第3話

 そのご老体は、今年八十になったのだという。

「それは……お若い」

 驚きを隠さずそう言った娘に、上野うえのと名乗ったそのご老体は照れ臭そうに笑う。

 その顔も無邪気に見え、雅は思わず微笑んだ。

「あのお方が、先に逝かれたという知らせは、もう来ておる」

 そう声をかけた先には、蓮が座っていた。

「……」

「私よりも、お前の方が、堪えるだろうと、あの方も心配しておられた」

「今さら、人の寿命で堪えることなどありはしません。ですから、あなたも安心して、往生なすってください」

「相変わらず、辛いのう」

 言いながら苦笑する老人は、孫が来たというより、旧友が訪ねてきたような気楽さで、蓮と会話を交わしている。

「そういえば、蓮。お前が前に話してくれた話、こちらに戻ってから、聞いたぞ」

「おや、本当に、言い伝えられておりましたか」

 しばらく表情が硬かった蓮が、久しぶりに笑顔になった。

 今まで見た中で、一番嬉しそうな顔で、雅も気になって身を乗り出す。

「お話中、申し訳ありません。それは、どのようなお話なのですか?」

「別に申し訳がることも、遠慮することもない。薩摩のある村の、山の話なのだ」

「山……で、ございますか」

「うむ。その山はな、島原で起きた、大きな一揆が静まる少し前から、妙な者たちが住み着いてしまって、その者たちが、村を荒らしておったのだ」

 島原のその一揆は、薩摩の侍たちも出払う、戦のような騒動になっていた。

 だからこそ、荒らされる村の人々は、怯えながらもどうしようもなかったのだという。

「いつしか、その者たちが子供を攫い始めても、村人たちはどうしようもなくて、ただ仏に祈って過ごしていたのだが、ある時京から来た若いお坊さんが、その現状を知り、周囲の寺の徳の高い方々に呼び掛けて、その者たちを山に閉じ込めてくれたのだ」

「結界を張って、そいつらを必死で閉じ込めたはいいが、その京の坊さんは、そこから離れることが出来なくなっちまった。それだけ多く、集まってたんだ……妖しの類が」

 気を抜いて、閉じ込める力が弱まったら、真っ先に喰われるのは、恐らくはその僧だ。

 それでも、その僧は、二十年近くその場から動かなかった。

 村の者が、力を合わせて作った小さな小屋で、村人の施しを受けながら、その年月を過ごしたが、こちらの力は弱まれど、閉じ込めた者たちの力は、そのままだった。

「そんな時、あるお武家が、わざわざ訪ねてきたのだ」

 そのお武家は二人連れで、そのうちの一人は、何とも頼りない小娘のような、幼い子供だった。

 聞くと、京から僧を迎えにきた若者が、思い余って呼んだらしい。

 京の若者から、話を聞いて頷いたのは、幼い方だった。

 色白のその子供は、連れに一言何かを言い残し、若者について、山へと向かっていったのだった。

 ついて行った村人たちは、若者の紹介で僧に声をかけ、一人で山へ入っていく子供を、見送るしかなかった。

「その晩は、静かなものだったが、その次の夜、二晩目に山が騒がしくなった。どうやら山の中で何かが起こり、閉じ込めた者たちが、無理に外に出ようとしているらしかったのだが、坊さんは必死でそれをさせまいと、経を唱えていたそうだ」

 今までより強く、僧の加護を感じた村人たちも祈る中、その夜はようやく明け、日が昇ってから子供が山から戻って来た。

 全身血まみれで、恐ろしく眠そうな顔で。

「そこが、お前の話と違うのだ。村の者から聞いたという者の話では、その子供は、綺麗なままで出てきて、微笑んで村人に言ったそうだ。『もう、心配ない。憂いは去った』とな」

