第9話

 昔、それこそこの国が、ようやく国らしい活気を見せ始めた頃まで遡った昔。

 その狐は、ある人間の男と添うことになった。

「でも、母も言っていたんだけど、決して想い合っての契りじゃなかった。父だった男は、友人の男との約束を、死ぬ前に守りたいと、自分を慕っていた女の、母と添うことにしたんだって」

 その約束は、どんなものだったのか、雅は知らない。

 母の寿は知っていたようだが、未だに口を割ってくれないのだ。

「そりゃあ、言えんだろう。あんな理由で、子まで作る気になったなど、当の子供に言えるわけがない」

「あんな理由? どんな理由ですか?」

 話し出した雅の問いに、鏡月は小さく笑いながら首を振ったが、その笑顔は剣を帯びているように見えた。

「それは、オレの口からも言えんな。しかし、そんな昔から遡らんと、話は進まないのか?」

「ええ。多分、発端は、その契りから、ですから」

 一年後、寿は無事子供を出産した。

 四つ子の、男女の子供だった。

「一人は女児で、残りは男児。ただ……」

 女児以外は、普通の狐の形で生まれてきた。

 人間などと混じったせいだと責められながらも、寿は大事に育てた。

「人間だった父は、寿命間近になって、山を下りて姿を消しました。こんな平穏な死にざまを、私たちに見せたくないって、自分勝手な理由で」

 子供を可愛がっていたはずの男のその仕打ちに、寿は一途な思いを断ち切った。

「狐の性が芽生えちゃったって言えばいいかな……。それから、今まで男をとっかえひっかえ……」

 これまで、夫に嫌われぬように抑えていた分、かなり荒れた。

「それを見ていられなくなったんでしょうね。弟たちは、山を下りてしまいました」

 自分と、兄を残して。

 姿は狐でも、母は妖しの狐だったせいか父親の言葉も分り、年を取るごとに姿も変えられるようになっていた兄は、母を正気に戻したい一心で、父の姿を模そうとした。

「でも、どうしても、母に似てしまって……最初から父親似の私を羨ましがっていました。私は私で、こんな容姿、嫌だったんですけどね」

 自分たちを、捨てた父親に似た自分。

 それを割り切れるようになるのは、随分後になってからだ。

 兄の方は、容姿の違いは早々に諦め、中身を似せようと努力し始めた。

 刀を持って諸国を回り、数年戻らない事が多くなった。

「その頃から、山の下に人間が住み始めて、やがて村が出来た」

 どこから流れて来たかは、分からない。

 だが、周囲には獣しかいなかった山の下は、人間独特の活気が出て来た。

 時々山の中に村の人間が入って狩りをして行くくらいで、これまでと変わらぬ日々が続いていたが、その数年後それは終わった。

「ある、こんな雨の時期です。兄が、ひょっこり戻って来ました。随分この辺りも賑やかになったって、嬉しそうに」

 その頃から、この山に住む、自分たちの存在が知られつつあった。

 そして、人の姿で出入りしていた兄は、ある日村の娘に見とがめられた。

 村長の一人娘だったその娘は、兄に親切心で注意し、旅人と誤魔化した狐を家に招いた。

 そして、見知らぬその者を、心底好いてしまった。

 それに気づいた兄は、早めに姿を消したが、その姿が山に消えるところを目撃されてしまっていた。

「その頃には、なぜか、たちの悪い狐が巣食っているって話が出来上がっていて……まあ、あの頃の母は、確かにたちの悪い狐だったから、流石に自重を促してたところだったんだけど、よりによって、村の者に手を出したことにされちゃってね」

