第2話 ラーヴィルの呪い
大陸情勢が著しく、きな臭くなっている。
大陸の覇権を狙う破壊神の一団であるノウティス帝国の侵攻は、東大陸への侵攻を食い止める防波堤であった大国、エストランドを飲み込み、ガルトロス大陸の流通を一手に担う商業都市、アクロティアにまで迫りつつあった。
大陸随一の軍事国家、地風神カイルストルを擁する守護国ビズニスは、各地のロードギルドの集合体である、ロードクラン(ロード軍)に要請し、防衛のための軍備を整えている。
ニーナらが住むベルメティアのロード集会所でも、その手のクエストが多く、目につくようになっていた。最も、クエストを受注して、傭兵ロードとして戦地に赴こうという者は、ベルメティアではほとんど、皆無だったが。
また、ノウティスの侵攻に合わせるようにして、各地の都市で、謎の魔物発生の事件も頻発するようになっていて、ここベルメティアでもこれまでに二度ほど、小規模ながらも街中に魔物が発生したという報告がなされていた。しかしその魔物は、居合わせた中級ロードでも駆逐できたほど、低級のものであったらしいが。
下級ロードの間では、有志で自警団が設立され、街のパトロールを行ったりなど、大衆を安心させるための独自の活動も増えているという。
大陸はこのとき、大きな変換期を迎えようとしていた。
ニーナがベルメティアで活動するようになってから、数日が経っていた。
未だ自身でクエストを受けることもなく、友達からの仕事の誘いも一度もなかったが、ニーナはそれに、焦ることなどはしなかった。
長い目で見ていこうと思うのだ。ニーナは中級ロードでもあったのだから、いざとなれば小規模のギルドも、自分で展開することもできたし、誰か気の合うロードの一人でも出会えれば、パートナー登録をして頑張ってゆくという手段もあった。
当分は仕事がなくても、食っていけるだけの貯えは、用意してあるのだ。何を焦ることがあるのだろう。
毎日集会所に顔を出して、自分という存在をアピールすることも、大事なことだ。たとえ依頼を受けることがなかろうとも、それだけは欠かすことができなかった。
集会所へと向かう道すがら、例の男が寝床にしている、路地に差し掛かる。
なんとなく気になって覗いてみると、男はいつもの如く毛布に包まり、木箱の上に寝転がっていた。
辺りはゴミだらけで、男の他にそこを寝床としている浮浪者はいないようだ。そこに漂う嫌な臭いが、ゴミの発するものなのか、男の発する体臭なのかは、ニーナには窺い知ることはできなかった。
明らかに、人を避けている。なぜ男は…アレクはここまで、一人で居ようとするのだろう。その気になれば多くのロードを従えて、ギルドを運営する立場となり、活躍することもできるだろうに。
気になったニーナが、ゆっくり、そろそろとアレクのそばに近づいてゆく。
「こんにちわ〜……」小声で、そっと囁いた。
アレクはゆっくりと寝返りを打ち、こちら側に体を向けたが、どうやら起きてはいないようだ。
そろそろと泥棒猫のように近づき、アレクの寝顔を覗き込む。
やはり、思った以上に若い。髭も伸び放題で、汚い身なりをしているため、一見するとお爺ちゃんのようにも見えるが、明らかに、ニーナと比べてもそれほど、差があるようには思えなかった。
──上級ロード様なのよね。この人……── ぼんやりと、寝顔を見つめ続ける。
ニーナにとっては、この街に来て初めて出会った上級ロードであった。
思っていた上級ロードの印象とは、随分と違う。いや、正反対と言ってよかった。
きっと、この人だけが特別なのだろう。きっと他の上級ロードは、自分が思っている通りの人物なのに違いない。そんなふうに思い、小汚い路地裏で、眠る男の寝顔を見下ろす。
──どうしよう。無理に起こすのも悪いかしら── と、ぼんやりとそのまま、男の寝顔を見つめていると……
不意に、男の瞳が、パチリと開いた。
ハッとして息を飲む。言葉も忘れ、男の顔をじっと見つめた。
