第5話 ニーナとファルナ


「飯なんて食っても意味がないんだ。神力は回復しないし、シィルスティングの常発能力パッシブスキルのせいで俺は、食わなくても死なない。俺の分の代金が勿体ないだろう?」


 渋るアレクを無理やりに、夕食に連れ出す。


「アンデッド系統のシィルスティングの常発能力で、食べなくても餓死しないロードがいるって話は、聞いたことはありますけど、餓死しないってだけで、お腹は空くのでしょう? こないだだって焼き鳥、バクバク食べてたじゃないですか」


「それはそうだが……」


「お金がないのは知ってます。少しでもお礼がしたいんです。ほら、いきましょ」


 強引にアレクを寝床から立たせ、腕を引っ張りながら集会所の外へと連れ出すと、注目される辺りの視線に見せつけるように、ギュッとアレクの腕に抱きついて見せた。


 そうすると、あわよくば自分も食事の席に招いて貰えまいかと、話しかけるチャンスを伺っていたロード達が、戦意を削がれて、恋人のようにして歩く二人に、ペコリとお辞儀をする程度しかできなくなってしまう。


 集会所の正面にあるカフェの前では、他の中級ロードらと群れたジュリーの姿もあったが、他のロード達のように、羨ましそうだったり、微笑ましそうに二人を見つめる視線とは違って、ジュリーの目つきは嫉妬に狂った、憎々しげな色に染まっているように見えた。


 そんなジュリーに対し、少しだけ申し訳ないような気持ちを抱きつつもニーナは、心地良い気持ちの方が勝ってしまっていて、アレクの腕を抱く手に力が入ってしまう。


 アレクはそんなニーナの機嫌の良さそうな顔を、チラリと横目で見やり、その心内がどんなものなのか、簡単に予想できてしまった。


 半ばニーナに引っ張られるようにして、二人で歩きながら、これでは本当に恋人同士じゃないかと、内心で自嘲する。


 それでもニーナを、忌まわしいラーヴィルの呪いに取込んでしまいたくないのは、本音であったし、ファルナに対しての操立ても、妥協してしまうわけにはいかなかった。


 そうでなければ二度とファルナと、出会えないような気がしていたからだ。


 ファルナと似たニーナの水色の髪が、ニーナの歩調に合わせて揺れ動くのを見つめていると、まるで本当にファルナと歩いているような、錯覚にとらわれる。それでも、大人びた清楚な雰囲気のファルナと、どこか子供っぽく健気なニーナの印象の違いは、アレクにとって救いであっただろうか。


 そうでなければ、とっくに手を出してしまっていただろう。そうすることで少しづつ、神力を得ることもできたのだ。かつて、先代のウィル・アルヴァがそうしていたように。



 

 集会所の外で屯ろするロードらに背中を見送られつつ、繁華街に続く角を曲がろうとしたとき、


 不意に前方から、慌ただしい雰囲気で、数人のロードが駆けてくるのが見えた。


 ロード達はアレクとニーナを通り越し、集会所の付近までたどり着くと、荒く肩で息をしながら、大きな声で告げた。


「ベルメティアクランに所属する者は、すぐに港まで駆けつけてくれ! 西の海上線に、帝国軍の船団が現れた!!」


 それを聞いたロード達が、騒然となる。集会所の中から駆け出てきた中級や上級のロード達が、報告をしたロードと話をしながら、ここにはいないギルドメンバーらを招集するようにと指示を飛ばした。


