第10話
傷は、取りあえず焼き塞いだらしい。
匂いを辿っていたゼツにそう告げられて、残った二人は肩から力を抜いた。
焼き塞げたという事は、その動きが出来るほどの力は残っているという事だ。
「血は流しているようですが、勢いよく走っていたところを考えると、まだ余裕はあるかと」
「あの子の事だから、大怪我だと言うのを忘れて走っただけってことも、あるけどな」
安堵しながらも、別な不安をエンは口にする。
「鬼が近づいたってことは、確実にあの子を襲う気だったってことだし、まあ、逃げただけでも上等ね」
頷きながら、ロンは頭の中で話をまとめた。
鬼から逃れたセイに狐が近づき、その後傷が塞がれた。
「その、女の狐と言うのが、この山の主、ってことかしら?」
「その傍に付いていた、男の子供は?」
「狐って、あらゆる意味で情が深いのよ。大方、どこかで拾った捨て子か何かね」
先ほどよりも気楽な口調になった二人の傍で、意識を集中していたゼツが、首を傾げた。
「? 山を降り始めました」
「じゃあ、そろそろ戻って来るわね」
「ですが、方角が……」
村から離れて行く方向に、山を降りている。
「? まさか、このまま逃げる気じゃあ……」
「まさか。そこまで悪あがきする子じゃあ、ないわ」
自分たちが怪我の事を気付かずに、のんびりとここにいるとは思っていないはずだ。
起こってしまった事は仕方ないが、その事で自分たちが怒りに任せる方を心配して、宥めに戻ってくる方が、あの若者らしい動きだった。
「もしかして、役人に訴えに行ったのかしら?」
ロンが考えながら顔を顰めて、最悪な事態を口にしたが、ゼツは首を振った。
「それなら、方角は逆です。この村は、薩摩の領地内ですから。あの人が向かっているのは、我々の進行方向です」
「?」
役人の手が入ると言う事はなさそうだが、それならどういう考えで若者が動いているのか全く見えない。
三人はそれぞれ顔を見合わせて黙り込んだ。
「一つ、あり得るとしたら、鬼退治の為に、誘き出している、ってところかしら」
「しかし、あの子はそこまで、化け物類に目くじら立ててませんよ」
生き物なら、物を食らいながら生きなければならない。
その食い物が何であれ、むやみやたらに襲っている訳ではないのなら、黙認するのがあの若者だった。
「でも、人だった鬼が、共食いするのは許せないかもしれないわよ」
エンの言い分に、ロンは眉を寄せながら返した。
「昔の事思い出して、思わずそういう決心を固めちゃったのかも」
「……なら、わざわざ、オレたちから、遠ざかる必要はないでしょう?」
違うとは言えずエンが何とか返すと、色黒の男は少し笑って答えた。
「体のどこかを、食べられちゃったのかもしれないわね」
冗談になっていなかった。
聞いた二人が顔を強張らせて固まったのを見て、ロンは表情を改めて真顔で言った。
「そういう事態も、一応は考えておかないとね。世の中、何が起こるか分からないんだから」
それは、まだ若い方の二人も分かっているが、考えたいことではない。
セイが向かう場所が分からない以上下手に動けず、匂いを辿り続けるゼツが告げる足取りを聞きながら、何とか先行きを見極めようとしていると、遠慮がちに廊下から声がかけられた。
「お武家様方、もうお休みでしょうか?」
女の、落ち着いた声だ。
一瞬、息を詰めて連れたちと目を交わし、ロンがゆっくりと答える。
「どうなされた? このような刻限に?」
「失礼いたします」
答えた男に礼儀正しく言い、引き戸が静かに開いた。
村長の奥方が医者のコトと並んで、廊下に正座して深々と頭を下げた。
その後ろに座る若い女とその子の長吉が、同じように頭を下げる。
「この度は、お引止めいたしたと言うのに、何もお構いできず……」
「そのようなことはない。雨風が凌げるところで、一晩過ごせると言うのは、ありがたいことだ」
「ですが、お引止めいたした為に、お連れ様が……」
「何、あの者のことは、気にせずとも好い。あれで、中々子供の所があってな、大方外の様子が気になってフラフラと出歩いているのだろう。朝には戻ってくる」
エンが微笑んで心にもないことを言うと、白髪が混じり始めている小柄な女はほっとして微笑んだ。
「それならば、よろしいのですが……」
「帰ってくるまでは、誰かが起きていなければならぬのでな、物音が耳に障るかも知れない。それはこちらが詫びる事だ」
「いいえ、お気になさらず。年よりは元々眠りが浅いものでございます。この子たちは、一度寝たら地震が起きても、夢を見続けるくらいでございますから」
「いねさま。それは、言い過ぎではございませんか?」
思わず、コトが口を尖らせる。
場が和み、旅人の三人も表情を緩めていたが、それぞれの内心はそれとは裏腹のものだった。
何を考えているのか。
今この場に、二人の狐が、揃っていた。
雅は村に降りた。
まずは、人を手にかける、と言う考えを改めてほしくて、あれから毎年ずっと、きっかけを探していた。
「中々、それがつかめなくて、つかめたと思っても、翌年には元の木阿弥で、途方にくれながらも、取りあえずは何かやろうって、そんな気持ちだったんだ」
数年前に上手く村長の家に入り込み、どちらかと言うと女衆の方に近い場所で、村を見続けていた。
「夜は、こちらに戻って、無い知恵を絞り出すことを続けていたんだけど……」
去年の雨季だった。
