第8話
ゼツの言葉を聞いて、不覚にも呆然としていたのは僅かな時で、我に返ったエンはすぐに事情を察した。
村の民の、しつこいまでの引き留めは、儀式のためだ。
儀式が外に漏れないのは、この雨の多くなる時期、旅人にしか明かさないからだ。
しかも、その旅人は村を出れない。
なぜなら、儀式の供物が、旅で立ち寄っただけの男たちだからだ。
「……神隠しが、聞いて呆れるわね。そういうことなの」
人を食ったような声音で、ロンが呟いた。
抑えられたその声が、男の心境をはっきりと表しているのが、近親者には分かる。
「これは、素通りなんて、出来ませんね」
穏やかに、エンも頷きながら、笑顔を浮かべる。
「そうねえ。まさか、こんなことに、よりによってあの子を使おうとするなんて、ちょっとのお灸じゃあ、済まないわねえ」
二人が顔を見合わせて頷き合うのを、他の二人は、自分の心境そっちのけで見つめ、身を縮めた。
まずい、これは……。
二人して、その場を離れる理由を探っていたが、その前にロンがオキに呼び掛けた。
「オキちゃん。この村の近くに、他の子たちは何人くらいいそう?」
「別れたのは、随分前だからな。いるとすれば、祭り目当てのジュラ、ジュリ兄妹くらいだろう。あと、酒でつられて、先の村で居座ってるはずのメルだ」
尋ねられるままに答えてから、オキはぎょっとなった。
「おい、まさか、この村を……」
「ええ。呼んであげて」
有無を言わせぬ口調の命令に、男は思わず、黙って頷いていた。
立ち上がったオキに続いて、立ち上がろうとしたゼツを、エンが止める。
「お前は、今あいつがどういう状況か、匂いを辿ってくれ。ちゃんと動いているのか?」
「は、はい」
固まって座りなおした大男の肩を叩き、オキは足早に部屋を後にした。
「……大丈夫です。動いています。村人たちが、山から戻って来ました」
「やっぱり、あの子は置き去り?」
「はい。……家に残っていた鬼と、狐の一人が動きました。山に向かっています」
「狐と鬼? 狐は男の方か?」
「いいえ。女の方です」
答えたゼツの声が緊張を含んだ。
「鬼が、あの人に近づきました」
見苦しくても、足掻きに足掻いて、老衰で死ね。
真剣にそう約束させられた時の事を、セイはずっと心に刻んでいた。
その約束と共に、お守りと手渡された物は首にかかっていた。
ここまで生きてしまったのだから、どうせなら、これをこの手で本人に返したい。
村の男衆が立ち去った後、激痛に堪えて身を起こしたセイは、その一念で右腕の傷の止血をしたが、思わずため息を漏らした。
これでは、右腕は完全に使えない。
玄人の刃で、こうなったのなら分かるが、相手は農村の若い男だった。
油断したつもりはなかったが、こういう突発の悲劇が起こるのも、旅暮らしの中ではよくあることだ。
だからこそ、注意しなければならなかったのに。
大きく息を吐いてから、セイは周囲を見回した。
山の斜面が薄暗い中でも伺え、さほど高い山ではないと分かる。
その山の、ほんの入り口当たりの鳥居の内側に、セイは取り残されていた。
「……なるほどな」
昼間、エンも言っていた。
神隠しは、何も本当に神が連れ去るという訳ではない。
かどわかしや、不慮の事態で行方が分からなくなることもある。
その、不慮の事態の一つがこれ、ということだろう。
打たれた頭の痛みと、切られた腕の痛みの中、げっそりとして肩を落とす若者の耳に、何かが地面に落ちた音が聞こえた。
振り返って、思い出す。
木に、斧で縫い付けられていた自身の腕が、その重みで落ちた音だった。
まだ、縫いついたままの袖の切れ端には目を向けず、セイは膝で近づいて、落ちた腕を拾い上げた。
肘下から指先までは義手だが、残りは生身だった。
幼い頃、セイは両手と親を失い、回りまわって祖父のいた集団に、身を寄せる事となった。
早くから怪我の治りが悪い事を知っていた祖父は、大きくなっても大丈夫なように、どんどん長さや大きさを変えてこしらえた義手に、更なる工夫を凝らした。
使うことがなかった工夫だが、村に戻るにしろ戻らないにしろ、やらなければならない事には必要な工夫だった。
それでも、形見であるそれを壊すのを躊躇っていたセイは、村の方から来る足音に気づいた。