しばらくの間、子供みたいにぼんやりと、目を瞬かせていた男が、ようやく目の前のニーナの存在に気がついたようだった。
自分を見つめて固まっているニーナに向けて、迷惑そうに目を細めたあと、
「またお前か。なんの用だ?」と、煙たそうにつぶやき、ふぁぁと小さく欠伸をした。
ニーナはしどろもどろながら、
「ちょっと、気になって。アレクさん……ですよね?」
名前を呼ばれ、アレクの両眼がギラリと見開いた。
「なんで名前を知っている? お前まさか………ファルナ、なのか?」言って、何かを切望した真剣な眼差しで、真っ直ぐにニーナの顔を見上げた。
ニーナは慌ててブンブンとかぶりを振り、
「わ、私はニーナ・ワーテルといいます」咄嗟に否定して、やや顔を傾けながら苦笑いした。
よっぽど寝ぼけているんだと思った。想い人の顔を、自分の顔と見間違えてしまうなんて。
「……本当か? ファルナという名前に、聞き覚えは?」
ジロジロとニーナの顔から足の先までを、慎重な目つきで見定める。
ニーナはもう一度苦笑を浮かべると、
「友達から聞きました。アレクさんが、ファルナさんっていう女の人を探しているって。……どういう関係なんですか?」
あるいはそれこそ、生き別れた妹か何かで、もしかしたら顔も分からないんじゃなかろうか、などと続けて思いつく。
だがアレクはすでに、ニーナに対する興味が、薄れてしまったようだった。
「話しても意味がない」言って、再びゴロンと木箱の上に寝転がってしまう。
気不味い沈黙が続いた。やがて沈黙に耐えかねたニーナが、
「あの……聞きたいことがあったんです。なんでアレクさんは、上級ロード様なのに、こんなところで浮浪者のように、寝泊りされているんですか?」
問われたアレクの目が、怪訝に染まった。
「前も同じことを聞かなかったか?
……どこで寝ようが構わないだろう。宿のベッドの上だろうが、路地裏の木箱の上だろうが、寝て起きれば同じだ。
宿で寝れば、金がかかる。だったら、野宿した方が得だろう」
「そこなんです、気になってるのは!
上級ロード様なら宿代だって一生困らない額を、一日で稼ぐことだってできるはずでしょう? なのになぜアレクさんは、その日の食事さえ困る生活をしているのですか?」
問われたアレクが、黙り込んだ。寝転がった姿勢のまま、どこか変人でも見るような目つきで、不思議そうにニーナの顔を見つめる。
「……どうしました?」キョトンとニーナが小首を傾げると、
「いや……そんなことを聞いてきた奴は、初めてだ。誰だって俺の機嫌を伺うような発言しかしないのに、いきなりそんな、失礼な質問ができるなんて……。
逆に俺が聞きたい。なんでそんなことを聞く? 聞いてどうしたい? 俺を怒らせて、手痛い目に遭うとは考えなかったのか?」
「えっ…?」
言われて初めてニーナは、それに気がついた。沈黙に耐え兼ねて、場を取り繕うかのようにしてしまった質問であったが、上級ロード様に、なんてことを聞いてしまったのだと。
「い、いや、べつにそんなつもりじゃ……」
アタフタしていると、不意にアレクが、フッと柔らかな笑みを見せた。怒ってはいないらしいと、ニーナがホッと胸を撫で下ろす。
「相当に空気が読めないんだな。長閑な田舎暮らしの、農民じゃあるまいし。そんなんじゃ海千山千のロードらの中じゃ、上手く立ち回ってゆくことなんて、できないだろう。甘いこと言われてハメられるか、嫌われて孤立するだけだ。
あんた、一緒に組むロードも見つからず、困っているんだろう? それで俺が、どこにも属していないフリーの上級ロードだと聞いて、上手くいけばパートナーロードにでもしてもらえないかと、俺を訪ねてきたんじゃないのか?」
「い、いいえ、そんなんじゃないです!」真っ赤な顔でかぶりを振り、慌てて否定する。
なんだか心の内全てを見透かされたような気がして、恥ずかしい思いで一杯になった。
