第25話 公空間と私空間

「うわー、おっきいねー!」

「はい、大きいのです!」


 遠くから見てもそこそこ大きかったその白い船は、近くで見るとびっくりするぐらい大きかった。こういうの、クルーズ船っていうんだっけ? 船首には”にっぽん丸”と書かれている。


「この時代にもクルーズ船ってあるんだねー。どこ行くんだろ?」

「あ、いえ、これは五百年ほど前のお船が博物館として保存されているだけなのです! 今の時代、お船に生身の人間は滅多に乗らないのです!」

「えー、そうだったんだ!」

 確かに言われてみれば、港って感じじゃないもんね、ここ。船の素材もよく見たらちょっと古いかも。古いっていっても、あたしからしたら未来の素材なんだけどね。


「これって、中に入るのは無理だよね?」

「はい、博物館なので私空間になるのです!」

「だよねぇ」

 残念!


 昨日看守からレクチャーを受けて知ったのだけど、この時代では公空間と私空間がかなり厳密に区別されている。私空間というのは、簡単に言うと無許可で入れない空間のこと。現実世界での出入りはもちろん、バーチャルでの出入りも厳しく制限されている。


 当たり前の話にも聞こえるけど、バーチャルがこれだけ発展したこの時代では超重要な制限だ。それがなかったら、知らない間に勝手に家の中に入られちゃうかもしれないからね。着替えを見られたり、家族との会話を聞かれたり……怖い怖い!


 家以外にも、店や学校や交通機関も私空間に分類されている。この辺りは昔の感覚とちょっと違うけど、要はバーチャルでこっそり中に入られるのを許容できるかどうか、っていう基準らしい。


 逆に公空間は、誰に見られても文句を言えないオープンな空間になる。たとえば、公園の茂みでエッチなことをした場合、バーチャルで誰かにこっそり観賞されても文句を言えないというわけだ。ある意味、常に全世界に生中継されているわけだから、公空間は昔以上にプライバシーがないと言えるかもね。


 バーチャルでも特別な手続きを踏めば私空間に入れるけど、囚人用のバーチャル仮釈放では手続き自体が認められていない。そんなわけで、あたしたちはこの船の中には入れないというわけだ。


「お船を見終わったら、さっきの芝生でゴロゴロするのです! フカフカで気持ちいいのです!」

「あ、うん!」


 クルーズ船の外観をひとしきり堪能したあたしたちは、さっき横切ってきた芝生に戻ることにした。


 途中、二十代ぐらいの男の人が座っているトイレのそばをスモモちゃんが平然と歩いていく。一瞬どうしようかと思ったけど、スモモちゃんに手を引っ張られているあたしにはどのみち進路の選択権はなかったのだった。


「ねえねえ、スモモちゃんはそのー、異性のトイレを見ることに抵抗ないの?」

「うにゅ? 子供の頃からこんな感じなので、別になんとも思わないのです! トイレなんて、小学校の教室にもあったのです!」

「教室にあったの!?」

 うえぇー、なにそれ? 男子の前で用を足すとか、絶対無理なんだけど! 羞恥プレイじゃん!


「そういえば、昔はトイレ専用の部屋があったのですね!」

「トイレ専用の部屋って……まあ、確かにそうと言えばそうだけど……」

「私からしたら、そっちの方が不思議なのです! 鼻をかむ専用の部屋もあったのですか?」

「いや、それはさすがになかったよ」

「鼻水もおしっこも、大して違いはないのです! 出る場所が違うだけなのです!」

「えー、そうかなぁ……」

 いやいや、全然違うでしょー。でもとりあえず、排泄に対するこの時代の人たちの感覚がどんなものなのかは分かったよ。薄々分かってはいたけどね……。




「この辺りにするのです!」

「うん!」


 芝生に戻ったあたしたちは、適当に場所を見つけて仰向けに寝転がった。フカフカだけどちょっとザラザラした、独特の心地良い感触が背中とお尻を包み込む。芝生に寝転がるのって初めてだけど、確かにこれは癖になるかも!