 同時に港の方から、帝国船団のものなのか街の警備隊のものなのか、砲撃の炸裂する音が、夕焼けの赤い空から響き飛んでくる。


「アレクさん…!」


「ああ……。俺達も行こう」


 厳密に言えばアレクもニーナも、この街のギルドの集合体であるロード軍、ベルメティアクランには所属していない。


 それでもノウティス帝国の皇帝である破壊神ルイス・ノウティスは、父なる神としてアレクの宿敵であったし、帝国軍の襲撃があったとなれば、放っておくことはできなかった。


 ベルメティアクランの連中と混ざって、急いで港まで駆けつける。


 水平線の上に、沈みゆく夕陽に身を隠すようにして、六つの船影の姿があった。


 一隻の大型旗艦を軸に、二隻の砲撃船、三隻の揚陸艦で構成された船団のようだ。やや斜めに進路を取りながら、着実にこちらへと接近してきつつある。


 前方に突出した二隻の砲撃船からは、散漫的にだが、港や街を狙った砲撃が、白い閃光をなびかせながら放たれていた。港に常駐する警備隊らは、防波堤に沿って設置された数台のトーチカから、物理的な大砲を発射させているようだが、砲撃船から発せられる魔導砲とは違って、未だ標的を射程内に捉えられてはいないようだった。


「飛翔能力を持つ者は集まってくれ! 俺がリーダーとなって、奇襲攻撃をかける!」


 ざわつく雰囲気の中、一人のロードが声を張り上げる。どうやら、クラン序列が高いギルドの上級ロードらしい。


 馬鹿なのかと、アレクは思った。そんなことをしても玉砕にしかならず、戦力を無駄にするだけだったからだ。


 しかしこの場所には、戦場を知らない賞金稼ぎロードしかいないのだ。戦場を熟知する傭兵ロードとは、考え方そのものが違っているのである。


 男の元に集まったロード達が、ある者は怪鳥の翼を背中に融合召喚し、ある者は召喚した飛竜に跨り、勇みよく大空へと飛び上がってゆく。


 帝国の砲撃船が、標的を確実に捉えられる射程に進入したようだ。それまで散漫だった砲撃が一気に苛烈になり、防波堤に沿って設置された警備隊のトーチカは、最初の標的となって粉々に破壊されてしまった。


「残った者は、敵の上陸に備えろ! 各ギルドマスターの指示に従い、落ち着いて行動するんだ!」


 またどこかの上級ロードが指示を飛ばす。


 下級や中級ロードの中には、アレクの姿に気づいて不思議そうな顔をする者も、何人かいた。なぜこのS級ロード様が指揮を取らないのだろう。いかにもそう言いたげな顔つきだった。


「アレクさん、私達はどうすれば……」と、ニーナが不安げな顔でアレクを見上げる。


 しかしアレクは、この場で思い切った行動を取ることができなかった。まともに戦えば、きっと神力が切れてしまうだろう。そうなればアレクの持つ天父神ラーヴィルは暴走し、帝国軍以上の脅威を、この地に齎してしまうことになる。


 ウィル・アルヴァならば、こんなときでも自信を持って、自らが矢面に立つ行動も取れたのであろう。彼ならばいつでも、父なる神としての責務を怠ることはなかったし、常に一定の神力を保持していて、生娘を抱くことにも生贄と割り切り、躊躇うことはしなかった。


 アレクは、人でありすぎたのだと思う。あるいは、ファルナ・レインという一人の女性を、あまりにも愛しすぎたのかも知れない。


「アレクさん?」


 もう一度ニーナに、不安げな声で呼びかけられ、アレクはふぅと小さく息を吐いたあと、キッと唇を噛みしめた。


「クラン序列一位のギルドマスターはいるか!」


 港に集まったロード達に向けて、声を張り上げる。その間にも、砲撃戦からの魔導弾は飛来し、次々と街の建物に直撃していった。建物から飛び出てきた住民らが逃げ惑い、ある者は路地裏に蹲り、ある者は発狂して泣き叫び、街の奥へと逃げてひしめき合う人波が、渋滞を起こして心無い怒号が飛び交っていた。


 先ほど、集まったロードらに指示を飛ばしていた男が、片手を上げてアレクのそばに近寄ってきた。


「序列一位、ベルメーナサイドのローアンです。アレク様、帝国軍撃退のため、どうか力をお貸しください」目を伏せ、軽く頭を下げる。


「砲撃の防げるシールドを張れる者か、あるいは砲撃を弾ける遠距離攻撃のできる者だけを残し、他の者は急いで、街の住民を避難させろ。時間がない。急いでくれ!」


「ま、待ってください! 戦うなと仰るのですか!」


「まともに戦っても勝ち目はない。向こうには間違いなく、複数のS級ロードがいる。諸島連合やアクロティア船団の防衛線を、抜けてきたような連中だぞ」


 あるいはすでに、西海の防衛を一手に担うウェル・ウィート諸島連合も、壊滅したのかも知れなかった。そうでなければ、最前線の戦地であるアクロティアから遠く離れた、この東大陸の海岸線に、ノウティス軍の船団が姿を現すなど、考え難かったからだ。