村人が舞い戻って、自分の様子でも見に来たのかと、緊張して何とか立ち上がり、少し身構えた若者は、思わず唖然としてその人物を見上げた。
少なくてもあの村の中にはいないはずの、自分の連れの一人位の大男が、セイを見下ろしていた。
背丈は連れの一人位だが、体格はけた違いに大きい。
思わず、見上げたまま立ち尽くす若者に近づいた大男は、血走った眼で若者を見つめていたが、やがてにんまりと笑った。
そして、色々な疑問が頭を埋めている若者の両肩を掴み、大きく口を開けた。
血生臭い匂いに我に返ったセイは、噛みつかれる前にとっさに手にしていた物をその口に押し込んだ。
そのままその手から逃れようとして、思い出す。
再び口に押し込んだものの指を掴み、引っ張った。
大男と怪我人の引っ張り合いは、焦れた大男が若者を殴りつける前に、当の怪我人が焦れて攻撃することで終わった。
「この、放せっ」
精一杯の力で大男の腹に蹴りを入れ、腕を取り戻したセイは、ふらつきながら、取り戻した物を見た。
無駄な部分は、なくなっていた。
大男の歯で、噛み取られたらしい。
「……」
残った義手から、大男の方に目を向けると、大男はあの攻撃を受けた後にも拘らず、身を起こして何かを貪り食っていた。
何を?
自分の、腕を、だ。
一瞬、頭の中が、真っ白になった。
と、思った時には、走り出していた。
斜面を駆け上がり、木の根に躓きながらも、走り続けた。
混乱と衝撃が収まって、ようやく足を緩め、木の根に躓いて転んだところで、そのまま蹲った。
吐き気がする。
こんな状況でも、吐けなくなった強靭な心が、心底憎い。
吐く代わりに、しばらく咳込んでから、セイは顔を上げた。
木の幹に背を預けて座り、傷口から大きく響く心音が、落ち着くのを待つ。
人相で分かっていても、その目で実際に見るのは、覚悟がいる。
それも、分かっていたが、ことごとく意表を突かれ、血が減って来ているせいもあってか、混乱が止まない。
まずは、血を止めよう。
ようやくそう思い立ったセイは、思い当たった。
今、村の中にいるはずの連れたちが、自分の今の状況に、気づいてしまったかもしれないことを。
匂いを辿れる大男が、道連れの一人にいる。
完全に、頭が冷えた。
冷えすぎて、血の気が更になくなった気すらする。
「まずい」
自分を、頭領に据えているあの男たちは、なぜか一様に自分の体調を心配する。
多少の怪我くらいは、こういう生活の中では仕方ないのに、神経質なくらいに気にする。
誰かに故意に怪我を負わされると、その者に報復する方向で固まってしまう。
気が合わない筈の連中が、そういうときだけ一致団結し、本当に宥めるのに苦労してしまう。
今、この大怪我が、村の者の手によると知れたら……村は、滅びの一途をたどる。
それは、止めなければ。
セイは短い思考の後、決断した。
腕は、もう隠しようがない。
だから、山に興味を持って入ったら迷ったことにし、暖を取ろうと薪を作ろうとして手が滑って切ってしまった事にしよう。
どう考えても怪しい言い訳だが、仕方がない。
その怪しい言い分を、少しでも怪しくないようにするために、この山を焼く。
何かが住んでいるかもしれないが、その何かには、後で謝ろう。
決断したら、行動は早いのが若者の長所だが、やはり混乱していたのだろう。
気づかなかった。
背後に近づいた者に、声を掛けられるその時まで。
「山を燃やすのは、勘弁してほしいんだけど」
文字通り、飛び上がった。
心の臓が、口から飛び出そうなほどに驚いたが、すぐに体勢を戻して身構え、声の主を見た。
そこには、すらりとした人影が立っていた。
自分と同じくらいの体格と背丈の、古着を着込んだその人物は、身構えたまま目を見開いた若者に近づいて溜息を吐いた。
「血が沢山流れた匂いがしたから、もしやと思って戻ってみたら……よく、ここまで逃げて来れたねえ」
「……狐? あんたが、この山の主、なのか?」
「主ってほど、大仰な物じゃないけど、ここを住処にしている狐だよ」
答えながら怪我の具合を見て、腕に巻いた手拭いを巻き直してくれる狐から、その背後に視線を移すと、そこにもう一人立ち尽くしていた。