ニーナがアレクを訪ねたのは、決してそのような下心があってのことではない。ないのだが、実際に面と向かってそう言われてしまうと、本当はそういった邪な思いもあったんじゃないか、と自分を疑わずにはいられなかった。
「残念だが、俺は誰とも組む気はないんだ。俺はこの街で……いや、この街にいる間だけじゃなく、当分の間は、ロードとして活動するつもりはない。
悪いが、パートナーロードを探しているんなら、他を当たってくれ。俺には、やらなきゃいけないことがある」
「……それは、ファルナさん、って人を探すことですか? もしかして、生き別れた妹さんだとか……大事な、人なのですか?」
ニーナを見上げるアレクの目つきが、ここではない何処かを見つめる、遠い眼差しへと変わった。
その深く青い瞳の中に、並々ならぬ感情の渦が感じられた気がして、ニーナは思わず視線を逸らし、うつむいた。
聞いてはいけないことを、聞いてしまったのだろうか。そんな申し訳ない思いと、自分にはとても越えていけそうにない、大きな壁がそこにあるように思えて、それ以上は何も言えずに黙り込んでしまう。
やがてアレクが、目の前にいるニーナの存在を、ようやく思い出したかのように、静かに口を開いた。
「……そんなところだ。とにかく、俺には近づかない方がいい。
……ラーヴィルの呪いを受けるぞ」
意味の分からないことを言われ、ニーナがピョコンと小首を傾げる。
「ラーヴィルの呪い? それは、シィルスティングですか? 一体どういう……」
問いかけたニーナの言葉を遮るように、アレクがふうぅっと大きくため息を吐いた。
「これ以上、話すつもりはない。早く離れろ」言って、こちらの背を向けてバサリと頭から毛布をかぶってしまう。
「……はい」
それ以上は何も聞くことができず、ニーナは言われた通りに、ゆっくりとその場を立ち去っていった。
立ち去ってゆくニーナの後ろ姿を、寝転がった毛布の隙間から。アレクは眺めていた。
ほっそりとした華奢な身体付きに、女性らしいボリュームを含ませた、柔らかそうな白い肌。やや色褪せたデニムのショートパンツのお尻に、知らずに目が釘付けになる。……すごく健康的で、活発な子なんだろうということが、想像できた。
歯痒く、思う。
できることなら真っ当に上級ロードとしてでも、あの子の力になり、活躍させてもあげたいものだった。それでも今のアレクには、そうすることのできない事情がある。それができるだけの力が、残されてはいないのだ。
成り上がりを夢見るロードの気持ちを、アレクも分からないではない。かつては自分もそうだったからだ。自分を手助けし、ロードとしての最高峰、マスターロードにまで押し上げてくれた存在は、アレクにもかつて、あった。
実力主義のロードの世界。いくら志が高かろうが、運に恵まれなければ、どうしようもないこともある。
その意味ではアレクは、ごく恵まれていただろう。
アレクが人として、最初にこの世界に生まれたとき、アクロティアのとある田舎の山村で、アレクは母と二人、平穏な暮らしを送っていた。
しかし村はあるとき、ノウティス帝国の略奪軍の襲撃を受け、虐殺され、村は焼き払われた。
アレクの母も、アレクも、そのときに死んだ。
死んだのだ。
だがその少しあとに、遅れて救援にきたエストランド傭兵軍の英雄戦士、ウィル・アルヴァの指揮する部隊により、村を略奪した帝国軍は敗走し、撤退していった。
アレクが幸運だったのは、そのとき自分を一番最初に見つけてくれたのが、ウィル・アルヴァだったということだ。
幼い子供の死に、心を痛めたウィルは、アレクに、使用した者の生命と引き換えに、地脈に落ちた魂を呼び戻す秘術、死者蘇生の魔法を施した。
その神級魔法は、この世に一枚きり。父なる神と呼ばれるロードしか、所有していないものだ。
その魔法は単に、死者を呼び戻すだけのものではない。本来ならば、もっと別の用途で使用されるべき類の魔法であった。
