなかの天使が持っていたのと同じ箱。パンドラの箱だ。


「あなたを……離さない」


 アスモデウスの偽物が箱をひらく——

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