終章 4

 初めて仮想世界へ入った時の事を俺は覚えていない。だから、これが二回目だとしても、どうやって入っていくのかを知らなかった俺にとっては初めての経験だった。

 その感覚を簡単に説明するなら、『夜に寝て夢も見ずに朝起きた』そんなところだろう。もちろん目覚めれば別の場所なので、そちらに重点を置くならば、交通事故にでも遭い病院のベッドで目が覚めたと考えればいい筈だ。

「まるで地続きの異世界だな」

 もう随分と昔、二十三年前に一度だけ訪れたことのある部屋で目覚めた俺は、身体を起こすと、辺りを見回しそう呟いた。

 突然、ビーッ、という短い警報のような音が部屋の中に鳴り響く。一瞬、驚き身構えるが、直ぐにインターホンの音だと気づき、立ち上がって玄関へと向かう。誰が尋ねてきたのかは、大体の予想がついているので急ぎはしない。こんなタイミングでこの部屋のインターホンを鳴らせるのは二人。そしてその内の一人は俺と顔を合わせはしないだろう。ならば、と答え合わせをするかのように玄関のドアを開け、そこに居た半袖のシャツに膝下までしかない短めのズボンを穿き、脛毛を晒している予想通りの人物に言った。

「久しぶりだな、純也」

 そんな挨拶に純也は手に持ったスニーカーを寄越しつつ笑みを作り、頭を振った。

「僕にとっては、そうでもないな」

「さいですか」

 と、雑に返しながらスニーカーを受け取って、それを手早く履いてしまう。

 それから俺は部屋を出ると、現実とは真逆の夏を思わせる暑さを肌で感じ、後ろ手に錆びて軋んだ音をたてる鉄製のドアを閉めて、言う。

「訊きたいことは幾つかあるが、歩きながらでも良いか?寄りたい所があるんだ」

「構わんさ」

 その即答を受け取った俺は、先立って歩き出した。


 駅前に出て、踏切を渡り、商店街を歩く。時刻は正午を少し過ぎた頃、表に出ている人は少なく、クーラーが効いているであろう店内で昼食を取り、涼んでいるようだった。

 それでも現実よりはマシな方で、湿度が低くカラッとしているからか気温もそれほど高くは感じない。今の日本は全国的に、夏になると四十度まで気温が上がる事も珍しくはないので、そう言った意味でも、この仮想世界は理想郷になってしまったわけだ。

 ただ、それを口には出さない。所詮は一方通行の愚痴だ。話題に上げれば純也は応えてくれるだろうが、俺の目的は友人との語らいにある。

 だから、俺は愚痴ではなく疑問を言葉にした。

「何故、確実な移住先である能島先生を、選択肢に含める事の出来ない様なシステムにしたんだ?」

 これは能島先生から事の顛末を聞いてからの一週間、引っかかった点を調べて疑問へと昇華したものだ。

 そもそも旧式の仮想矯正プログラムには入り口が二つある。記憶を書き換える為の入り口と、メンテナンス用と言われているバックドア、つまり裏口だ。それらの明確な違いは脳へのアクセス方式で。前者は長期記憶に、後者は短期記憶にアクセスするようになっていた。その為、裏口から仮想矯正プログラムに入った人間の記憶は、別の記憶で完全に上書き出来ない。そんなシステムにした理由が、俺には分からなかった。

 それを純也は、そんなことかと一蹴し、

「簡単な話で、失敗した時の事を考えてだ」

 と、切り出した。

「計画の破綻は全てを明らかにされた時にしか起こらない。そして、そうなった時でも仮想矯正プログラムの使用が維持されなければ、全く別のシステムである代替品を用意しなくてはならないが、それを誰が造る?完成までに何年を要する?原因の不祥事をどうやって収める?だから、僕の計画だけが破綻しなくてはいけない。でなければ、葉山美咲の描いた世界はそこを起点に崩壊する。つまりは、その為の不干渉で。能島が使うバックドアを別の構造で組み上げた理由だ」

「そうだとしてもお前なら、そのリスクを度外視する事も出来ただろう?目を背けると言うことではなく、再現性の無いものに対応する応用力と、起こる可能性のある事象に備える想像力で、他人の思考を捻じ曲げることによってだ」

 純也は苦笑し、目線を少し下げて、反論を寄越す。

「それは買い被りが過ぎる、僕は葉山美咲ほど頭の出来が良くはない。彼女の自殺すら僕の才能を開花させる為の過程だった可能性があるくらいだ。どんな努力を重ねた所で葉山美咲との距離を詰める事は、少なくとも僕には出来ないさ」

「客観的に見て…か?」

「あぁ、そうだ」

 そう言い切られた事で、俺は納得した。そして肩の力を抜いて言葉を返す。

「神格化し過ぎたな」

 その表現に純也は口元を緩め噴出すと、

「そうかもしれん」

 と言って、俺の前に出て立ち止まり。確認のつもりなのか、

「それで、立ち寄るのはゲーセンでいいのか?」

 と訊いてくる。

 純也が立ち止まったのはゲームセンター若肉の前。この先に用があるとすれば学校かアパートだが、そのどちらにも思い入れは殆ど無い。だから俺は、「あぁ」と頷き、冷房の効いた店内へと足を踏み入れた。

