第8話 ベネフィット教団 その三
明かりは見えない。
隠し扉のむこうも闇だ。
だが、ロウソク一本ぶんほどの光がどこかにあって、きわめてかすかにだが視界が戻る。
階段と同じ幅の廊下が続いていた。
(もしかして、だまされたわけじゃないのか? このさきに教団の支部が?)
そろそろと進んでいく。
目の前が急にひらける。
そのさきにホールがあった。
壁ぎわに誰か立っている。
「黒川か?」
龍郎は意気込んでかけよろうとした。
が——
「それ以上、近づかないでください」
応えたのは女の声だ。
聞いたことがある。
龍郎も知る人物のようだ。
いったん言葉にしたがい、その場に立ちどまる。
「あなたは?」
「天野です」
天野やよいだ。
青蘭を誘いだすための依頼人が、今さらなんだというのか。
「天野さん。あなたは嘘をついていたんですね。黒川に——あなたの教祖に命じられて、おれたちを呼びだした。そして、おれたちの動向を逐一、報告してたんだ」
「違います」
「じゃあ、なんで、おれたちが行くのを見越して、社内の連中が準備してたんだ? それに昨日、あなたは手術室で黒川といっしょにいた」
うう、ううと、うなるような声がかすかに空気をゆらす。
やよいは泣いているようだ。
「そうじゃ……ないんです。昨日、あなたと別れたあと、急に社宅に引っ越すよう指示が出て……」
「まさか、行ったんですか? だって、あそこは友達があんなことになって、危険だとわかっていたはずだ」
うめき声が激しくなる。
「だって……入社したときから、わたしも使ってたんです。ベネフィット……」
ベネフィット。
人間を怪物に変える、あの化粧品のことか。
「昨日までなんともなかったのに、家に帰ったら、顔が……だから、言われるままにするしかなかった。マンションに移って治療すれば治るからって言われたんです」
ふいにあたりが明るくなった。照明が点灯された。
真正面に立つやよいの姿がハッキリと見えた。心のどこかで予想していたが、衝撃的だった。
昨日までふつうの若い女性だったのに、今の彼女はまるで百歳の老婆だ。髪は白くなり、顔はしわだらけに、腰もまがっている。
やよいはうなりながら、しきりに顔をこすっていた。ポロポロと皮膚がけずれていく。その下から、しだいに黒いものが現れる。
昨日の綾子と同じだ。
鱗の生えたトカゲのような顔。
人魚のようでもあるが、少し違っていた。蛇だ。ペロペロとのぞく舌のさきが二つに割れている。
おそらく、やよいはすでに精神的に黒川の術中にハマっていた。根底のところで操作されていたのだ。
友達を案ずる気持ちを利用されたのかもしれない。そう思えば哀れだった。やよいもまた犠牲者だ。
それにしても、悪魔の匂いが強くなる。
やよいが顔をこするたびに皮膚がそげ、そのたびに彼女の体も大きくなっていった。
やがて、人間の皮をすっかり脱ぎすてて、巨大な大蛇が現れた。見たこともないほど大きな蛇。かまくびをもたげるとホールの天井にまで届く。
「上級悪魔だな。龍郎。彼女はもう人間ではない」
神父がささやく。
わかっている。
低級悪魔とは違う匂い。
青蘭がロザリオだけで倒せるギリギリの悪魔だ。龍郎でも右手を光らせるだけでは退治できない。
「フレデリックさん。青蘭を守ってください。おれが戦う」
「ああ。頼む」
青蘭は龍郎の手を離そうとしなかった。だが、それをふりほどいて、退魔の剣を呼びだす。青い刀身が電光をしのぐほど輝く。
大蛇はもはや人としての意識を喪失したようだ。まっすぐに龍郎にむかってくる。あごの骨を外し、最大にひらいた口はかるく龍郎の身長をこえる。
龍郎はみずから大蛇の口中につっこんだ。毒液をしたたらせる二本の牙のあいだに剣をつきたてる。
声なき声が大蛇の口からあがり、大気をゆるがす。
龍郎はさらに刃を押しこみ、大蛇の頭部をまんなかから二分した。
やはり、魔王にくらべれば、上級悪魔など他愛ない。あっけないものだ。
大蛇の長い体が光の粒になる。
そのまま消滅するのだと思った。
が……。
いったい、どういうことだろうか?
青い光の粒は青蘭の唇に吸われていく。
さっきまで熱にうかされて足元もおぼつかなかったのに、青蘭の顔色が平常に戻っていく。呼吸も静まり、目に見えて回復した。
青蘭は自分でも驚いて、縫合した腹部に手をあてる。
「痛くなくなった」
縫合あとがふさがれたのだ。
怪我が治癒した。
龍郎は愕然として言葉にならない。
なぜ、そんなことが起こるのだろうか。
だって、青蘭のなかから快楽の玉は奪われた。
あの魔法の輝きを放つ赤い玉。
あれはまごうかたなき天使の心臓だ。
この世にはあるはずもない“まれなるもの”だ。
これまで退魔した魔王や邪神を、たしかに青蘭は食った。でもそれは青蘭のなかにある快楽の玉が、彼らの魔力を吸収していたからだ。新しい天使を生みだすために、多くの命を吸い、たくわえている。
玉がないのに、その現象が起こるはずなどない。
そこまで考えて、龍郎は背筋の寒くなるような感覚を味わった。
(いや、でも、もしかして……)
青蘭はアンドロマリウスの実験によって造られた、擬似天使。
天使と同じアンドロマリウスの細胞から、アスモデウスの遺伝子配列をもとにして生まれた。
そう。青蘭は天使だ。
とすれば、青蘭の心臓も、快楽の玉なのではないだろうか?
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