「言いませんよ。二晩も寝てねえんじゃあ、そんなお愛想無理ですよ、あいつには」

 呆れ顔の蓮が、手を振ってそう言い切るところを見ると、その人物を知っているらしい。

「大体、そんな大立ち回りして、身綺麗なままなんてこと、ありえねえ」

「……眠そうなだけ、っていうのも、ありえそうにないけど」

「坊さんや、村人に感謝されながら、その子供は、数日でその村を離れていったとか」

「逃げ戻って来た、とか何とか言ってたぜ。拝まれて居心地悪くて、眠ろうにも、その寝姿を拝もうとされたとか」

 言い伝えというものが、どれだけ信用できないか、分かる話である。

「そこまで、神がかりにされちまっちゃ、来れても来ねえよな」

 苦笑交じりの蓮に、雅は気になったことを尋ねた。

「あなたの、知り合いなのか?」

「ああ。生きてりゃ、六十過ぎちまってるけどな」

「人間だったのか? その子?」

「ああ。その筈だ。こういう生き方してたら、不幸なガキだったぜ。寿命が尽きて、逝っちまってた方が、あいつにとっては、幸せだろうさ」

 笑みを浮かべながらの言葉だったが、雅は道連れとしてやってきた中で、一番不思議に思っていた事に得心がいった。

 小さい体ながら、その体力は並ではないのに、なぜか投げやりな感じがする。

 その原因は、今出た話の主が、もうすでにこの世の者でないと、諦めているせいだ。

 こんな状態の若者に、自分の頼みごとを切り出すのは、酷だろうか。

 娘の気持ちなどお構いなしに、ご老体は、身を乗り出した。

「ところで、気づいたか? この村の山」

 急に問われ、蓮は少し考え、それから同じように身を乗り出す。

「やっぱり、あれが、お話の山ですよね?」

 先ほどから地が出つつも、蓮が丁寧な言葉を心掛けているところを見ると、上野の翁はかなり偉いか、世話になった相手なのだろう。

 目を輝かせながら話すご老体からは、想像もできないが。

 黙って座る戒とともに、聞き役に回った雅は、もう一つの山の言い伝えを聞いた。

「実はの、去年の夏、突如あの山の厄は、晴れたのだ」

「突如? 何の変わりもなかったのに、でございますか?」

「うむ」

 そこで、上野の翁はしばらく考えていたが、それはどこまで話そうかという、躇いだったようだった。

「他でもない、お前に話すのだから、まあいいか。どうせ、お前は、国を出るのだろう?」

「ええ。一度薩摩を歩いてから、船で出島に、と思っております」

 国とは、この島国、という意味のようだ。

 ますます落胆する雅の耳に、ご老体の話は届いた。

「去年の夏、我が家にある旅の方々が、泊まって行かれたのだ。その方の一人が、大切なものをからすに持って行かれてな、追いかけて行った先が、あの山の中だったのだそうだ」

 その一行は、全体的に、大柄な武者が多かった。

 うち二人は年ごろの娘で、都の方に向かうのだと、言っていた。

 その一行が一晩泊まった翌日、一つの騒ぎが起きたのだ。

「どこから降りてきたのか、恐ろしく大きな烏でな、遊んでいた子供たちの上を旋回した後、襲ってきたのだ」

 騒ぎを聞いた上野と旅人達が、子供を守りながら屋根のあるところに逃げる途中、客の一人の若者が、烏の嘴に捕らわれた。

 何とか振りほどいて、地に足を付け見上げると、烏は諦めたのか上へ登って行く。

 その嘴に、きらりと光る何かを咥えて揺らしながら山の方へ飛んで行くのを見て、若い客が立ち上がった。

 襟元を探るその表情は、険しいものになっている。

 その後、何かを口走り、若者はその後を追って、走って行った。

 村人も近づかないあの山に入るのを、誰も止める間は、なかったのだった。

 少し間を空けて騒ぎ出した村人たちを、宥める上野の耳に、若者の連れたちの会話が聞こえた。

「……ねえ、あの烏って、まさか」

「ちょっと、馬力が足りなかったわねえ」

「おい、大丈夫なんだろうな。本当に?」

「多分ね」

 小声でのその会話は気になったが、その会話は連れの数人だけで、他の連れは、村人と同じくらい取り乱していた。

「続いて山に入ろうとするのを、必死で止めたものだった。入った者は命がないというのは、言い伝えとして話した後だったから、それでも入ろうとする彼らと、あの若者の間柄は、どういうものなのか。少し気になったな」

 その後、若者は出て来なかった。

 山の中で力尽きたのだろうと、村人たちがさらに恐れ始めた三日目の夜、一人の若者が上野家を訪れ、客たちに引き継ぎを求めた。

「いなくなった若者と、同じくらいの年で、背丈も似ていたからてっきり戻ったと思ったんだが……」

「誰だったんですか?」

「分からずじまいだ」

 だが、客のあの会話を交わした者たちは、顔見知りだったらしい。

 客の一人が目を剥いたが、その男が何か言う前に、若者が言った。

「この、馬鹿者どもがっ」

 目を据わらせた若者は、返す言葉を待つつもりはないらしく、自分が言いたいことをまくし立てた。

「お前らは、オレの力を、勘違いしてるぞっ。いいか、お前が山に入っても、その性分を治してやるなど、無理だっ」

 指をさされた男は、負けじと言い返す。

「それ位、分かってるわよっ」

「なら、これは、分かってるのかっ? 生まれ持った体質は、変えられんっ。オレができるのは、生まれつき持っていたものを、甦らせる力を、その本人の身から、強引に引き出すことだけだっ」

