第4話 特別な何か


 その後アレクの姿をニーナは、いつもの路地裏で見かけることは、一度もなかった。


 アレクが集会所のマスタールームで、寝泊りするようになったからだ。それを分かっていても、あの路地の近くを通りがかる度に、無意識にチラリと路地裏を覗き込んでしまうニーナがいた。


 いつものように朝食を終えて一息つくと、集会所に向かうために部屋を出る。例の路地裏を、歩きざまにちらりと覗き込み、そこにアレクの姿がないことを確認する。そして集会所へと続く水路沿いのT字路を曲がると、そこでは待ち構えるようにして、友達のジュリーとその仲間数人の姿があった。


 あれから数日。毎日欠かさず、ジュリーらはその場所で、ニーナを待ち受けるようになっていた。そうして親しげに挨拶を交わすと、さも仲が良さそうに、わざと大きな声で会話しながら、集会所まで向かうのだ。


 ほんの数日前までは、道ですれ違っても目も合わせてくれなかったジュリーだった。だがそれだけの手のひら返しも、ロードの世界では当たり前のことだ。何も特別なことではない。


「いいなぁニーナは。S級のマスターロード様が彼氏で。同期で一番の出世頭じゃない」


 そうジュリーに羨望の眼差しを向けられることに、ニーナとて悪い気がしないわけではない。それでも、現実としてアレクと恋人同士という関係ではなかったし、脈があるのかといえば、望みは薄いと感じていた。ファルナという名前は、ニーナの中でずっと引っ掛かっている名前だ。


 ただし、それをジュリーに否定してしまえば、彼女らは、間違いなくアレクを口説いてくるのだと思った。それはアレク本人が、煩わしかろうという、ニーナの言い訳だ。


 だから、付き合っているフリをしたのだ。


 ちょっとだけいい顔をしてもみたかった。


 ──迷惑がかかりそうだったら、すぐにやめよう──


 そう言い聞かせながら、振られた質問にも適当に答えていたが、さすがに夜のことを聞かれたときには、返答に困ってしまう。


「……ノーコメントです!」と貫き、返答を濁すことしかできなかった。


 だがそれもそれで、正解ではあっただろう。


 アレクの周りに対する姿勢は、以前と変わらず冷たいものだったが、ニーナにだけは、不思議と笑顔を向けてくれた。


 本当に、別人なのではないかと、たまに思う。アレク専用となった例のマスタールームの一号室は、今はニーナは顔パスで通されるようになっていたし、それもアレクが、ニーナがきたら通すようにと、スタッフに要請してあるからだ。


 ニーナの暮らしは変わった。これまでは誰もが自分に見向きもせず、話しかけてくるのは、下心を秘めた下衆な男どもばかりだったというのに、今では道を歩けば誰もが挨拶をしてくれるし、ジュリーらのように、取り巻きのようにしてニーナに擦り寄ってくる者も多い。


 アレクがニーナの面倒を見るようになったことは、アレクが、マスターロードとしての活動を始めたに、同等の意味を持っていたからだ。いずれはクエストも受けるようになり、のちにギルドを開設したときには、傘下に加えてもらおうという腹づもりがある。そのためにアレクに顔を知ってもらいたいロードは、上級ロードの猛者達を含めて数多くいたが、当のアレクは、ニーナ以外の者には、塩対応を貫いている。だからこそ、落とすのならまずニーナからと、考えるロードは多かった。


 ニーナにとっては、それは少し煩わしいことだった。もしアレクが、自分以外のロードとも仲良くなって、ギルドの一つでも運営するようになれば、自分だけが特別ではなくなってしまうだろう。


 もう少しだけアレクを、独占したままでいたかった。



 ジュリーらにまるで防壁かのように取り囲まれながら、集会所までたどり着く。


「今日もマスタールーム? いいなぁ顔パスで入れて」


 羨ましそうにするジュリーに、ニコリと笑ってみせると、


「まだ寝てると思うな。いつも寝てるのよ、あの人」


「そっかぁ。もしかして、ニーナも一緒に寝ちゃう感じ?」


 悪戯っぽい顔で言われ、思わずボッと顔が赤くなる。


「わ、私は…仕事を探さなきゃいけないから……」と、慌てて手を振って否定しているときだった。


 突然辺りに、警報が鳴り響いたのだ。街中で何か異変が起きた際に鳴らされる、けたたましい警報音だ。


 同時に、どこか近いところで、何かが爆発したような轟音が響き渡る。


「魔物発生があったようだ。近いぞ。戦える者は、すぐに急行しろ!」


 集会所から飛び出してきた上級ロードらが、辺りに屯ろしていたロード達に、そう指示を飛ばした。


 そのまま上級ロードらが、爆発のあった方に向かって、路地を駆けてゆく。辺りにいた下級と中級のロード達の何人かが、そのあとを追っていった。おそらく、同系列のギルドに所属するロード達だったのだろう。


