終章 3
コンッコンッ、と所長室のドアがノックされるのと同時に、チンッとトースターが音をたて、パンが焼き上がった事を知らせた。
それで回想にちょうど良く区切りのついた俺は、ノックを無視してトースターへと足を向ける。その直後、返事を待てなかったのかドアがゆっくりと開き、出来た隙間から、そこそこに長く伸ばされた黒髪の女性が顔を覗かせた。
「今日は随分と早いな」
足を止めず俺がそう言うと、
「所長は泊まりだったんですね」
そう彼女は言葉を返しながら、所長室に入ってくる。
良い匂いだ。と、こんがりと焼けた食パンへの感想もそこそこに、予め用意していたトースターの横に置かれた皿へパンを移しつつ、背を向けたままで応えた。
「新型の最終チェックをしていたんだ」
「一昨日やりましたよね?」
「全員で、手分けして、だろう?」
パンを載せた皿を持って振り返ると、熱い視線を向けられる。俺へのではなく、パンへのだ。蜂蜜の入った瓶が置いてあるデスクへ戻りつつ、一応訊く。
「一枚食べるか?」
「いただきます。まぁそもそも、どちらも私のなんですけどね」
少々、嫌味な言い方にも感じたが、事実なので反論はしない。
「スプーン、使い回しじゃないですよね?」
と、瓶の蓋に手をかけたところで確認される。
「誰かが洗うのを面倒くさがっていなければな」
と、軽く返した。
それから、きつね色に焼けた食パンへ蜂蜜を垂らしスプーンで広げる間、少しの沈黙を挿んで、彼女は先ほどの続きを口にする。
「お一人でチェックするのは、信用できないからですか?」
「違う…とも言切れないか」
手は止めず、適当な言葉を探す。几帳面、潔癖症、完璧主義者、どれもしっくりとはこない。探求者や夢追い人とも違い、意外と難しいなと感じた。
そうこう考えている内に一枚目の蜂蜜が塗り終わる。二枚目のパンにも蜂蜜を垂らして、一枚目と同じようにスプーンを使って広げていたら、ふと思いつき、それを口にする事にした。
「たぶん、職人気質なんだろうな」
言いながら、ちゃんと伝わるのだろうかと言う疑問が浮かぶ。そして案の定、
「どういうところがですか?」
と、返された。
ただ、それに対しての答えは既に手の上にあるので、詰まると言う事は無かった。
「一回目より二回目を信じ、完成したものにすら納得がいかない所が、だ」
蜂蜜を塗り終えたパンを二枚、手に持って彼女の前に出す。一枚目は蜂蜜の量が多く、はみ出している部分が目立つ。一方で二枚目は、分量が分かっていたので綺麗な出来ばえだ。それらを見比べて、彼女は言った。
「つまり、最終チェックは稼働日にやった方が良い、って事ですか…」
「少し違うが、まぁそんな所だ。で、どっちにする?」
一応、選ばせる形にしたが、結果は見えていた…つもりだった。
「じゃあ、私はこっちで」
そう言いながら彼女が取ったのは最初に蜂蜜を塗ったパンだった。
「どうしてそっちを?」
と、意外な選択の理由を訊ねる。すると彼女は一口齧り笑みを浮かべて言った。
「私、蜂蜜はパンに浸みてる方が美味しいと思うんですよ。だからです」
なるほどな、と俺は納得し、手に残ったパンを口へと運んだ。
五分後、会話もそこそこにささやかな朝食を済ませた俺は、ぬるくなり始めたコーヒーを飲みながら、嫌と言うほど調整した午後からの予定表に目を通していた。
四時からの新型稼動に向けた準備を一時から行い。新型の稼動後一時間はエラーチェックに追われ。その後は七時からの記者会見に向けての準備をして。それらが全て終わったら、一週間ほど研究所に缶詰となる予定で。つまりあと六時間も経たない内に、俺の平穏は一週間の休暇に入ると言うわけだ。