「……どういうことですか?」

 これは、いなくなった若者を心配していた、連れの問いだ。

 その問いに、若者は少し抑えて答えた。

「人が数日かけて治す怪我を、一晩で綺麗に治す力を、その本人から引き出すと、 大抵は体力を失い命を落とす。お前らが山に入らせた奴は、どんな状態だった?」

「……入らせ……た?」

 来た当初、連れがいなくなるまで、笑顔を絶やさなかった男が、真顔で連れの一人を睨む。

 睨まれている方も、真顔になっていた。

「怪我を治す力を、本人から引き出すだけ、なの……?」

「やっと分かったか、この大馬鹿者がっ。お前らの責任で、あいつは迎えに来い」

「あの子は、無事なのっ?」

 捕まえようとした男からするりと逃げ、若者は無情に答えた。

「それも、自分の目で、確かめに来い」

 そして、後を振り返らずに、上野家を辞していく若者について、客が全員、山へ向かってしまった。

「思うに、あの若者は、山に住む者なのだろう」

「話からすると、そう感じますね」

 考えながら頷く蓮は、雅が妙な顔つきで、黙り込んでしまっているのに気付いたが、先に話の続きを促した。

「その若い侍は、無事だったんですか?」

「翌日の朝、連れの者たちと出てきた。その右手に、拾った大事なものを、握りしめておった」

 そこで、上野の翁は、溜息を吐いた。

「その若い侍は何かの衝突で、右腕をばっさり落とされていたのだが……」

 雅と戒の顔が、明らかに強張った。

「それが、生えていた、と」

 神がかりな話で驚くのは分かるが、それとは違う狼狽え方の二人に、話していた老人も、さすがに気になったようだ。

「どうしたのだ? 具合でも悪くなったか?」

「いえ。大丈夫です。お話を、続けてください」

「いや、しかし、顔色が、尋常ではないぞ」

 顔を曇らせて、老人は娘の顔を伺う。

「しばらく、奥で休むがいい。夕飯時には、まだ間があるからな」

「ありがとうございます。ですがその前に、一つだけ、お尋ねしても、よろしいでしょうか?」

 気遣った言葉に甘えて引いた雅は、頷いてくれた老人に、尋ねた。

「その若者が、握っていた大事なものというのは、黄金細工こがねざいくで丸い二つの石を、包んだものではありませんでしたか?」

 その問いに、蓮が目を見開いて固まったが、それに気づかず老人は頷いた。

「二つの色の違う丸い石を、八匹の蛇が包んでおった。色は褪せておったが、あれは黄金で作られておるのだろう。鎖も、胡麻粒ほどのものが連なって、素晴らしい細工であったぞ」

「……石は?」

「……ん?」

 別なところからの問いに、振り返った上野が、ぎょっとした。

「蓮?」

 いつになく強張った若者の表情に、雅も驚いて、自分の動揺から覚めてしまった。

「その、蛇に包まれていた、二つの石……どんな色でしたか?」

「石か? 草の色より青に近い色の石……確か、あの者は翡翠という石だと申していたな。もう一つは……」

「紅玉……ですか?」

「そうだが……何でも、人の形見を借りているだけだから、取られては困ると、思わず追いかけてしまったそうだ」

「……」

 強張っていた顔が、唖然としたものに、変わった。

 年相応にも見える、力の抜けたその表情は、蓮と顔なじみの老人をも驚かせるほど、珍しいものだったらしい。

「だ、大丈夫か、蓮?」

 その、気遣った問いにも答えず、ぽかんとしていた蓮が、今度は笑い始めた。

 腹を抱えかねない笑い方に、その場の全員が声をかけられず、一歩引いて見守るしかない。

「……いや、申し訳ありません。つい……」

 ようやく、そう言いつつも、笑いが止まらない若者に、老人が恐る恐る尋ねる。

「大丈夫なのか? どこかで、強く頭でも打ったか?」

「大丈夫です。……頭を打ったのは、確かですが、実際に打ったわけでは、ありませんから」

 苦しそうに息を抑えて立ち直り、蓮は背筋を伸ばした。

「で、その連中は、その後どうしたのでしょう?」

「村人に、その者の無事を知らせようと動いている間に、慌ただしく旅立ってしまった。追いかけさせたのだが、見失ってしまった」

「そうですか」

 頷く顔には落胆はない。

「まあ、神隠しの村の方から来たからな。別な方向に行ったのは、確かだ」

「はあ?」

 聞き慣れぬ呼び名に、蓮が思わず間抜けな声を上げた。

「何ですか、そりゃあ?」

「知らんのか? 随分前から、そう言われているはずだが」

 不思議そうに翁が問い、若者が首を振って答える。

 そんな様子を見てから、雅がそっと、声をかけた。

「申し訳ありませんが、夕食まで、わたくしたちは、休ませていただきます」

「おお、そうだったな」

 あっさりと頷き、老人は家人を呼んでくれた。

 案内された部屋で、家人の女性に礼を言い、力を抜くとすぐに戒が声をかけた。

「……いいのか? あの村の事も、あることないこと話にされてるぞ」

 声を殺した問いに、雅は笑って見せた。

「いいんだよ。本当の事なんて、伝わらない方がいい」

 それよりも、先ほどの蓮の事が気になった。

 あの話以降の、心境の違い。

 今までと違った表情は、憂いが消えたと言っていた。


 

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