こちらはまだ幼い、小柄な男の童だ。
「あれは、あんたの生んだ子供じゃないな?」
言った途端に、痛みが腕から脳天に響いた。
「あ、すまない」
「ち、違うなら、口でそう言ってくれっ。謝るから」
手拭いを力一杯締め付けられて、そう訴えるセイに謝ってから、狐は尋ねた。
「どうしてそう思った?」
「いや、一緒に住んでいるなら、そうなのかと思っただけだ。義理の母子かなと。違ったなら、謝る」
「謝る必要はないよ。弟みたいなものだってだけで、違いはない。でも、よく分かったね」
「何が?」
首を傾げた若者に、狐は辛抱強く尋ねた。
「だから、私が、女だって」
「………女じゃなかったのか?」
「女だけど……この見た目で、そう言われたの初めてだよ」
手を広げて、男物の古着を身につけた体を見せると、セイは更に首を傾げる。
「そうなのか。分からないものなのか? 見ただけでは性別も?」
「……男の体で男の身なりをしてるのに、分かるのはおかしくないかい?」
狐は眉を寄せたが、セイの方は、それ以上この件で何を言えばいいのか分からず、黙ってされるに任せた。
一連の動きを見守り、無感情に切り出す。
「火が欲しいんだが、どこか、燃やせる場所はないか?」
「だから、山を焼かれるのは、困るって言っただろ」
「……よく分かったな、そう考えてたことを」
感心した言葉に、狐は溜息を吐いて答えた。
「分かったも何も、一人でぶつぶつ言ってただろ」
気づかずに頭で考えていたことを、口走っていたらしい。
つくづく不調だと、ため息を吐くセイに、狐は言った。
「うちにおいで。火種位は貸してあげるよ」
「いや、それは……」
「獣の住処に行くのは、嫌かな?」
躊躇った若者に、狐は優しく尋ねながらも、相手の左腕を取っている。
「……いいのか? 人間を、自分の住処に入れても?」
取り繕いが通じないと察し、セイが眉を寄せて問い返すと、それにも優しい笑顔が返った。
「人間? 本当に? 獣の妖しを二人も連れた人たちが、人間の類に入るのか、怪しいと思うけど」
「……」
糠に釘。
何故か、その言葉が頭に浮かんだ。
普通に接していては、こちらが流されてしまう。
直感は鋭い方ではないセイだが、経験上の何かが頭の中でそう判断した。
「連れが妖しだからといって、安心してもいいものなのか? もしかしたら、何かで縛り付けて、道連れにしているのかもしれないだろうに」
やんわりと微笑んで返すと、狐の背後にいた子供が顔を引き攣らせた。
後ずさる子供を尻目に、狐は目を丸くする。
恐ろしく綺麗な笑顔だが、目は感情のないままだ。
勘の鈍い者なら、思わず見惚れて言われたことにも素直に頷いてしまうかもしれない。
勘の鋭い者なら、後ろの子供のように逃げ腰になるような、威圧感がある。
色白の顔に、小動物を思わせる、黒々とした瞳が目立つ。
感情が窺えないのにどうしてこうも、愛らしい目に見えるのか、その目を覗き込んでいた狐が、その目が黒目との境が、分からぬほどに黒いのに気づき、突然手を打った。
「そうか、目が違う」
「……何の話だ?」
何故か、色々な場面でよく効く方法を試したが全く効かず、それどころか目を覗きこまれて慄いていたセイが、探る目つきで尋ねたが、狐は一人納得するだけで答えず、立ち上がった。
有無を言わさぬ力で、若者の左肘を掴んだままだ。
「ちょっ、ちょっと待てっ」
「何、まだ、何か言いたいか?」
「だから、まずいだろうって、言ってるんだよっ。見も知らぬ男を、そんなに無防備に、住処に入れてもいいのかっ?」
女子は、大切にしよう。
そんな兄貴分たちの躾で、セイは、訳も分からずそれを口にした。
訳は分からないが、その言葉を言われた女は、躊躇って力を緩めてくれる。
だから、その隙にと思ったのだが、狐の答えは、予想外のものだった。
きょとんとして振り返り、言った。
「あなた、男なのか?」
「はあっ?」
今度こそ、頭の中が真っ白になった若者に構わず、狐は真剣に続けた。
「だって、他のお侍さんたちと違って、全然男臭くないじゃないか。うちの子だって、立派に男だって分かるのに。いや、旅先で苦労するから、男の格好してる娘さんかと、思ってたんだけど……」