死んだ者をも蘇らせるという効果は、ただの付属品でしかなく、父なる神が、自らの後継者に指名した者にこそ、使用されるべき魔法であったのだ。
本来であれば、まだ自我も定まらぬ赤子に対して使用されるものであり、その魂と自我までも、父なる神ウィルと、完全に同化されるはずであった。
しかしこのときのアレクはすでに、ウィルの後継者として指名されるには自我が発達しすぎていて、ウィル・アルヴァという神の思考は、そのほとんどが、アレクの自我の中に埋没してしまっていた。
期せずしてアレクは、父なる神の器、天父神ラーヴィルの器として、選ばれることになったのだった。
それが行われたのが、今から何百年、何千年前のことだったのか、アレクは覚えていない。現在の肉体も、自前のアレクの肉体ではなく、それが一体何代目に当たるのかも、今のアレクには思い出せなかった。
自分の意識が果たして本当に、生まれ出でたアレク・ファインという人間のままなのかも、アレクにはもう、分からなくなってしまっていた。
鮮明に思い出すことができるのは、かつての恋人の顔。無名だったアレクを助け、父なる神としての覚醒にまで導いてくれた、かけがえのない女性の笑顔。
ファルナ・レイン。
彼女の魂は今、どこに生まれて出でているのだろうか。
名前も顔も分からない、果たしてこの時代に生まれているのかも分からない、大切な人。
それでもアレクは、約束したのだ。
必ず、見つけ出してみせると。
思い出の中、涼やかに微笑むファルナの顔が、脳裏に浮かぶ。大人びた仕草で、そよ風に揺れる後れ毛を掻き上げて耳にかけると、自分を見つめる視線に気がついたように、微笑み、あたたかな目つきで見つめ返す。
それは、遥かな過去のこと。父なる神と母なる神をも含めた、大陸の連合軍が、破壊神ルイス・ノウティスを追い詰め、討ち果たした物語。
アレクがロードリングから取り出した二枚のシィルスティングが、光り輝く白銀の盾と、赤黒い炎を纏う漆黒の剣へと姿を変える。最強の盾ランファルトと、最強の剣ディグフォルトを携えたアレクの背後には、いつでも彼に寄り添い護る、ファルナの姿があった。
ルイス・ノウティスの居城リーベラ城は連合軍により包囲され、討ち入ったアレクらの精鋭部隊により、城の奥深くに追い詰められた破壊神に、最後の一撃が穿たれる。
魔剣ディグフォルトの刀身が、破壊神の肉体に深々と食い込むと、悲鳴もなく片膝をついた破壊神が、どこまでも深い深淵を湛えた黄金の瞳で、アレクを見上げた。
アレクの瑠璃色の瞳と、闇を宿した黄金の瞳が、真っ正面から交錯する。言葉もなく、全ての意識が同一化されたように、そこには誰にも窺い知ることのできない、無言の会話があった。
やがてルイス・ノウティスの身体が、ボロボロに崩れ去るようにして、いくつもの細かな闇の塊となり、地中へと沈んでゆく。
それで、全てが終わったわけではない。それでもこのとき、確かに父なる神は、一つの大きな戦いに、終止符を打つことに成功したのだ。
そうして世界は、千年の安寧の時代を約束された。世界を脅かす絶対悪である破壊神が、やがて復活を遂げるそのときまで。
記憶の中のファルナが、アレクを見つめ、何かを囁いた。このときにファルナがなんと言ったのか、アレクの記憶にはもう、その真相は残されていなかった。
それほどまでに、長い時が流れたのだ。
ファルナが人としての寿命を迎え、輪廻転生の渦の中に身を委ねてからも、アレクはたゆみなく、ファルナの姿を追い求めた。
破壊神が復活を遂げ、大陸の安穏を脅かすようになってからも、ファルナの面影に囚われたままでいるアレクは、神としては失格だったのかも知れない。
それを、誰が責めることができただろうか。
残された猶予は、すでに僅かなものでしかなかった。
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