第8話 ベネフィット教団 その四
青蘭の心臓も快楽の玉——
その考えは龍郎になんとも言えない衝撃をあたえた。
アンドロマリウスさえ青蘭のなかから追いだせば、あるいは快楽の玉をえぐりだせば、青蘭はふつうの人間に戻れるんじゃないか。もう二度と悪魔に狙われることもなく、平穏な生涯を送れる。
そんなふうに思っていたのに、その可能性をみごとに打ちくだかれた。
青蘭自身が天使であることを、いやおうなく見せつけられた。
青蘭の存在が遠くなる。
あの不安な気持ちがいっきに高まる。
「青蘭——」
思わず、抱きしめる。
青蘭は自分がたったいま何をしたのかわかっていないようだ。無邪気な笑顔で抱擁を返してくる。
心臓と心臓が重なると感じられた。
快楽の玉ほど強い共鳴ではないが、青蘭のなかに苦痛の玉と呼応するものがあることを。
「龍郎さん。きっと苦痛の玉の力だね。まだ快楽の玉との共鳴が残ってたんだ」と言って、青蘭は疑っていない。
龍郎は「そうだね」とだけ答えておいた。
しかし、これは青蘭にとっては喜ばしいことだ。
なぜなら、快楽の玉がこのまま戻ってこなくても、今の姿を保つことができるのだから。
(待てよ? ということは、もう快楽の玉いらないんじゃないか? だとしたら、快楽の玉が満杯まで魔力を吸収して、天使の卵になることもないし、青蘭がアスモデウスに戻ることもなくなる?)
ふと、その事実に気づいた。
もしそうなら、これは青蘭だけじゃなく、龍郎にとってもひじょうに嬉しい
現金にも希望が湧いてくる。
「帰ろう。ここに教祖はいなかった」
「そうだね」
神父が思案しながらつぶやくように言う。
「教団の本拠地がどこにあるか調べるしかないな。バーの連中を少しばかり、しめあげるか」
「ガールズバーで働いてるようなのは教団のなかでも下っ端でしょう? 知ってますかね?」
「わからん。が、何もしないよりはいい」
ごもっともなので、龍郎たちは地下から脱出を試みた。
階段をあがるところまではできる。だが、天井を覆うフタに鍵がかかっている。
「ちょっとだけ時間をくれ」
神父が数分もいじると、鍵は外れた。
やはり便利な技だ。神父に弟子入りすべきか本気で悩む。
神父はフタをあげ、階上へ出ていく。
龍郎も続いて穴からぬけだした。が、神父がそこで立ちどまっている。見れば、まん前に見張りが立っていた。ここまで来るとき案内してきた女の子だ。
神父がかけより、体術で対処しようとしたとき、少女の可愛い顔が二つに裂けた。下からあの蛇の頭部があらわになる。
「コイツもか!」
神父がロザリオを出して蛇人間のひたいにつきたてた。
蛇はギャッと声をあげ、よろめく。
そのあいだに龍郎は、青蘭を地下階段からひきあげた。
見張りの悲鳴を聞いて、店のほうから複数の足音がかけつけてくる。ホール係や受付にいた男だ。それらも次々と蛇の本性を現した。どうやら、ここは蛇の巣窟だ。しかし、さっきの天野やよいの化身ほど力は強くない。低級から中級の悪魔である。
蛇たちを右手でなぐり、または苦痛の玉の発する光で焼きほろぼしながら、店頭まで戻る。
客が呆然とする前で、女の子もみんな怪物と化す。ツインテールの蛇がなんともグロテスクだ。
教団の本拠地についてさぐろうとしたが、それどころではなかった。話のできる状態じゃない。襲いかかってくる彼らをなぎはらい、なぐり倒しながら街路へとびだす。
通りには大勢の人間がいた。が、誰もおどろいていない。映画の撮影か何かだと勘違いしているようだ。
新宿のどまんなかで化け物相手に大立ちまわりを演じたあと、どうにか逃げだした。
「ここまで来れば、なんとか……」
「そうだな。追っ手はいない」
タクシーに乗りこみ、佐竹法律事務所へ帰った。
神父はめずらしくイラついたように、銀色の髪をモジャモジャとかきまわす。
「手がかりが得られなかったな。しかたない。数日かかるかもしれないが、調べてみる」と言うので、
「M市に黒川の自宅があります。あそこもヤツの持ち家の一つにすぎないのかもしれないが、いちおう行ってみないと」
「そうだな。君が知っている場所には、もう姿を現さない可能性が高いが、万が一ということもあるからな」
「じゃあ、おれと青蘭は明日の朝一番にM市に帰りますよ」
「わかった。何かあれば連絡をとりあおう」
神父が出ていく。
二人きりになると、龍郎は青蘭の傷のぐあいをたしかめた。服をまくりあげてみても、腹部にはどこにも縫合のあとどころか、傷一つない。なめらかな肌だ。やはり、完治している。快楽の玉のときと同じ奇跡である。
「もう大丈夫だよ。どこも痛くない」
「そうだね。よかった」
青蘭は天使。
それはもう動かしがたい事実。
でも、これで別の道も見えた。
「青蘭。君は快楽の玉がなくても生きていける。君自身の心臓で。だから——」
勢いこんで説得しようとした。が、そこで龍郎は黙りこむ。
青蘭の優しい寝息が聞こえていた。
青蘭は龍郎の腕のなかで、すっかり寝入っている。
安心しきったそのおもてを見れば、思わず微笑みがこぼれる。
宇宙の彼方から飛んできた。
愛しい小鳥。
ずっとこうして、二人、巣のなかにいられたら……。
了
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