「複数のS級……わ、分かりました。この港の指揮は、お任せしても?」


 自分では十人がかりでも敵わないであろうS級ロードが、複数いるだろうと知らされ恐怖したのか、ローアンという上級ロードが、素直にアレクの指示に従う。


 その場にいた半数以上のロード達が、逃げ惑う住民を誘導しながら、路地の奥へと消えてゆくと、先に飛び立って行った空戦部隊が、砲撃戦に攻撃を仕掛けるのが目に映った。


 だがそれも数分後には、砲撃船の乗組員らによって、尽く討ち取られてしまう。


 やがて砲撃は、アレクらの守る港へと集中されていった。


 ロード達が慌てて個々にシールドを張り、砲撃に備えたが、中級や下級のロードらが張る脆弱なシールドでは、砲撃船からの魔導弾を防ぎ切るには至らなかった。


 あちこちで閃光が弾け、悲鳴と爆音が響き渡る。遠距離攻撃のできるロード達が、それぞれに雷撃や炎、白く輝く神力弾などを撃ち放つが、それらの抵抗もまた、砲撃船からの魔導弾に、呆気なく飲み込まれていった。


「くっ……遠隔盾突ファルトバッシュ!!」


 アレクの召喚した白銀の盾ランファルトから、半透明な青白い波動が、僅かに拡がりながら一直線に射出される。


 その波動に衝突した魔導弾が、その場で花火のようにして大きく弾け散った。


 生き残っていたロード達から、歓声が上がる。アレクは続け様に、何発もの波動弾を撃ち放ち、砲撃を炸裂させたが、帝国軍からの魔導弾は、さらにその勢いと数を増やしていった。


 波動を撃ち放つアレクの顔に、焦りと疲労が浮かび始める。


「大丈夫なのですか、アレクさん!」


 寄り添ったニーナがアレクの服の袖を握りしめながら、心配そうにアレクの顔を見上げた。


 そこで大丈夫だと言い返せるほどには、アレクに余裕は残されていなかった。迎撃の波動弾を一発、撃ち放つごとに、アレクに許された神力は確実に消耗されてゆく。


 アレクの撃ち漏らした魔導弾が、一人、また一人と、港に残ったロード達を物言わぬ亡骸へと変えていった。


「頑張れ! シールドを重ねて強化し、砲撃手は協力して一点に狙いをつけろ!

 勝つことが目的じゃない。敵の砲撃を引きつけ、街の住民らが逃げるための、時間稼ぎができればいい!」


 それは暗に、自分達に犠牲になれということを意味していた。それでも、シールドを張り、迎撃弾を撃ち放つことだけに精一杯のロード達の中には、その言葉の真意を理解できる者は、誰一人としていなかった。


 横殴りの雨のように魔導弾を撃ち放つ砲撃船が、さらに港へと接近してくる。と同時に、左右に展開した三隻の揚陸船が、上陸のために街の上下に分かれ、やがて直接、海岸へと乗り上げてきた。


 アレクは、ここが限界なのだと判断した。


「もういい。各自、街中を通って街の東へと逃げるんだ! 途中で逃げ遅れた者がいれば、可能な限り保護してやってくれ!」


 残ったロードはもう、十数人ほどしかいなかった。ほとんどが、なんとか魔導弾を防げるだけの力を持った、上級のロード達であったのだろう。


「逃げることだけに徹しろよ。途中で帝国兵と会っても、戦おうなどと考えるな。とにかく東に走って、メルキリアの王都まで逃げ延びるんだ!」


 これまで賞金稼ぎロードとして活動し、戦場を知ることのなかった街のロード達が、半ば錯乱状態にありながら、ただただアレクの指示にだけ従い、街の東側へと向かって駆け出してゆく。