その年の雨季一番目の旅人が、村の男衆と共に村長の家にやって来た。
「全員、大柄なお武家様たちだったよ。長く浪人して旅しているのか、髷は結っていなかったけど、身なりはきちんとしてて、見栄えのする方々だった」
だが、そのお武家たちの内、二人は獣の妖しだった。
だから、流石にこの者たちを害することは出来ないだろうと、雅は少しほっとしたのだが……。
「その夜、さっそく一人、消えた。その直ぐ後に、また儀式が行われたんだ」
駄目だったか。
雅は、自分の浅い考えを悔やんだ。
すでに村の男たちは、身分など頭から考えない程、血迷い始めていたのだ。
「お武家様の中で、一番弱そうで色白の若い方が、まずは消えた。次が誰かは分からないけど、ここまで来たら、今年も駄目かと諦めたんだけど……少ししてから、山の方で大量の血の匂いが、一気に漂い始めたんだ」
一時空けて、客間の方から地響きと物音が二度響き、家の中に残った女衆たちも何事かと動き始める。
雅は、そちらよりも、山の中が気になった。
血が大量に流れたという事は、消えたお武家は生きたまま山に連れて行かれたのだ。
そして、今も、流れている気配がある。
まさかと思いながら、それでも寝床に自分が寝ていると言う小細工をして、山に戻った。
その間に人食いの鬼が山に入ったが、それを振り切って山の奥に入って行く匂いを追って、雅はその背を見つけた。
戻って来た狐に慌てて追いついた戒も、その人物の背を見つめている。
激しく息を切らしているその若者の右腕は、袖ごとバッサリと落とされていた。
残った布地に滲む黒々とした血が、また地面に滴り始めている。
「よく、そんな怪我で走って来たなあって、思ってたら急にしゃきっとしたんだ」
そして、何かを口走り始めた。
初めは、やはり怪我が酷くて、意識が混沌としているのだろうと思ったのだが……。
「山に火を点けようって呟いて、本当に火打石を取り出したもんだから、思わず、声かけちゃったんだ」
相手は、飛び上がって驚いた。
身構えてしまう位に驚いたが、雅は気にせずに近づいた。
「実はね、私、本人に言われるまで、その子が男だって分からなかったんだ」
「? 始めから、お武家と言ってたのにか?」
もっともな返しに、雅は苦笑しながら言い訳する。
「匂いがね、すごく薄い子なんだ。この国の娘にしては大きいけど、色は白いし何よりあの顔立ち、あんな人間がいるのかって位、綺麗な子だったよ」
不躾に聞いて傷つけてしまったと白状した雅に、鏡月は大笑いし、蓮は空を仰いだ。
葵は、少し首を竦めて、恐る恐る尋ねた。
「あいつ、怒りませんでしたか?」
「いや、何だか、ふらついてたけど」
それは、怪我のせいだろうと雅は思っていたが、蓮は小さく笑った。
大きく育っても、女と決めつけられるとは思わなかったのだろう、その衝撃が怪我の出血も重なって、ふらついていたのだ。
図体はデカくなっても、相変わらずのようだ。
住処まで連れて行き、手当てを終えたお武家を引き留め、この山と村の儀式を話した。
「こっちは愚痴を言っている気分で話してたし、向こうも怪我のせいかぼんやりとして聞いてないようだった」
だから、薬を一気飲みして微笑んだお武家の言葉に、思わず間抜けな声で返していた。
「はあ? 何を言ってる? って。大丈夫か? とも、言ったかな。そんな私に、そのお武家、その表情のまま言ったんだ」
二、三、聞きたいことがある。
「一つ、自分たちは村の境の道に塞がっていた岩に足止められたのだが、その岩は本来どこにある物なのか。二つ、その岩は、私の両親がチギッタ頃からあるものなのか、それとも他に何かの謂れがある物か……」
「どう答えた?」
「……その前に、契るって言葉がぎこちないなと思って、聞き返しちゃった」
「ああ、あいつのことだ、夫婦になる二人が、何かを引きちぎる儀式が、狐の間にはあるんだろうとでも思ったんじゃねえの」
「よく分かったね、どうもそうらしいよ。夫婦になって同衾する、っていうこと自体を、契ると言うんだって、話しておいたけど」
頷いてはいたが、本当に分かったかは分からない。
雅は、未だに疑っているが、それはともかく、お武家の詮議に答えた。
「岩は、元々は山の鳥居の傍にある物で、時期が過ぎるといつもそこに戻ってくる。ただあるだけで、何かがついている気配も、何かの謂れがあるとも聞いたことがない。大体、事が起こり始めるまでは、そこにある事すら忘れることがある岩だった」
そう答えた雅に若者は頷き、きっぱりと言った。
「なら、あの岩を壊せば、大方の事は収まるな」
耳を疑った二人に、お武家は付け加えた。
「ついでに鬼も、誘き出して片付ける」
再び、はあ? であった。
「その時は、先の村の上野様の所で聞いた、山の話を知らなかったもんだから、怪我で頭がおかしくなったんだなって、思ったんだけど……」
二人が唖然としている間に、若者の中では考えが定まって来たらしい。
「もう一つ、その岩が今ある場所まで、村に降りずに行ける道を教えてくれって。私が行くって言ったんだけど、私には別な、大事なことを頼みたいって」
渋る戒を説き伏せて道案内に送り出し、雅は後ろ髪を引かれる思いで村へと戻ったのだった。
そんな雅が頼まれたことは、若者の連れたちの、足止め、だった。
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