さっきの鬼の行動を見た時よりも、この怪我の経緯よりも、衝撃が大きかった。
我に返った時には、狐の肩を借りて立ち上がっていた。
隙を突こうとして、逆に突かれてしまった。
間違いない、この狐は、自分が苦手とする類の生き物だ。
これ以上抗っても、それは墓穴を掘る行為にしかならない。
そんな奴は、そう何人もいないと思っていたのに、ここにもいてしまった。
そんな奴を、二人も道連れにしているセイは、その二人に対する時の態度をとることにした。
抗えるときは抗い、抗えない時は流されて、早く離れる。
だから、狐らしい穴倉に連れて行かれ、囲炉裏らしいものの傍に座らせてもらうまで、大人しく従っていた。
狐が、竈から火種を取り出して、囲炉裏に火を熾してくれたのを見て、セイは小さく礼を言ってから、ようやくゆっくりと腕を動かした。
左手に握りしめたままだった、右腕の残骸を自分の足元に置き、足で踏みつける。
中身が変形しないように気遣いながら、何回か踏み続けて現れたのは、錆びないように工夫された鉄の棒、だ。
「……
それまで黙って若者の動きを見守っていた狐が思わず呟くのに頷きながら、セイは掌の部分を残してその姿をむき出しにした。
「へえ……鉄だけで、その腕動いてたんだね。そっちの腕も?」
興味津々の問いかけには答えず、若者はその鉄の方を火にくべた。
祖父は、優れた鍛冶屋だった。
晩年は武器だけでなく、他の道具を作るのも一任されていたが、孫である若者の義手にはかなり真剣に取り組んでいた。
その一つが、これだ。
骨があるはずの義手のその部分を、熱くなりやすい鉄にすることで、若者の弱い部分を補ってやれると考えてくれた。
持ち手がないと、左手まで焼けて壊れかねないので見せられないが、指の関節まで鉄で再現している力作である。
狐が見守る中、セイは右肩に巻かれた手拭いを外し、衿口を開いた。
傷口が露わになり、顔を顰める子供の顔が横目に映るが、それにも構わず、火にくべていた鉄の棒を手に取る。
躊躇いなく、その鉄を傷口に押し当てると、子供が小さく悲鳴を上げ、狐も流石に顔を顰めた。
肉の焼ける嫌な音と匂いが漂う中、若者は無感情のまま傷を完全に焼き塞ぎ、塞ぎ残しがないかを確かめてから鉄の棒を離した。
服を羽織りなおして衿を正し、止血に使った手拭いでまだ熱い鉄の棒を包んでから、若者はようやく姿勢を正して狐を見た。
「助かった、本当に。改めて礼を言う」
役に則った言葉使いでの礼に、狐は頷いてから、思わず尋ねた。
「……痛くないのか?」
「痛いに決まっている。あんたは、腕切られても、痛くないのか?」
「痛いと思うよ。まだ、斬り落とされたことがないから、分からないけど。でも、随分、平然とやってたから、痛みがないのかなと……」
「痛い顔をしたら、痛みが和らぐのか? そうは思わなかったが」
無造作に後ろで束ねただけの髪の乱れを、軽く整えながらの声は、いつもの調子を取り戻していたが、これ以上の最悪な事態に対する術は、まだ思い浮かばない。
問われるままに答えながら、立ち上がったセイを、狐は慌てて止めた。
「ちょっと、そんな怪我で、どこに行く気だっ?」
「用は済んだから、お暇する」
「少し休んで行け。そんな状態で歩いたら、本当に危ない」
「そんな暇は、ない」
「暇も何も、ないだろう。血も随分流れているし、ふらふらしてるじゃないか」
本当に心配した声に、同じくらいの目線の狐と目を合わせ、若者は首を傾げた。
「そういう心配は、この下の村の民に、向けたらどうだ?」
反論しようと口を開く前に、早口で言い切る。
「こんな所で、のんびりしてたら、間違いなく、村一つ無くなるぞ」
「……どういう意味だ?」
突拍子のない断言に、思わず聞き返した狐に、セイは真面目に答えた。
「私の連れは、特に今いる連中は、それが出来る奴らだ。ここでのんびりとして、出方を誤ってしまったら、間違いなく、あの村の人間たちを滅する方へ、傾いてしまうだろう。それでもいいのか? あんたはあんたで、何か考えがあって、あんな格好で村に入り込んでいるんだろう?」
「あんな格好って……」