「ニーナ、急ぐぞ!」


「は、はい!」


 ニーナの腕を掴み、集会所を出たときとはは逆に、今度はアレクが、ニーナを引っ張るようにして走り出した。


 が、


 ドゴォォン!とけたたましい音を立て、街の至る所で、これまでにない大きな爆発が巻き起こった。同時に、この世の物とは思えないほどの恐ろしい絶叫が、街の隅々にまで響き渡る。


 強力な魔物が発生したのだ。それもまた、帝国軍の侵略作戦の一環であったのだろう。


「くそっ…! ニーナ、先に逃げていろ!」


 路地の角を曲がった先に、悪魔のような風貌をした巨大生物の姿を見止め、アレクがニーナを庇うように前に出る。


「嫌です! 一緒じゃなきゃ、どこにもいきません!」泣きそうな顔で悲鳴を上げ、ニーナがブンブンと首を振った。「失いたくないんです、もう二度と!」


 それがどういう意味で言った言葉だったのか、ニーナは一瞬、分からなかった。しかし頭の中に浮かぶのは、ある日突然いなくなってしまった、大好きだった母の笑顔だった。


 それ以外に、どんな理由があっただろう。


「グォォォォォォォォォン!!」


 アレクとニーナの姿を目に映した巨大な悪魔デーモンが、大木のような豪腕を高らかに振り上げた。そこに発生した禍々しい闇の神力弾が、勢いよくアレクとニーナに向かって投げつけられる。


 避け切れないと判断したアレクが、咄嗟に白銀竜ランファルトを盾に召喚し、神力弾を受け止めた。


 強力な圧力が、受け止めた盾を通して伝わってきた。相当に上位の魔物のようだ。両腕が弾け飛んでしまいそうなほどの衝撃が、アレクの両手をビリビリと痺れさせる。


 それでもなんとか攻撃を防ぎ切ったアレクは、すぐさま、次の決断を迫られた。


 残された神力は少ない。あとどれだけ、人としての自分の意識は、持ってくれるだろうか。それでも敵は目の前にいて、守るべき人は今も逃げることなく、自分の背中に抱きついたままでいるのだ。


 迷っている暇はなかった。


「漆黒竜ディグフォルト、竜砲召喚!」


 召喚された闇竜神の化身である黒竜が、突き出したアレクの右腕に纏わりつき、竜が大口を開けた砲門へと変化していった。


「焦砲黒炎弾…ダーク・フレア・バレット!!」


 放たれた巨大な黒炎が、魔物の巨体に衝突し、一気に飲み込んでいった。断末魔の絶叫を上げた魔物が、一片の肉片も残さずに、消炭となって弾け飛んでゆく。


 過剰な黒炎が辺りに飛び散り、破壊を免れていた建物に燃え移り、なおも範囲を広げていった。


 アレクの突き出した右腕が、ダラリと垂れ下がる。召喚融合が解け、一枚のカードとなったディグフォルトが、左腕のリングの中に吸い込まれていった。


「アレク…さん?」


 燃え盛る黒炎の中、ニーナがこわごわと、アレクの顔を覗き込んだ。


 無言のまま立ち尽くしたアレクは、なんの気配も発することなく、足に根が生えてしまったかのように、ただその場に立ち止まっていた。


 アレクの正面にまわったニーナが、不思議そうに小首を傾げながら、そっとアレクと視線を合わせる。


 途端に、アレクの両の瞳が、妖しく黄金色に輝いた。

 



 

 薄れゆく意識の中、アレクは必死に叫んでいた。


 ──ダメだ! ニーナに手を出すな!! ちくしょう言うことを聞けよ、俺の身体だろうが!!!──


 闇色と光色の折り重なったいくすじもの触手が、アレクの身体を中心に蠢き、とめどなく広がってゆく。


 建物の壁も突き抜けて破壊し、逃げ遅れた住民までも、触手に触れた途端に、飲み込まれるようにして蒸発していった。


 必死に何かを叫ぶニーナの身体が、闇色と光色の触手に絡め取られてゆく。それでも生娘であったニーナの肉体は、触手に触れても蒸発してしまうこともなく、着ていた衣類だけが引き裂かれるように、触手に飲まれて消失されていった。