 蓋を開ければ何のことはない、寿の息子が山から下りて来なかったと言うだけの話だ。

 村長の娘は、心底その狐に惚れてしまい、村長も一人娘の気に入った男ならと一晩のうちに決めてしまっていた。

「女の惚れたはれたは、そう言う方向に行っちまうからなあ」

 蓮がしみじみと頷き、先を促す。

「そうだよね。親が下手に力あると、更にとんでもない話になる」

 この場合の力は、財力であったり、権力であったりするのだが、実際、とんでもない話になった。

 その年の雨の日、村人総出による山狩りが行われた。

 やけくそ気味だった寿は、逃げも隠れもせず、彼らを迎え討った。

 討たれてこの世を去っても、構わないと考えていたのだろうが、そうはならなかった。

「村人が持ち寄った、つたない武器に倒れたのは、母親を庇った、兄だった」

 半分しか血が流れていないとはいえ、妖しの者の急所を、偶然にも狙われてしまったのだ。

「住処に運び込んだ時には、すでに息はなかった」

 手当てに回った雅の、悲痛な声の前に寿もそれを知り、怒りで我を忘れた。

 襲ってくる村の男衆を圧倒的な力で追い返し、最後に叫んだ。

「どんなに年月が過ぎようと、この恨み忘れるものか、末の代まで決して許しはしないっ」

 血を吐くような恨み言に、村人は震え、怯えた。

 どんな祟りが、この村を襲うのか。

 そんな空気の中で、その恨みによるものと思われる出来事が起こった。

 その翌日から、雨が、降らなくなってしまったのだ。

「雨?」

「そう。その年は、土を少し湿らせる程度の雨しか降らなくてね、村の民は、狐の祟りだって、言い合った」

 葵が目を見張った。

「狐って、本当に、そんなことが出来るんですかっ?」

 江戸や上方で増え始めた稲荷神社は、それを裏付けているのかと納得しかかった大男に、鏡月が呑気に笑った。

「出来るか。そんな、煩悩に溺れた狐が、天候を左右させるなど。出来そうな狐に一人心当たりはあるが、そいつはやれてもやるような奴ではない」

「そう、出来ないよ、そんな神がかった事。でも、時期が悪かったんだろうね。そう考えて、村の人は二度と山のこの住処に登って来ることは、なかったよ」

 その上、何とか狐の怒りを鎮めようと、村の民は村で収穫した物を、供物としてささげ始めた。

「翌年、山と村の境に鳥居が建ってね、そこに置かれるようになったんだけど……」

 雅は、そこで苦い顔になった。

「もう一つ、木でできた人一人楽に入りそうな箱が、並んで置かれてた」

 夜、重々しい蓋のその箱が村の男衆の手で置かれ、蓋が仰々しく開けられる。

 その中身を初めてみた時、雅は村の男たちの正気を疑った。

 自分の兄位の外見年齢の、若い男が震えながらその中で正座をし、念仏を唱えている。

「……生贄、か」

 呆れて呟いた鏡月に、雅も苦笑で頷く。

「そのつもりだったみたいです。追い払おうにも、もしこちらが出ることで、心の臓の動きが止まったら大変でしょう? だから、一晩放って置いたら……」

 翌日の朝、様子を見に来た村人と共にその若い衆は村に戻って行った。

「これで、こちらの気持ちが通じるのなら、話は楽だったんだけどねえ……」

 安心したのもつかの間、その晩も、翌日の晩も、その奇妙な動きは止まらなかった。

「しかも、とっかえひっかえ、十代の若い衆が、同じ場所で一夜を明かしていくんだ。もう、勘弁してほしかったよ」

 この奇妙な儀式は、雨季のこの時期を過ぎると不意に終わった。

「その時は、本当に安心したんだけど……」

 その儀式は、翌年の同じ時期にまた唐突に始まった。

「それから毎年、よく飽きないなって位、本当に長い間続いた」

 そして、先に音を上げたのが、母親の寿だった。

「まあ、気持ちは分かるし、先に音を上げたものが勝ち、って奴だよね。それでも、五十年位は我慢してたから、あの人にしては、気が長かったよ」

 一人になった雅は、いつかは忘れてくれることを祈りながら、村人の泣きそうな謝罪を聞き続けていた。

「でも、それもだんだん億劫になって来たんだ。で、ある年の雨季の初め……」

 そこで、雅は口ごもった。

「……あんたは、何とかしようと動いたんだな?」

 蓮の静かな問いかけに、娘は無言で頷いた。

「それが、あんなことになるなんて……思いもしなかったんだ」

 ゆっくりと、自分がやってしまった事を、雅は口に乗せた。


 五、六十年前、狐は意を決した。

 このまま忘れてくれることを祈りながら、村人に気遣いながら山を上り下りするのは、もううんざりだ。

 直接、村人に話を付けよう。

 決心した狐は、ある年の雨季の初め、いつものように若い衆が一人で祈り始めた時、声を掛けた。

「私の顔を見た途端、その人は、一目散に村に逃げ帰った」

 そんなに恐れられていたのかと、かなりの衝撃を受けたが、狐はめげなかった。

 その年の若い衆は、全員が人の姿をした狐に会い、一晩持たずに逃げ帰ってしまった。

 最後辺りは半ば意地と、もしかしたら、こうして怯えさせれば、次の年からは静かかもしれないという願いで、狐は姿を見せ続けていたのだが……。

「九日目に来た人は、様子が違っていたんだ」

 そもそも、村人ですらなかった。

 村の若い衆が怯えきってしまったのか、病が蔓延していたのか、その夜来たのはたまたま村に立ち寄った、医者の若い男だったのだ。

 その若者は、突然出て来た狐にも目を見張っただけで、逃げなかった。

 そして狐は、初めて、父親以外の人間に、笑いかけられた。

