第3話 ナイアルラトホテップ その四



 次元が水飴のように伸び、他の異空間につながるあの感覚。

 同じ部屋にいた神父や黒川の姿が異様にゆがみ、みるみるうちに遠くなった。手をつないでいた青蘭だけは、途中までいっしょだったような気がしたが、意識を保っているのが難しくなり、いつしか離ればなれになったらしかった。


 気がつくと龍郎は一人だった。

 ナイアルラトホテップもいない。

 何やら異様な場所にいた。

 泡だつ炭酸の海だ。

 足の下にショゴスの原形のようなゾル状の物体が蠢動しゅんどうしている。ぽかぽかとつねに気泡が浮かびあがり、ため息のような音をたてる。発酵している。泡の下で今にも何かが生まれそうなエネルギーを感じる。


 すると、少し離れた海面が大きく波打ち、海底から光が浮かびあがってきた。ものすごい速さで進んでくる。まるでロケットの勢いだ。

 金属音を立て、それは表面張力をつきやぶると、どこか遠い空へと飛びだしていった。


(ゾス星系仮想石物体だ!)


 穂村がそう名づけた宇宙を超える邪神の種。石に仮想した生命が、また一つ宇宙へと旅立ったのだ。


 まさかと思うが、龍郎の立っているのも宇宙なのだろうか?

 そう思ってみると、足元の遥か下に無数の星が透けて見える。

 まちがいなく、宇宙の深淵だ。


 めまいを感じてすわりこんだ。

 暗い水底から何かが近づいてくるように見えた。

 魚? それともクトゥルフの怪物か?

 あわてて立ちあがると影は消えた。


 ここはいったい、どこなのだろうか?

 ゾス星系仮想石物体の生まれる場所。

 つまり、クトゥルフたちの故郷か?


 どこかから音楽が聞こえる。

 かすかに切れぎれの旋律。

 それは胸の奥をかきむしるような哀愁に満ちている。失った何かを嘆くような、と思えば、痛みをなだめるような音。


(これ……アスモデウスが歌ってたメロディーじゃないか?)


 龍郎は歌声の聞こえるほうを探した。あまりにも遠く、方角をつかむことさえ難しい。でも、近づきたい。

 何度も行きつ戻りつしながら、少しでもその声が大きく聞こえるほうへと走る。

 龍郎がふむと、地面は喜びブツブツと発酵する速度を速める。ミルクの雫で作った冠のように、足元にたくさんの気泡が広がり花ひらいた。


 ようやく、方角をつかむ。

 そっちに向かっていくと、歌声が強まった。目をこらすと砂つぶのように小さな突起が水平線の彼方にあるようだ。人だろうか?


「……青蘭?」


 それともアスモデウスだろうか。

 また、時間を越えてつながってしまったのか。


 夢中で走る。

 息が切れるほど、けんめいに走り続けているのに、いっこうに近づいている気がしない。

 遠い。その人までの距離はあまりにも遠い。


 時間の感覚にして数日は走りとおした気がする。一時間や二時間ではない。

 はてしない荒野をただひたすら走る。

 ようやく、視界の遥か端に人影を見つけた。


(青蘭——!)


 やはり、青蘭だ。

 まだ距離にすれば数キロ以上も離れている。

 しかし、念を集中すると、その姿がカメラのズームのように迫って見えた。


「青蘭! 青蘭!」


 龍郎の呼びかけに、その人はふりかえる。

 しかし、なんだかいつもの青蘭と違う。髪が長い。まっすぐな漆黒の髪を腰まで伸ばしている。

 ゆっくりとかえりみるそのおもては、たしかに青蘭。比類なく美しい。


 だが——


 さらにふりむくと、麗しいおもての半面には死斑が浮かびあがり、眼窩がんかは、ぽっかりと穴があいていた。


(亡者?)


 死人の青蘭。

 悲しげに微笑み、こっちにむかって手を伸ばしてくる。

 あの歌を口ずさみながら……。


 龍郎は必死で走った。

 しかし、しだいに二人の距離は遠ざかり、次元がひきのばされていく。


 気がつくと、龍郎は佐竹法律事務所のなかにいた。

 あの無限の海はすでに見えない。

 現実の場所だ。


 ハハハハハと頭上から哄笑が響く。


「まだ早いようだな。龍郎。おまえは早く苦痛の玉を完全な形に復元しろ。それがおまえの使命だ」

「ナイアルラトホテップ?」


 笑い声は去っていった。

 同時に消えていた電気がパチパチと点滅してから、もとどおりついた。

 外からドアを激しく叩く音がする。


「サー・マスコーヴィル? 誰かいないんですか? イタズラはやめていただきたい」

 島崎弁護士の声だ。


「結界が解けたな」と、神父。

「そうですね。邪神の気配がなくなった」


 いったいナイアルラトホテップは何をしたかったのだろう。

 さっきのあの幻影を龍郎に見せるためだったのか……?


(死んでいた、青蘭……)


 アスモデウスの死体ではない。

 今の人間の青蘭だ。黒髪の、少年のような体形の、単性生殖体メールの青蘭。


 ほんとにただの幻影だろうか。

 それとも……?


(そう言えば、以前にも見たことがあるぞ。あの姿の青蘭。六路村で亡者の群れにまぎれていた。六道からあふれてきた亡者に……)


 それは、青蘭がいつか死ぬということを指している……?


 不吉な考えをふりはらうように、龍郎は頭をふった。

 青蘭の手をにぎりしめる。が、青蘭もどこか、ぼんやりしていた。

 いや、青蘭だけではない。

 神父や黒川もだ。

 室内にいる全員が、ナイアルラトホテップによって、なんらかの幻覚を見せられたのかもしれない。


「いいかげん、あけてください」


 にぎやかにドアを叩く島崎の声を聞きつつ、龍郎はため息をついた。


 ナイアルラトホテップ——

 謎多き邪神だ。

 彼の目的はなんなのだろう?




 了

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