 と、少し遅れて、アレクが集会所の入り口から飛び出して来るのが目についた。キョロキョロと辺りを見渡し、近くにニーナの姿を見とめると、ホッとしたように軽く息を吐き出す。


「良かった、ここにいたか」


「は、はい。また魔物が発生したみたいです。

 なんなんでしょうね、これまで街中に魔物が発生するなんてこと、聞いたこともなかったというのに」


 ジュリーらが萎縮して、アレクに話しかけるのを躊躇っている中、アレクの隣に並び、ロード達が駆けていった方向を見やる。


 居並ぶ建物の向こうに、黒々とした煙が上がっているのが見えた。


「……帝国軍が近くに来ているからさ。戦場の近くは街中であろうと、魔物が発生しやすくなる」


「そういうものなのですか?」


「まぁ、それだけではないけどな。具体的に言えば、侵略する都市に予め、竜脈の流れを利用して魔物を発生させる秘術が……意味分かるか、こんな話?」


「竜脈……秘術? ええっと……とにかく、帝国軍の仕業だ、ってことなんですか?」


 ニーナがそう言ったときに、再びどこか近くで、ドォォン!という激しい爆発音が鳴り響いた。


「加勢しにいきますか?」とニーナがアレクの横顔を見上げる。


 アレクはやや眉間にシワを寄せながら、しばらく黒々と上がる煙を見つめていたが、


「俺の神力は、食っても寝ても、ほとんど回復しない。一つ……いや、二つの方法を除いてな。無駄にはできないんだ。

 とりあえず今回のところは、この街のロード達に任せておいて大丈夫だろう。現段階では、精々が星レベル三程度の魔物までしか、発生しないはずだ。

 アクロティアが落ちたとなれば、そうも言っていられなくなるが……」


 アクロティアが落ちてしまえば、ノウティスに対する防衛線の最前線である、守護国ビズニスが孤立することになる。


 もしビズニスが敗北することにでもなれば、聖王国プレフィスと、英雄国アルディニアという二大国も、国境を閉ざして籠城してしまうだろう。


 それは直に、暗黒時代の到来を意味していた。その他の国々や独立都市は、帝国の侵攻に抗うこともできずに、尽く壊滅する。それはこれまでにも、幾度となく繰り返されてきたことだった。


 あのときは、勝つことができた。それは、アレクという個人の中でも、紛うことなき事実であった。その千年前はどうであっただろう。これもまた、ウィル・アルヴァの記憶の中で、勝利したことが覚えられている。


 だが過去を遡れば、敗北したこともあるのだ。破壊神、父なる神、母なる神。この世界を司る三柱の神の、太古より続く争いは、必ずしも父なる神が、人間側が勝利すると約束されたものではない。


 アクロティアが落ちれば、アレクも、守護国ビズニスへと赴かなければならないだろう。それがビズニスの守護神、地風神カイルストルとの約定でもあるのだから。


 だが、と、自分の手の平を見つめる。


 今の自分では駆けつけても、なんの役にも立てない。ファルナを見つけることができなければ、失われた神力を取り戻すこともできないのだ。


 アレクの神力を満たすことができるのは、この世でただ一人、ファルナだけなのだから。


「アレクさん……?」


 呼びかけられ、我に返ると、ニーナが不思議そうに目を瞬かせながら、自分の顔を覗き込んでいた。


「いや……なんでもない。

 部屋に入ろう。どうやら、片付いたみたいだ」


 鳴り響いていた轟音も途絶え、居並ぶ屋根の向こうにモクモクと立ち昇っていた黒煙も、少しずつ薄れて来つつあった。


 アレクはゆっくりとした足取りで、結局最後まで話しかけることができなかったジュリーらの脇を抜けると、集会所の入り口をくぐり、マスタールームへと戻っていった。


「アクロティアが負けたら、今よりもっと、強い魔物が発生するようになるんですか?」


 マスタールームのベッドにゴロンと横になったアレクに、続けて部屋に入ったニーナが問いかける。いつものようにソファーに腰かけると、魔導器を起動させてパネルを操作しながら、ベッドに仰向けに寝転がったアレクに顔を向けた。