 狐はその若者に、村人たちへの伝言を頼んだ。

 若者は、快く引き受けてくれ、一晩いる約束だと言って、その場で狐と会話を始めた。

 自分の故郷の話から、今まで立ち寄った村々の話、これから医学を勉強する為に、出島へと向かっていると言っていた。

 しっかり医学を身につけて、再びこの村に立ち寄ろうと若者は言い、翌朝村へと戻って行った。

 その背を、狐は見えなくなるまで見送った。

 再び会える日を楽しみに待つつもりでいたのだが、それは意外に早かった。

「その日の夜、その人が、無造作に山に投げ込まれた。私が、余計な事をしたせいで……」

 急いで若者に近づこうとした狐は、その若者の傍に蹲る者を見た。

 それが、あの鬼、だった。

 もう動かない若者に何をしているのか、狐にはすぐに察しがついた。

「見ていられなかった。何とか、あの人を、助けたかったのに……」

「……」

「そこで、その年の儀式も打ち切りになった」

 本当に、これで終わったと、狐は思った。

 その代償はあまりに大きかったが、そう考えようと言い聞かせ、自分に芽生えた思いは、胸の奥に押し込んだ。

 それなのに……。

「その翌年からだよ。あんな、最悪な、しかも、村とは関係ない旅人を・・・」

 切れ切れに、それでもしっかりと話していた狐が、顔を伏せてしまった。

 セイはその話を、穴倉の石壁にもたれてぼんやりと聞いていた。

 相槌も聞き返すこともせずにただ黙っている若者と、黙ってしまった狐の元に、先ほど水汲みに出かけた子供が戻って来た。

 そして静まり返っている二人に一瞬立ち竦み、そっと狐に声を掛ける。

「おい?」

「ん? あ、ありがとう。湯を沸かそう」

「ああ。大丈夫か?」

「大丈夫だよ。……あなたも、血を多く流したんだから、少し体を楽にしてから、動いた方がいい」

 声を掛けた先の若者は、黙り込んだままだ。

 目だけを二人に向けて、小さく頷きながらも、何かを考えているようだ。

 優しく子供に笑って見せて、狐は鍋を火にかける。

 その様子を見るともなく見ながら、セイは不意に声を掛けた。

「少し、尋ねてもいいか?」

「ん? 何を?」

「あんたの二人の兄弟は、今どこにいる?」

「さあ、あの子たちは、多少力のある狐ってだけだったから、今も元気かは分からない。ただ、兄のこともあるから、もしかしたら独り立ちしてから、そういう力を身につけたかもしれないね」

「他に、親族は?」

「母方が伯母と叔父の二人で、父方が一人。父方の方には一度も会ったことないし、母方は叔父と顔を合わせたことがある位で、ここに近づく親族は、あまりいない」

「……最近、その叔父と会ったか?」

「いや、そう言えば、あの鬼が来る前は頻繁に来ていたけど」

 その叔父は、一人でこの山に住む娘が不憫だと、よく顔を見せた。

「……そう、か」

 一瞬、目を細めて頷いた若者のその仕草に引っ掛かりを覚えたが、尋ねる前に相手は再び石壁に背を預けた。

 相当辛そうに見えて、狐は眉を顰めて器を差し出した。

「効かないかもしれないけど、痛みを和らげる位は出来る薬だよ。気休めにしかならないけど・・・」

 目の前に差し出された器を凝視し、セイはその器越しに狐の表情を見る。

 焦燥していたが、自分を心配しているのは伝わって来た。

 左手を器に伸ばしながら、セイは言った。

「私が出会う狐は、どうしてこうも人が良いんだろうな。人の心配してる場合じゃないだろうに」

「あなたの連れが、あなたを探しに山に登って来ても、一向に構わない。むしろ、そうしてくれた方がいいかもしれない。元を絶てば、今度こそ本当に、村も、旅の人も、助かる」

「元、か。それは、あんたじゃないだろう」

「いや、自然に廃れたかもしれない儀式なのに、それが待てなくなった、私が一番悪い」

「……」

「あの人に、私は名前をもらった。母の名前を聞いたあの人が、笑いながらつけてくれた名前だ。でも、あの人の仇の村の人間たちを憎む気持ちは、起こらないんだ」

 男の形で過ごすようになったのは、願掛けのようなものだ。

 儀式は意味がない、それを村人たちに分かってほしい、そんな願いを、この数十年持ち続けていた。

 狐は、子供に目を向けて小さく笑った。

「何年前だったかな、この子を連れたお坊さんが、あなたと同じことを言ってくれたよ」

 村の異様な空気を察したその僧は、それを見つけかかっていたようだった。

「……村の長の家で、何かと話をしていた。オレには見えないモノと」

 首を傾げる子供の頭を撫で、微笑んだ僧は、その日のうちに村人の手にかかった。

 お前のせいではない、きっと別な糸口はある。

 寝床から消える前にすれ違った時に、やんわりと言ってくれたその僧が残した子供を、狐はすぐに山に連れ帰った。

「情けないけど、それ位しか出来なかった。今まで、死んでいった人たちを弔ってやることも出来ないんだ」

「……そうか。なら、それ位は、出来るようにしよう」

 不意に、セイが身を起こし、きっぱりと言った。

 痛みの波が落ち着いた今が、動く時だ。

 手にしていた器を勢いよくあおり中身を空にしてしまうと、静かに狐に差し出した。

「これの礼だと思ってくれていい。その儀式の元を、私が、絶つ」

 言い切った若者が、二人に笑顔を向けた。

 それは、先ほどの身震いする笑みではなく、相手を抵抗なく安心させる、優しい笑顔だった。

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