第3話 ナイアルラトホテップ その三
「おいおい。君の弁護士、いくらなんでも電灯くらい、とりかえといてくれないかな。切れたんじゃないか?」
黒川が肩をすくめるのだが、他の三人は無言だ。
龍郎、青蘭、フレデリック神父。
三人ともエクソシストだから、空気感の違いにすぐ気づいた。
「……結界に入ったな」と、神父が低声でささやく。
「ですね。せめて書類くらい受けとらせてくれてもいいのに。容赦してくれなさそうだ」
それにしても龍郎は気になった。
この結界を作った悪魔は、ずっとここに巣食っているのか。あるいは、龍郎たちが到着したこのタイミング。最初からターゲットをしぼり、龍郎たちの到来にあわせて罠を仕組んだのか?
どちらなのかによって、かなり対処が異なってくる。
龍郎たちを待ちぶせしたというのなら、そもそもこの事務所に来るように仕向けたとも考えられる。となれば、当然、狙いは青蘭だ。
「龍郎。油断するなよ。君はいつも青蘭を危険にさらすからな」
「そういうフレデリックさんこそ、黒川さんを守ってください」
「わかっているさ」
龍郎は青蘭とならんでソファーにすわっていた。左手で青蘭の手をにぎりしめる。手をつなぐだけで、トクン、トクンとたがいの心臓の脈拍がわかる。
暗がりのなかで息を殺して、なりゆきを見守っていた。結界のなかへ誘いこんだということは、悪魔は何かを仕掛けてくるはずだ。
「いったい、なんなんだ? 窓の外が見えないな」
「黒川さん。おれたちから離れないでください」
度胸がいいのか、事態を把握してないせいなのか、黒川はキャリーケースをひきまわしながら、室内をウロついている。
しかし、それもしかたない。
数分待っても何も起こらないのだ。
(変だな。たいてい悪魔の結界のなかに入ると、襲ってくるもんだけど)
このままでは埒があかない。
「離れるなって? そんなこと言っても停電のままじゃ困るじゃないか。クーラーは……つけなくても大丈夫みたいだが。やけに寒いな。日当たりが悪いせいか?」
ぶつぶつ言いながら、黒川は事務所のドアをあけた。そして「あッ」と大きな声をあげる。
「黒川さん。どうかしましたか?」
黒川の背中で外がよく見えない。
龍郎は立ちあがって廊下をながめた。
黒川とむきあうように誰かが立っている。
黒川の肩ごしにその姿を見て、龍郎は驚愕した。それはもうこの世にはいないはずの者だ。
ふわふわと波打つ長い黒髪。
かなり整った彫りの深い造作。
瞳に虹彩がなく、青い流動体のように渦を巻いている。
マイノグーラだ。
先日、バリ島へ行ったときに遭遇し、退魔滅却したクトゥルフの邪神。
いや、よく見ると、肌の色が違う。
マイノグーラは褐色の肌だったが、そこにいる者は白い肌をしていた。しかし、面立ちはそっくりだ。
「マイノグーラ……か?」
邪神のことだから倒したと思っても、人間には想像もつかない方法で再生したのかもしれないと考えた。
邪神は笑った。
「わが名は——」と言う声を聞いて、それがマイノグーラではないと悟る。マイノグーラの声はかなりアルトだったものの、まがりなりにも女声だった。が、この声は完全に男性のものだ。
「わが名はナイアルラトホテップ。アザトースの腹心にして千の顔を持つ神と呼ばれている。這いよる混沌ともな」
ナイアルラトホテップ——
付け焼き刃の知識しか持たない龍郎も、さすがにこの邪神の名は知っていた。クトゥルフ神話において、クトゥルフの次くらいに有名な神だ。
無貌の神とも言われ、あらゆる姿に化身することができるという。
マイノグーラに酷似したこの姿は、そのせいだろうか。
「マイノグーラは私の従姉妹だ。愚かな女だったがな」と、ナイアルラトホテップは感情のない声音でつぶやくように告げた。龍郎の心を読んでいる。
「復讐に来たのか? おれたちがマイノグーラを倒したから」
「復讐? バカバカしい。今日は君たちを招待しよう」
「どこへ?」
「来ればわかる」
邪神とふつうに話していることが不思議だ。クトゥルフやツァトゥグアなどは外形からして、ふためと見られない醜怪な化け物だし、意思の疎通なんて、とてもじゃないがとれなかった。
しかし、そう言えば、マイノグーラは下品ではあったものの人語を話し、考えかたも人間くさかった。
文献によれば、ナイアルラトホテップはしばしば人に化身して現れる。精神構造もいくらか人間に近いのかもしれない。もちろん、だからと言って百パーセント人類と同一ではないに決まっているが。
「気をつけろ」と、神父が忠告する。
「私は以前、こいつと出会ったことがある。カルト教団の教祖のふりをして、人間を邪神の奉仕種族に作りかえていた」
すると、ナイアルラトホテップは忍び笑った。
「やあ、セオ。久しいな。だが、今は再会を喜んでいるいとまはない。ただの人間にすぎないおまえは、おとなしく『待て』をしているがいい。あのころのように」
カッと神父の白皙が赤く染まるのを、龍郎は初めて見た。どんなときでも腹が立つくらい冷静沈着な男だったのに。
神父がロザリオを左手に持ち、ナイアルラトホテップにとびかかっていく。
その瞬間、空間がくずれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます