第9話 パンドラの箱
第9話 パンドラの箱 その一
空港のすぐそばにあるS湖にダイブするように、飛行機は降下し着陸する。
M市へ帰ってきた。
どんよりと曇った空もこの地方らしい。
牧歌的な風景を見ると、ほっとする。
このまま、清美たちの待つ自宅へ帰ってゆっくりしたかった。が、一刻を争う。快楽の玉を悪用される前にとりもどさなければ。
龍郎たちは来るときに駐車場へ停めておいた愛車の軽に乗りこみ、そのままS湖畔を迂回して、黒川のアトリエに向かった。鍵を持っているわけではないが、窓を割ってでも侵入しようと心に決めていた。
どうせ無人だろうと思っていたのに、湖畔の喫茶店のようなオシャレな建物に到着すると、窓が明るかった。湖面に浮かぶ光の船のように、こうこうと灯がともっている。闇のなかにひっそりと金色に輝く。よるべない浮き草のようだ。
「誰かいるのか? 青蘭、行ってみよう」
「うん」
庭に車を停め、二人で玄関前に立つ。試しにドアノブをまわすと、鍵はかかっていなかった。信じられないことに、あっけなくなかへ入れる。
玄関扉をあけると、すぐにアトリエだ。湖を見渡す窓辺に人影がある。キャンバスを前にして腰かけている。外からの陽光で、その姿は黒く輪郭しか見えない。
しかし、匂いでわかった。
アンドロマリウスと同じ匂い。
黒川だ。
まさか、ご当人がいるとは思わなかった。
「黒川だな? きさま、よくもおれたちをだまして。快楽の玉を返せ!」
龍郎がかけよると、黒川の姿は、ふっと消えた。イーゼルのうしろにまわりこんで立っている。移動したような気配はなかった。何かの魔法だろう。
やはり、彼は人間ではない。完全に悪魔サイドの存在なのだ。
「ムダだよ。今のおれは影だ。本体は別の場所にいる」と、黒川の影は言った。
たしかに、本人よりも全体がなんとなく暗い。陽光のなかにいるのに、彼だけ光をあびていないかのようだ。
「快楽の玉を返せ」
「ああ、返すよと、すんなり言えるものなら、最初から奪わない。そうだろ?」
それはそうだ。だからと言って、こっちだって譲るつもりはないが。
「あれは青蘭にとって大切なものだ。おまえたちがなんのために使うつもりか知らないが、返してくれないなら奪いかえす」
「アレはおれたちにとっても大事なものだ。有意義に使ってやるよ」
カッとなって、龍郎は黒川につかみかかった。だが、右手がスッと黒川の体をつきぬける。
「だから、影だと言ってるだろう? 物理的な攻撃は効かない」
腹立たしいが、龍郎は気持ちを抑えて黒川にむきなおった。
「たとえ影でも、こうして、おれたちの前に姿を現したということは、言いたいことがあるんだろ? 言ってみろよ」
「別に話なんかない。ただ、約束してたから」
「何を?」
「おれの絵をプレゼントすると」
「それだけ?」
「そうさ。それだけ」
影は薄く笑い、龍郎のとなりに立つ青蘭をながめる。その目に何がしかの感慨がこもる。
「おれたちは生まれたときから失敗作だった。でも、おれたちにだって生きる権利はある。たとえ、
失敗作として処分されるはずだった命。
そのことで青蘭を恨んでいるのだろうか?
しかし、そんなものはただの逆恨みだ。青蘭にはなんの責もない。
龍郎が反論しようとしたときには、黒川の姿は薄れかけていた。
「さよなら。青蘭。おまえに会ったとき、やっぱり……」
ささやく言葉が宙に消える。
やはり、なんだと言いたかったのか。
「くそッ! 待てよ、黒川!」
龍郎の叫びは、もはや黒川には届いていなかっただろう。
いったい、なんのために龍郎たちの前に姿を見せたのか。ほんとにただ絵を渡したかっただけなのか。
「匂いがしなくなった。去ったみたいだね」と、青蘭がつぶやく。
「そうだね。絵をくれるって。どんな絵だろう?」
龍郎はイーゼルをかえりみた。
さっき、黒川がすわっていた椅子の前に置かれている。イーゼルには白い布がかけられていた。とりはらうと、一枚のキャンバスが立てかけられている。
「龍郎さん。これ……」
「ああ……」
青蘭を描くと言っていた。
でも、そこに描かれていたのはアスモデウスだ。
砂漠の砂嵐の舞う風景のなか、小箱をにぎりしめ、不安げな眼差しでさまよう天使。
顔立ちは青蘭だが、長いプラチナブロンドを砂の上にひきずっている。片翼は折れ、もう片方の翼も羽がぬけおちている。
とても美しく、そして悲しい。
「龍郎さんを探して旅してたころの僕だ」
青蘭はそう言う。
「まさか、おぼえてるの?」
「うん。なんとなく。長い長いあいだ、ずっとつらくて、さみしくて、あなたに会いたくて……心細かった。でも、必ず会えると信じてた」
「青蘭……」
そっと抱きよせると、青蘭の心臓が脈打つのを感じる。
アスモデウスの記憶を着実に思いだしていく青蘭。
青蘭がさみしがりやなのは、そのせいかもしれないと、龍郎は思った。
「この絵、どうしよっか? くれるって言うけど」
龍郎の問いに、青蘭は冷淡に答える。
「どんな罠があるかわからないよ。このままにしとこう」
龍郎には惜しいと思う気持ちがあった。描いた人物には問題あるが、芸術に罪はない。ことに描かれているのが青蘭だ。こんなにも悲しげな青蘭を、無人の家に放置していくのはかわいそうな気がした。
しかし、その考えは甘かったようだ。
「行こうよ。龍郎さん」
青蘭に言われて龍郎が立ち去ろうとしたときだ。
とつぜん、絵のなかの青蘭が動いた。
背後をふりかえるように視線をそらしていた絵のなかの青蘭の目が、すっと正面に来て龍郎を見つめる。
射すくめられたように、数瞬のあいだ、龍郎は絵のなかの青蘭と見つめあった。
プラチナブロンドの青蘭がさみしげに微笑む。が、その笑みにはどことなく狂気も感じられた。
「せ……青蘭……」
「えっ? 何?」
そのときには、絵のなかの青蘭が、にぎりしめていた箱をひらいていた。
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