 自分の身体が持ち主の支配を外れ、本能のままに暴走してゆくのが、アレクには分かった。ラーヴィルが暴走状態になるのは、初めて経験することだったが、これから何が起こるのかだけは、アレクには悔しいほどに痛感できていた。


 ──無駄だ。こうなるまでに手を打たなかった、お前自身の罪だ──


 アレクの奥底に眠るウィルの声が、アレクの脳裏に響いた。


 ──彼女は犯され、死ぬだろう。この街も、無事では済まぬ。街の東に逃げた住民達も、攻め寄せた帝国軍も全てを飲み込み、その全てが吸収されてしまうのだ──


 その言葉の中に、先代の父なる神であったウィルの意思が、どれだけ含まれていたのだろう。


 アレクの意識はもう、深い闇の中に沈んでしまっていた。




 

 

「アレクさん……アレクさん!」


 呼びかける声には、微塵の反応もない。


 アレクを中心に、まるでその影から発生したかのように広がった闇光の触手は、今も際限なく推し広がり、さらにその膨大さを増していった。


 蠢く触手に両手を、両足を、身体中を這いまわるかのように絡めとられ、衣類の全てを剥ぎ取られてしまったニーナは、押しつけられる触手の力に抗いながら、必死にアレクのそばへと近づいていった。


「これが……ラーヴィルなのですか! 呪いに巻き込んでしまうって、こういうことだったのですか!」


 叫びかけても、アレクは身動ぎの一つもすることなく、ただその場に佇んでいた。黄金色の瞳を、ただ妖しく輝かせながら。


「ううっ……くっ!」


 蠢く触手が、ニーナの柔らかな裸体を絡め取る。アレクに伸ばした手が強引に左右に引き伸ばされ、まるで十字架にかけられたかのようにして、ニーナの身体をその場に固定してしまった。頸筋に巻きついた触手が喉元を締め上げ、無理やりに背筋を真っ直ぐに伸ばされる。


 ニーナの身体で最も女性らしく、雪のように白く柔らかな膨らみが、弾むように揺れ、まるで愛撫をするかのように這いずった触手が、柔らかな乳房を、その先端をと、絶え間なく責め上げてゆく。


「い…や……アレク…さん、助け……ああっ!」


 ニーナの腰に巻きついた触手の一本が、毒蛇が這うようにして、ニーナの滑らかな肌を撫で、最も敏感な部分を通って、右の太腿を押し広げていった。やがてもう一つ別の触手が加わり、同じように左の太腿を絡め取ってしまい、身動きの一つも取れなくなってしまう。


 辺りは縦横無尽に、幾重にも重なった闇色と光色の触手が、視界の全てを覆い尽くしている。


 こんな恥ずかしい姿を、誰かに見られてしまうわけではないことは、ニーナにとって唯一の救いだっただろう。耳の先まで真っ赤に染めながら、ニーナは晒け出された身体を隠すこともできず、蠢く触手の責めに声を殺して耐えねばならなかった。


「あうっ……アレク……さん……」


 涙の滲んだ目を精一杯に開けて、もう一度、アレクを見る。


 気がつけばアレクの姿は、驚くほどにニーナのすぐそばにあった。


 それまで人形になってしまったかのように、動きを見せなかったアレクが、ニーナを抱きすくめ、耳元に、首筋に、そして胸元にと、順に唇を押しつけ、吸い上げてゆく。


 その度にニーナは、声を殺してビクンと身体を震わせ、首を仰け反らせて小さく息を吐き出した。


 アレクが正気ではないことは、分かっていた。意識もないのかも知れない。あるいは、これが彼の本心なのだろうか。


 それでもニーナは、こうなることにも、少しばかりの覚悟はできていたのだ。しかしそれが、こういう形であろうとは、思ってもみるはずがない。


 アレクの最も男らしい部分が、ニーナの敏感な部分に押し付けられる。理性のない獣のように、ニーナの身体を貪り、鋭い痛みが、ニーナの奥底を突き抜けた。


 せめてアレクに抱きつくことができれば、少しは紛らわせたのだろうか。四肢を絡め取られたニーナは、そうすることもできずに、ただひたすらにアレクを思いながら、行為に耐え続けた。


 そうして、絶望的な時間は、呆れるほどに正確に、ただただときを刻んでいったのだ。









 

 

 

 

 アレクが気がついたときには、かつてベルメティアであっただろう、瓦礫の散乱した中で、うつ伏せに地面に倒れ伏していた。


 沈む夕陽が、遮る物の何も無くなった荒野で、ただ煌々と辺りの光景を紅色に照らし出している。


 ラーヴィルの暴走状態も解除され、解放されたようだ。


 どれくらいの時間が経ってしまったのか、アレクには分からなかった。少なくとも数日から、数十日は経っているだろう。あらゆる生物を吸収し、神力を奪い尽くしたアレクの身体には、嫌味なくらいに並々と、力強い神力が溢れていた。


 ハッと気がつくと、身体の下には、静かに両眼を伏せたニーナの姿があった。一糸纏わぬ身体で、身動ぎをすることもなく、ただ静かに横たわっている。


 それは、彼女の全てが止まってしまったことを、意味していた。


「ニーナ……」


 そっと滑らかな頰に触れ、顔を近づけると、額と額を突き合わせる。荒野にそよぐ浜風がゆらゆらと、彼女の細い水色の髪をなびかせていた。


「ニーナ…?」


 名を呼び、指の隙間で髪を透くようにして、優しく撫でる。


 その可憐な瞳も、滑らかな頬も、しなやかな指先も、そして、柔らかで健康的な彼女の身体も、未だ繋がったままでいる部分も、彼女を形作る全てが、堪らなく愛おしく思えた。


 それでも、それらすべてが、今さらなのだ。


 ウィルが言ったように、こうなることが嫌なら、初めからちゃんとしておけばよかったのだ。


 アレクが最初に死んだときに、父なる神ウィルが施した、死者蘇生の魔法。それは、女であるニーナには使用することができない。彼女は女であり、父なる神とはなり得ないからだ。死者を蘇生する効果は、後継者を指定するこの魔法の、付属品でしかない。


 なす術はない。


 何度も何度も、もう開くことのないニーナのまぶたを見つめながらアレクは、彼女の名前を呼び続けていた。

 




 

 暖かな日差しが降り注ぐ中、色取り取りの草花が咲き乱れている。まるで水の中にいるときの、不確かな視界のような意識の中で、ニーナは平穏で幸せな暮らしを送っていた。


 ここはどこなのだろうと思う。それは頭の中では、理解しているはずだった。穏やかなそよ風に乗って、開け放たれた窓のカーテンを揺らしながら運ばれてくる、澄んだ心地良い花の香りを感じながら、ニーナは見覚えのあるはずの知らない部屋で一人、繕い物をしてアレクの帰りを待っていた。


 やがて、仕事から帰ったアレクの足音が、真新しい一軒家のドアの向こうから聞こえてくる。ガチャリとドアが開いて顔を覗かせたアレクが、ただいまと柔らかく微笑んだ。


 お帰りなさいと、自然と言葉を発し、アレクが無事だったことに、ホッと胸を撫で下ろす。


 それにしても、ここはどこなのだろう。いや、どこだっただろう。覚えがあるようで、見覚えのない世界。ニーナの故郷の田舎町にも似た、自然味の溢れた、長閑な場所だった。


「アレクさん。帝国軍は、どうなったんですか? ベルメティアは?」


 座った揺り椅子の上、繕い物をしていた手を止めるとニーナは、水桶から水を汲んだ柄杓で、そのままゴクゴクと喉を潤すアレクに向かって、小首を傾げるようにして問いかけた。


「帝国軍? 破壊神なら、倒したばかりじゃないか。時が許す限りは、のんびり暮らそうって話だったろ」蓋をした水桶の上に、手にした柄杓をコトンとおいて、アレクが不思議そうに笑った。


「破壊神を……倒した?」


 ああ、これは夢を見ているんだな、とニーナは思った。


 そこは、平和な世界。帝国軍の脅威もない、穏やかな世界。


 素敵な夢であることだけは、間違いがない。


「不安なのか? 確かに破壊神は不死身だが、そう簡単に復活したりはしない。少なくとも、君が生きている間は」軽い口調で笑いながら、アレクが揺り椅子のそばに歩み寄る。


 途端にニーナの顔は、彼女の意思に反して勝手に微笑み、ゆっくりと揺り椅子を揺らして立ち上がった。


 アレクに歩み寄り、どちらからともなく、それが当然の日課であったかのごとく、自然な仕草で口付けを交わす。


「約束したろ、ファルナ。何度生まれ変わろうと、必ず見つけ出してみせる。君は何にも心配しなくていい。俺のことを思い出せなくても、俺が君を覚えてる。一目、君の顔を見れば、街ですれ違っただけだって、見つけ出せる自信がある」手の平で頰を撫でながら、優しそうなアレクの瞳が、真っ直ぐに自分を捉えた。


 ニーナの心に、例えようのない幸福感と不思議さが、同時に広がっていった。


 そして、気づいた。自分が、ニーナではなくなっていることに。


 アレクから視線を逸らし、窓ガラスに写る自分の姿を見る。そこにいたのは、ニーナとどこか似ている、ニーナよりもずっと、大人っぽい清楚な女性だった。


 これが、ファルナさんなのか。とニーナは、嫉妬めいた感情を抱いた。その端麗な容姿だけでなく、共有状態にある心の内の、アレクを信じる気持ちや、愛する想いの深さにも。その深く純潔な、海のような大きな心で、アレクを包み込む心のあり様に、やはり自分ではとても敵いそうにないと、落ち込んだ気持ちになる。


 半透明に窓ガラスに写る、ファルナの澄んだ深海の双眸が、ニーナの瞳を真っ直ぐに見つめた。


 それはファルナが、窓ガラスに写った自分の顔を、ただじっと、見つめているだけのはずだった。それでもニーナは、その深い愛情に満ちた青い瞳が、真っ直ぐに、自分を見つめているのだと感じた。


 自分の中にニーナがいることを、分かっているのだ。


 そしてガラスの中の半透明のファルナの口唇が、ささやき、優しくニーナに語りかけてくる。


 ──早く帰ってあげて。彼は今も、苦しんでいる──


 心の中に直接、反響するようにささやかれた声が、ニーナを現実へと引き戻していった。


 そうだ。これは夢なんだ。どうにかして戻らないと。アレクは今も一人、苦しんでいるはずなのだ、と。


「どうしたんだファルナ? 外に誰かいるのか?」


 窓ガラスに写る半透明の顔の隣に、アレクの顔が並ぶ。


「誰もいないじゃないか。どうしたんだ、ファルナ?」


 ──違う── ファルナと名前を呼ばれ、ニーナの心が全力でかぶりを振りながら、その名前を否定した。


「ファルナ? 聞いてるのか?」


 ──違う……私はファルナさんじゃない──


「ファルナ……大丈夫か?」


 ──違う……違う!──


「疲れているんだな。もう休んだ方がいい。ファルナ、あとのことは俺がやっとくから」


「違う! 私はファルナじゃない!」


 ニーナの思いがファルナの口を動かし、耳を押さえてその場に蹲らせる。


 アレクは困惑し、屈み込んでファルナの……ニーナの顔を覗き込み、そっと優しく、ニーナの髪を撫でた。


「ファルナ…?」


 またもその名を呼ばれ、ニーナの中に、同じ名前が、何度も何度も繰り返された。


 ファルナ……ファルナ……ファルナ……


 アレクの声で、心配したような声で、優しそうな声で、そして楽しそうな声に、悲しそうな声、さまざまな場面で呼ばれたであろう声音で、まるで頭の中で時間が狂ってしまったかのようにして、何度も、何度も繰り返される。