 身体に纏わりつく様な熱は冷気によって引き剥がされ、僅かに上昇をしていた体温が下降に転じたと、引き始めた汗で感じる。それにしても、実に二十三年ぶりの来店になるが、最悪の想定が全くの無意味だったと言って良いほどに変化は見られない。それは店だけではなく、働く人間も含めての事だった。

「おっ、久しぶり…と言うには日が浅いけど、随分と老けたな品里」

 入ってすぐ、そう声をかけてきたのはゲームセンター若肉の店長で。相変わらずの高いテンションに俺は懐かしさを感じた。

「店長はお変わり無い様で…」

 働いていたあの頃を思い出しつつ、そう応える。すると店長は当たり前だと言いたげに、

「それは単に、お前が変わっただけだろう…」

 と、呆れながら口にした。

 全く持ってそのとおりなので、俺は「まぁ確かに…」以外に、返す言葉を失う。だから、と言うわけでもないが、さっさと本題に入ることにした。

「瑠璃子さんって居ます?」

 その問いに店長は、突然の路線変更にも動じず、いつかの様に真面目に応えた。

「今は…バックルームに居たと思うから、呼んでくるよ」

 それを『らしくない』と思わなくなったのは、成長と言えるだろうか?

「お願いします」

 疑問のままに俺がそう言って頭を軽く下げた時だ。店長の視線が少し横へ動いたのが分かる。そして、

「親友、見つかったみたいで良かったな」

 背を向けながら小さな声で、嬉しそうに、そう言ったのが聞こえた。

 その背中が足早に店内奥へと消えるのを待ってから追いかけるように、でも追いつかないように、俺も一歩を踏み出す。それから、店に入ってから無言で今も俺の後ろを黙ってついて来る純也に、それほど五月蝿くない店内BGMにかき消されない程度の音量で訊く。

「純也、お前の記録や記憶は消えたままなのか?」

 答えはすぐに返ってきた。

「ここの店は管理者である学が、今日の為に保存して置いた場所だ。そして、お前が現実に戻ってから数週間しか経ってない。確認しなくても分かってるんだろ?今の言動で」

 俺は頷いて、思い出の場所へ帰ってきたのだと、改めて実感が湧いた。

 ゆっくりとクレーンゲーム群を抜け、少しひらけた場所に出る。主にシューティングゲームや立ってプレイするタイプのゲーム筐体が並ぶこのエリアにバックルームの出入り口もあるが、そこで八護町兄弟が二人、見える範囲で客が一人として居ないが故に暇を持て余してか、横に長い画面のシューティングゲームの筐体を背にして、向かい合い談笑していた。

「だから、そこが良いんだって!スカートじゃないことが私服姿とのギャップをより一層深めてくれる。それがロマンに繋がると、何故わからん?」

「いや、わかんねぇよ。それにスカートの方がロマンはあるだろ?武器を隠し持てるんだからな」

 一般的に普通とは言い辛い会話の内容から、帽子を見なくとも二人が何号機なのか何となく予想がつく。そんな二人に声をかけようと歩み寄ったところで、二人もこちらに気づき、片方が俺より先に口を開いた。

「久しぶりって言うには日数が足りないように思えるが、その老け込み方からして久しぶりと言うのに問題はなさそうだな。どうした、玉手箱でも開けたか?」

 そう独特の言い回しをしたのは五号機の文字が刻まれた帽子を被る八護町さんで、隣のもう一人の帽子には二号機と記されていた。

 この人たちも店長と同じく変わりないようで安心する。

「まぁ、そんなところです」

 と、真面目に答えようとすれば説明が面倒な事になるので適当に流し。八護町兄弟二人を目の前にした事で消えかけの火のように揺らぐ期待を込めて、続けた。

「あの…霧海さんって休みですか?」

「あぁ、今日は昼も夜も休みの筈だが、確か富士山がどうとか…用でもあったか?」

 答えたのは二号さんで、俺はその内容を少し残念に感じた。

「いや、特に何も」

 そう言葉にして見たものの、後味の悪さに視線を店の奥、対戦ゲームの筐体が並ぶ場所へと向ける。

 特別、これと言った感情を、俺は彼女に対して持ち合わせてはいない。でも、何も言いたいことが無かったか?と訊かれれば、頷くことは無いだろう。短い間でも彼女とは共に働き、二人で小旅行に出掛けたくらいだ。知り合いと言っても、友人に限りなく近い存在なのは確かな事で。いつかの昼食の時のように、向かい合えば「ありがとう」と、彼女にしてみれば何に対してのことだか分からない言葉を掛けていたかもしれない。

 視線を戻し、訂正とばかりに言う。

「でも、それを惜しいとは思いますよ」

 その言葉に八護町兄弟の二人ともが首をかしげたが、数メートル先でバックルームのドアが開き、中から瑠璃子さんと店長が一緒に現れたことで話はそこで打ち切られる。

 そして瑠璃子さんの「よしっ、品里!リベンジするぞ!」という声を合図に、場の空気は新歓の時を彷彿とさせるものへと変わり。大した約束事でもないというのに俺は少しばかり口角を上げて、頷き応じた。

 それから、八護町兄弟も「面白そうだ」と瑠璃子さんの居る筐体前へ足を向ける中、部外者のように黙って立っている純也に、俺は言った。

「店の中までついて来たって事は、遊ぶ気はあるんだろう?」

 すると純也は珍しく感傷的な表現で答えた。

「まあ、最後だからな」

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