「人間に近い所に住んでいる割に、緊張感がないな。私でなくても、少し力のある者なら、気づくぞ。あんたが何に化けて、あの村に入り込んでいるのか」
「…‥」
「人間を、傷つける者じゃないから、本当に力を持つ者は、あんたを見逃しているだけだ」
傷の痛みを、呼吸を整えることで和らげながらのその言葉に、狐は肩を落とした。
「分かっている。この山で、命を落とした人たちの何人かにも言われたからね。でも、それが、見逃されていたのが、本当に良かったのか、分からなくなった」
本当に、どうにかしなければならぬのは、村に住み着いた鬼ではない。
正体も分からずその影に怯え、自分たちに火の粉がかからぬよう、何の関係もない人たちを手にかけて、差し出している村人たちだ。
そう考えた狐は、何とか村人の恐怖を削ごうと試みていた。
が、それは、毎年失敗に終わっていた。
「……私の連れたちは全員、根元から憂いを絶つ、そう決心できる気概と力を持っている。あんたが何を考えていようが、全く考えずに動ける奴らだ。そうされたくなければ、ここでおとなしくしていてくれ」
「根元は、私かも知れないじゃないかっ。憂いを絶つ、と言う考えがあるのなら、私の首を持って行ってくれっ」
縋る相手の間を上手く抜け、セイは背を向けたまま声を投げた。
「そんな誤魔化しが通るなら、会った時に、そうしている。村で顔を合わせた時に、真っ先に」
無感情な声は、それが本当に出来る、と言っている。
流石に体を強張らせた狐を振り返り、若者はゆっくりと告げた。
「別な、糸口があるはずだ。それを手繰れば、きっと、村人も無事に、助けられる」
「どこに、それがあるんだ?」
声もない狐の傍で、子供がようやく声を出した。
「だから、それを見つける。ここで休んで、後手に回るわけには、いかない」
自分に言い聞かせるように、若者は言い切った。
そして今度こそ歩き出したセイは、不意に後ろ髪を引かれた。
なぜ、そんな思い切った行動をしたのか、子供には自分でも分からなかったが、ふらりと歩き出したその背に揺れる、真っ直ぐな黒髪に思わず手が伸びてしまったのだ。
文字通り後ろ髪を引かれて体勢を崩した若者は、受け身も出来ずに後ろに倒れた。
まさか、ここまで簡単に倒れるとは思っていなかった子供は、下から睨まれてわたわたと言った。
「血を流した分は、休んだらどうだっ? 食い物なら、少しはある」
何かを言われる前に、早口でそう言い、子供は狐に声を掛けた。
「水を汲んでくる。魚焼くのは、任せた」
二人の返事を待たずに駆けて行く子供を見送って、何とか這い起きた若者は、立ち尽くしている狐を見ながらその場に腰を落ち着かせた。
青ざめたまま、ぎくしゃくと動き始める姿を、その姿勢で見上げて小さく息を吐く。
上の空のようでも、子供に任されたことは分かっているようで、住処の奥に行き、昼間に獲ったらしい魚を三匹手に戻って来た。
火を大きくして串刺しにした魚を、囲炉裏の周りに立てて行く。
一連の動きが止まって、囲炉裏の前で座り込んだ狐に、若者は静かに問いかけた。
「あの鬼、いつから、村に住み着いている?」
顔を上げた狐は、ぼんやりとしたままで、セイはもう一度問いを重ねた。
「元から住み着いていたわけじゃ、ないんだろ? あんたよりも、年は重ねていない鬼だ。いつから、あの村を餌場にしている?」
「はっきりとは、覚えてない。でも、今の村長の、二代前くらいからだったと思う」
年齢的には、その位だ。
先ほど会った大男を思い浮かべながら頷き、若者は更に問いかけた。
「あそこまで、村の者以外の者を巻き込み始めたのは、いつからだ?」
「……どうして、そんなことを訊くんだ?」
「何となく、儀式自体は、もっと前からやっていたような、そんな感じだった」
箱は手入れされていたが、かなり古い木製のものだった。
「五、六十年前……それまでは、梅雨時に、この下にある、鳥居の前で村の若い男衆の一人が、貢物と共に一晩残って、祈るだけの儀式だったんだ」
「祈る? 何を?」
「雨を、止めないでくれ、って」
肩を落としたまま、狐は力なく話し出した。
事の発端の、ある出来事を。
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