だからと言って、トラブル続きの日々になるとも限らない。そうならない為に何度も、何通りもチェックをしてきた。まぁそれについて俺が残された時間で出来るのは、せいぜい平穏の休暇が延びない事を祈るくらいだろう。
デスクの上を指で軽く叩き、表示されていた予定を閉じる。それから、残り僅かな自由時間でやろうと決めていた事をする為に、体重を掛けていたデスクから腰を浮かせた。そして、ちょうどパンを食べ終えた彼女に言う。
「昼まで旧型の方に行ってくるから、悪いが午前の予定を消化しといてくれ」
それに彼女が小さく頷いたのを確認してから、所長室の出入り口であるドアへ向かって歩きだす。その歩幅は急いでいるわけでもないので大きくはなく、それでも十歩と行かずに、ドアを目の前にした。
「あのー」
ドアノブに手を掛けたところで、間延びした声で呼び止められる。
「二つ訊いても良いですか?」
と、言葉が続いた。俺はドアノブから手を離さず振り返り、
「応えられないかもしれないが、それでも良いなら」
そう返す。
「それは大丈夫だと思います。大した事じゃないので」
彼女はそう言うが、倒置法で安心をさせようとする場合、大抵は想像以上の事を告げられる。これは自論だが、それなりに当たっているだろうと思っていた。故に身構える。
「一昨日、新型の最終チェックの日に訪ねてきた女性。そこそこに大病院の人だったみたいですけど、知り合いですか?今までも何度か所長と一緒に居るところを見かけたんですけど…」
「あぁ、彼女か」
と言って、俺は自論の連勝記録に満足しつつ、それを表情に出す事無く質問に答える。
「二年前に安楽死が認められたのは知ってるだろう?」
「はい」
「あれは自殺者を限りなくゼロへ近づける為の受け皿を作る上で必要な法律だったんだ。安易な死に方を提示して人を集め、カウンセリングに繋げられる、要は最後の砦だ。そこで彼女は働いている」
その説明だけで理解できたのか彼女は首を何度か縦に振ると、呆れ気味に口を開いた。
「つまり新型仮想矯正プログラムに心的治療の項目が追加されたのは、安楽死を餌にした治療の為だった…というわけですか」
あまりの正論に、俺は苦笑するしかない。
「それで、彼女とは付き合っている、と」
続いた彼女の言葉に、今度は俺が首を振った。ただし横に、だ。
「一緒に暮らしてはいるが、付き合ってもいなければ、好き合ってもいない。そもそも一週間前まで俺は彼女の掌で踊らされていたんだ、十八年もな」
正直、全く疑わなかった俺も俺で悪いのだが…。
「それで、もう一つの質問はなんだ?」
と、この話題を無理やり打ち切り、話を次へ進めるために、そう言った。
対する彼女としてはまだ納得できていなかった様で、一瞬、言葉に詰まる。ただ直ぐに、これ以上は無駄だと察してか軽く溜め息を吐くと、ぼやきながらも話題をスライドしてくれた。
「本命は前者だったので、二つめに関しては割とどうでも良いんですが。昨日、夜食にから揚げか何か食べました?冷凍食品のやつで」
俺はドキリと鼓動が一瞬速まるのを感じた。何故それを知っているのか?そんな疑問で頭を満たしつつ、
「どうして、そう思った?」
と、聞き返した。
「そうですね、細かい説明は面倒なので省きますが。それほど皿が汚れず、手で食べられるからです」
その言葉が耳に届いた瞬間、断片が既に手の中にあった事を理解した。あぁ、だからスプーンの使い回しを疑い。『所長こそ』ではなく『泊まりだったんですね』と言えたわけだ。
なら礼くらいは言っておくべきだろうなと、ドアノブを下げつつ口を開く。
「暖房、付けてくれてありがとう」
「どういたしまして」
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