第9話 パンドラの箱 その三
箱のふたがひらかれたとたん、龍郎は竜巻に吸いあげられるように、自分の体が宙に浮くのを感じた。
同時にバタンと音がして暗闇に包まれる。
地面が固い。さっきまでの砂漠ではなさそうだ。
とりあえず床を這うようにして移動する。すぐに壁にぶつかった。
そこから壁にそって歩くものの、まがりかどが何度もあって、廊下や出口らしきものがない。室内に閉じこめられたようだ。
というより、あるいは箱のなかなのだろうか?
さっき、アスモデウスは箱のふたをあけた。そして突風に巻きあげられ、この空間に吸いこまれた。だとしたら、箱のなかに封印されたのだと考えるのが妥当だ。
絵のなかから、さらに絵のなかの箱に入れられた。二重に閉じこめられたのだ。
「アスモデウス! ここから出してくれ。頼むよ。おい、聞こえないのか?」
壁を叩きながら大声で叫ぶ。
返事はない。
いったい、青蘭はどうなったのだろうか?
この箱のなかにはいないようだ。
青蘭は今、快楽の玉を持たない。もしも強力な悪魔と遭遇すると、一人では戦えない可能性がある。
自分が捕まってるあいだに青蘭の身に危険が迫っていないだろうかと思うと、気ばかりあせる。
だが、暗闇をさぐっても、どこにも出口らしきものはなかった。天井には手が届かないが、これがもしアスモデウスの持っていた箱だとすれば、ふたは上部についている。出口は上だ。下をいくら探してもムダになる。
何か足場になるようなものがないだろうか。または壁を破壊することができれば……。
「あけてくれ。アスモデウス。ここから出してくれ!」
しだいに息苦しくなってきた。
まさかと思うが酸欠だろうか。
魔法の結界のなかなのに、そんなところだけ現実の理にのっとっているのか。
時間の経過がわからない。
ずいぶん長いこと経ったような気もするし、まだほんの数分のような気もする。
結界をやぶるには、それを作りだした悪魔を倒さなければならない。
悪魔本体が結界のなかにいなければ、どうしたらいいのか?
龍郎の意識は遠くなっていった。
このまま、ここで終わるのだろうか?
青蘭を守ることもできず……。
ぼんやり目を閉じると、幻覚が見えた。
小さな箱を大切そうににぎりしめ、砂漠をさすらうアスモデウス。
いや、箱ではない。
青い光を放つ玉。
苦痛の玉だ。
愛する人の心臓を胸に抱き、行くあてもなく歩き続ける……。
(青蘭。こっちだよ。おれは、ここにいる)
龍郎の呼びかけに応えるように、アスモデウスはふりかえる。つかのま、視線をさまよわせていたが、また歩きだした。
翼はもうない。
天界から堕とされたときに切られたのだと聞いた。
天使は人間のような食物を必要としないが、あまりにも永劫のごとく悠久の時を旅してきたので、疲れはてているようだ。
ふらふらとよろめき、やがて砂に倒れる。埋もれていくその体を誰かが抱きあげた。褐色の髪、青い瞳の男。アンドロマリウスだ。
いや、アンドロマリウスより若い。よく似ているが、頰に鱗がある。黒川だ。
そして、倒れていたのはアスモデウスではなかった。青蘭だ。黒髪の東洋人の青蘭。
黒川が青蘭をどこかへつれさろうとしている。
(やめろ。青蘭に何をする気だ!)
龍郎の声は届かない。
すでに黒川は青蘭から快楽の玉を奪った。これ以上、さらに何かを奪おうというのだろうか?
(まさか、青蘭自身の心臓か? 青蘭の心臓も快楽の玉だからか?)
もうこれ以上、青蘭を苦しめさせない。おまえを絶対にゆるさない!
龍郎が胸の内で叫んだときだ。
とつぜん、壁の一角が破裂した。
光がさしこみ、何かが飛びこんでくる。
「龍郎! 乗れ!」
翼を持つ巨大な狼。
マルコシアスだ。
そう言えば彼は異次元から異次元へ飛ぶことができるのだった。
「追うぞ」と、マルコシアスが言うので、龍郎は黒毛の背中にとびのる。
やぶられた黒い鉄の壁のすきまからマルコシアスがかけだすと、そこは砂漠だ。
青蘭をかかえた黒川が、チッと舌打ちをついて逃げだす。
追いすがろうとすると、黒川はかるく片手をふった。砂嵐が龍郎たちを襲う。龍郎は目をとじた。が、マルコシアスが走る振動と風を切る空気の抵抗感は続いていた。
そっと目をあけると、砂上をすべるように走る黒川が、青蘭をつれたまま、小さな箱のなかへもぐりこむところだった。
「パンドラの箱だ!」
ふたが閉じてしまう。
「急げ! マルコシアス」
マルコシアスの巨体が矢のように細くなり、閉ざされようとする箱のなかへすべりこんだ。
そのなかも砂漠だ。
やはり目の前を黒川が走っている。だが、その差はさっきよりひらいた。あきらかに遠くなっている。
ふたたび、黒川は箱のなかへ逃げこんだ。龍郎たちは、ふたが閉まる直前、どうにか侵入に成功した。
しかし、その内もまた砂漠だ。
今度はもう黒川の姿が見えない。
砂嵐のむこうに、ぼんやりと人影らしきものがあるばかりだ。
マルコシアスは全力疾走したが、鼻先で箱が閉じた。
無念げにマルコシアスがつぶやく。
「箱の一つ一つがヤツの結界になってる。奥に行くほど魔法の縛りが強くなる。これでは私の力もおよばない」
「そんな……青蘭がさらわれてしまった?」
「ヤツはアスモデウスを造ろうとして、なりそこねた失敗作なのだろう? 青蘭はアスモデウスの生まれ変わり。ヤツが青蘭を必要とするなら、そのあたりが関係しているのではないか?」
「快楽の玉だけでは足りなかった……ということか?」
「おそらく」
いったい何をしようというのだろう。
とにかく、すぐにも青蘭をとりもどさなければ。
「この箱のなかへ入ることはできないのか?」
「結界がかたすぎる」
龍郎はマルコシアスの背をおり、箱をひろいあげた。ふたをこじあけようとするが、まるで生きた貝が外敵から身を守ろうとするように、ガッチリと閉じて動かない。
「どうしたらいいんだ?」
「もう一柱、異相を飛ぶ者があれば……」
つまり、マルコシアスと力をあわせる天使がいれば、ということか。
(天使……ガブリエルか?)
はたして、ガブリエルが力を貸してくれるだろうか?
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