 アレクはじっと天井を見つめたまま、しばらく黙っていたが、不意に身を起こし、ニーナと視線を合わせた。


「お前……生娘か?」問いかけ、表情を変えることもないまま、じっとニーナの顔を見据える。


「え?」


 思ってもみないことを聞かれ、ニーナは数秒の間、質問の意味を全く理解することができなかった。


 やがて何を聞かれたのかが分かって、頰を紅潮させたニーナが、どう答えれば良いのか迷って、アレクから視線を逸らしてうつむいていると、


「……忘れてくれ」静かに言ったアレクが、再びゴロンとベッドに仰向けに寝転がった。


 そのまま何も発することなく、じっと天井を見つめたままでいる。


 随分と長い時間、二人はそのままでいた。やがていくらか頰の赤みが薄れたニーナが、トントンと銀のプレートを指で叩き、発注されている中級クエストを物色し始める。


 ニーナの頭の中には、画面に表示されているクエストの内容が、全く入っては来なかった。ただただ先ほどアレクが言った言葉が、何度も頭の中で、繰り返されていた。


 そんなニーナの様子を、アレクが横目でチラリと見やる。


 答えを聞かなくともアレクには、ニーナが生娘であろうことは、とっくに予想できていた。


 世の中の全ての女性は、母なる神の加護下にある。


 父なる神の神力は、ニーナら普通の人間とは違って、物を食べようが休息しようが、ほとんど回復されることはなかったが……生娘を抱くことができれば、少量ながら、神力を得ることはできた。


 それもまた、かつて世界をわかつてしまった、天父神ラーヴィルの呪いの一環である。


 同時にラーヴィルの呪いは、ニーナの魂をも、蝕むことになるだろう。一度でも関係を持ってしまえば、一生を……いや、生まれ変わってすらも、アレクとしか通じることはできず、後継者となるべき子を、産まなければならない。


 それが今生だけなら、まだいいのだ。生まれ変わってさえも、独り身を貫かねばならなくなる。アレクと出会うことができなければ、それが何故なのかを知ることもできないまま、一生を孤独に過ごすのだ。


 それにたとえニーナを抱いたとしても、得られる神力は、一割にも満たないだろう。


 全てを満たしてくれるのは、母なる神である、ファルナ一人しかいないのだから。



 

 発注されている中級クエストは、上から下まで、全てを見終わってしまった。


 付近で魔物発生の騒動があったためか、放置されてある目星いクエストも、いくつかあったのだが、ニーナはそれに、予約を入れることもなかった。ただただ、配列されている文字を、上から下へと読み流していただけだ。


 いつの間にかアレクは、寝てしまったようだった。仰向けで膝を組み、両手を首の後ろに回して腕枕にしながら、ベッドの上でスースーと小さく寝息をかいていた。


 ──こうやって眠って、神力の消耗を、少しでも抑えているのか──


 そんなことを思いながら、静かな視線をアレクに向けたまま、さっきの言葉の意味を、真剣に考える。


 ──やっぱり男の人って、初めてが好きなのかな──


 考えると、心の中がモヤモヤとした。


 周囲からは、恋人だと見られている二人だ。だが当のアレクが、自分のことをどう思っているのか……ニーナは未だ、判断しきれずにいた。


 それでも直感的に、思うことはあった。


 それは、ファルナという女性のこと。


 きっと恋人なんだろう。…なぜだか分からないが、そう思えてならなかった。


 そして自分はきっと、その人には、敵わないんだ、と。


 それもまた直感だ。


 でなければすでに、手をつけられていただろうからだ。日中のほとんどを、この部屋で過ごすようになってから数日。いくらでも、そうするだけのチャンスは、あったはずなのだ。


 ──アレクさんだって、男の人だもの。何もしてこないってことは、そういうことなんだろうな──


 そう気づいてしまうと、少しだけ、寂しい気持ちになる。


 ──じゃあなんで、私をこうも、目をかけてくれるのだろう。下心もないのなら、なぜ?──


 そして、それは、いつまでなのだろう。


 もしかしたらそのときは、もう間近に迫っているのかも知れなかった。


 もしアクロティアが帝国軍に敗れ、ビズニスが、世界が窮地に立たされれば、アレクは傭兵ロードとして、戦地に赴いてしまうかも知れない。


 ──そうなったときには、私は置いていかれてしまう。だって私が戦場に出ても、足手纏いにしかなれないもの──


 起こしてしまわないように、静かに、ベッドのそばに近寄る。そっと、アレクの寝顔を覗き込んだ。


 そうして寝顔を眺めていると何か、心の中に、味わったことのない不思議な気持ちが溢れてきた。


 その気持ちがなんなのか、どう説明すればいいのか、ニーナには分からなかった。嬉しいような、悲しいような……そしてどこか儚さも秘めた、不思議な想い。


 それが恋しさなのか、あるいは愛しさと呼んでいいものなのかも、ニーナにはわからない。そこにあるあたたかさと、そして、これから失うかも知れない失望感。


 そして不思議と、どこか心の隅に揺蕩う、懐かしさのような想い。


 それら全てが折り重なり、ないまぜになって、居た堪れなくなる。


 ベッドの袂にしゃがみ込み、そっとアレクの頰に指を触れた。


 途端、なぜだか涙が溢れた。


 自分が泣いていることにも気づかずに、ニーナはただ静かに、アレクの寝顔を見つめ続けていた。

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