 目の前には、真っ青な空が広がっている。空って、こんなに広かったんだね。真上なんてほとんど見たことないから、知らなかったよ。


 と、隣で寝転がっているスモモちゃんがいきなり抱きついてきた。


「サクさーん、なんならここで一戦交えちゃいますか? 屋外ですし、人もいますが、仮想空間だから誰にも見られないのです! しかも、いつもと違って純粋に二人きりなのです!」

 おお! いいね、それ! めっちゃゾクゾクする! けど……


「うーん、ここでヤるのはちょっと抵抗があるかな……」

 ——ごめん、嘘。


「了解なのです! こうやって抱きついているだけで十分なのです!」

「ごめんね」

「大丈夫なのです!」

 ——ごめんね。この一週間、何かと理由をつけて「お誘い」を断ってるのに、スモモちゃんは何の疑いもなく受け入れてくれている。いつかはちゃんと話さないとね……。


「そういえばさ——」

 あたしは罪悪感を紛らわそうと、青い空に負けず劣らずブルーな話題をあえて口にする。


「この時代にも、自殺する人っているんだね」

「うにゅ? 不思議なのですか?」

「うん。この時代の人たちって、ストレスもなくのんびり生きてるように見えるから」

「そんなことはないのです! 人が他人と接する限り、ストレスは発生するのです! 人が他人と接しなくてもストレスは発生するのです! 人が生きている限り、ストレスはなくならないのです!」

 確かに昔よりは少ないのかもしれませんけどね、とスモモちゃんは付け加えた。


「ああ、そりゃそっかぁ……。いくら世の中が発展しても、心を病む人はいるってことなんだね……」

「そうなのです! 前にクレアさんも言っていたように、世の中が発展しても人間は変わっていないのです!」

「あれ? でもさ、治療できない病気はなくなったって看守さんが言ってたよ? だったら、心の病も治療できるんじゃないの?」

「うにゅにゅ。どうやら、病気の定義が昔と少し違うのです!」

「定義?」

「はい。まず、細菌性やウイルス性の病気は例外なく治せるのです! 悶絶したウイルスもたくさんあるのです!」

「多分、根絶かな?」

 どんなウイルスだよ……。


「ですです! あとは、内臓や血管や神経の疾患も完璧に治せるのです! もちろん、長年の課題だったガンもです!」

「うんうん」

「今の時代では基本的に、これらが『病気』なのです!」

「へぇー。じゃあ、心の病は?」

「昔からの慣習に引っ張られて今でも『病』と呼んでいますが、心の病は現代の定義では『価値観』なのです! あるいは、『価値観の怪我』とも言えるのです!」

「価値観? 価値観の怪我?」

 んん? どういうこと?


「たとえば、犬に吠えられてトラウマになった人が、犬を見ただけでパニック発作を起こすようになった場合、それはその人の犬に対する価値観が変化したということなのです! あるいは、犬に対する価値観が傷つけられたとも言えるのです!」

「ああ、なるほどー! そういう解釈になるんだね!」

 正しいのかどうかはあたしには分かんないけど、確かに辻褄は合っている気がする。


「それって、この時代でも治せないの?」

「いえ、治そうと思えば完璧に治せるのです! バーチャル学習システムを応用した、バーチャルカウンセリングシステムが使えるのです! ただ……」

「ただ?」

「強力すぎるので、洗脳になってしまうのです!」

「洗脳!?」

 なんか、物騒な言葉が出てきたよ?


「心の病ってつまるところ、周囲の事実を本人がどう解釈するかの問題なのです! それは、あくまでも本人にとっては正しい考え方や感じ方なので、いくら客観的に見て間違っていても他人が勝手に矯正してはいけないのです! 他人ができるのはアドバイスまでなのです!」

「そういうもんなの?」

「はい。本人が自分の価値観をこう変えたい、こう治したいと思うようになって初めて治療が可能になるのです! 本人の意思を無視して強制的に矯正するのは価値観の押し付けであり、洗脳なのです!」

「ああ、そういうことかぁ……」

「そうなのです! でも、心の病って、症状を自覚できないことも多いので、本人がSOSをあげるのがものすごく難しいのですよね。だから、今も昔も対処が難しいのです」

「なるほどねぇ……」


 そんな重たい会話をするあたしたちの上を、潮の香りが混じった初夏の爽やかな風が吹き抜けていった。

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