 そして……




 ………ニー…ナ……。




 その中に一度だけ、ニーナの名前を呼ぶ声が、ファルナを呼ぶ声に重なって、聞こえた気がした。


 ニーナ………。


 もう一度聞こえる。それはすごく優しげで、不思議と、思いの強さを感じられる、聞き慣れた声だった。


 頰に感じる、アレクの指先の感触。


 それを感じられたときにニーナの意識は、ファルナの身体から浮き上がり、一気にその世界を離れていった。




 

 

 

 何度も、囁くようにアレクは、ニーナの柔らかな髪を優しく撫でながら、ニーナの名前を呼んでいた。


 どれくらいの時間を、そうしていただろう。沈み始めた夕陽が、荒野に暗い影を落としてゆく。海から吹いてくる緩やかなそよ風が、寄せ返す浜辺の波の音を運び、終わることない一定のメロディを、延々と奏で続けていた。


「ニーナ……」もう一度彼女の名前をささやき、そっと額を突き合わせ、閉じられた瞼を見つめる。



 …と、見つめるニーナの瞼が、ぴくりと、微かに動いた気がした。



 風の悪戯で、睫毛が揺らされただけだろうか。そんなふうに思いながら、アレクがニーナの瞼を、静かに見つめていると、


「ん………」


 ニーナの薄い桃色の唇が、微かに動き、微細な吐息が溢れでた。長い睫毛が細かく振動し、眉間に小さなシワが寄る。


「ニーナ…?」


 もう一度、アレクが彼女の名前を呼んだ。閉じられた瞼が薄っすらと、ゆっくりと、開かれていった。




 

 ニーナが目を開けると、驚いたような、狼狽えたような、情けない顔をしたアレクが、目の前にいた。


 ──良かった。無事でいた──


 何よりも先にそんな安堵する思いが、ニーナの表情に淡い微笑を浮かべさせる。


「ニーナ…?」


 自分の名前を呼ぶ声に、例えようのない安心感を感じて、ニーナはギュッと、アレクの首に両腕を回した。


 そうしてアレクのぬくもりを、全身で感じれば、夢の中で感じていた、平穏な世界での幸せな気持ちにも負けないくらいの、心地好い気持ちが、胸いっぱいに広がっていった。


 あの夢は、遠い過去の出来事だったんだな。……と、ニーナは信じられた。今はもう、どうやっても戻ることのできない、遠い過去に埋もれてしまった幸せ。


 それでもアレクは、見つけてくれたのだ。


 ひとしきり、アレクを抱きしめたあとで、ニーナはアレクの首に回した腕を解くと、未だに放心状態でいるアレクと、静かに視線を合わせた。


 アレクの深い瑠璃色の瞳の中に、夕陽に赤く染まったニーナの顔が写る。そこにあるのは、大人びたファルナの顔ではなく、健気にやんわりと微笑む、ニーナの顔だった。


 ニーナのしなやかな指先が、アレクのまぶたに溜まった涙を、優しく拭い去る。


 ニーナはクスッと可笑しそうに笑うと、


「もうちょっと、違う見つけ方はできなかったのかしら? 街ですれ違ったって、一目で分かるって言ってたくせに」そう言って悪戯っぽ目つきで、アレクの頰をクニっと摘み上げてみせた。

 

 そうして、無邪気に笑うニーナを見てアレクは、ようやく全てを察することができたのだ。




 

 荒れ果てた廃墟の荒野に、ゆっくりと夕陽が沈んでゆく。訪れた逢魔に紛れ潜むように、二人はいつまでも抱きしめ合っていた。






 

 

 その後、帝国軍の猛攻の前に劣勢を強いられていたビズニス・アクロティアの連合軍は、一気に勢力を盛り返し、ノウティス侵略軍を遥か西の、レインラッド平原にまで後退させていった。


 破竹の進軍を続ける連合軍の陣頭には、白銀の盾と漆黒の剣を携えた一人の英雄戦士と、寄り添うようにして背後を護る、水色の髪の少女の姿があったという。


 

 

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路地裏の英雄 TAMODAN @tamodan

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