終章 2

 現実と仮想世界で枝分かれしたもう一方の結末を語ってくれた能島先生は、「はぁ疲れた」と吐く息をやや白く色づけて、年老いた事を感じさせる台詞を口にしながら、所長室のソファーに深く背中を預けると、目蓋を下ろし手を組んで、思い返すように言葉を紡いだ。

「結局ね。私にとってあそこまで自分の無力さを思い知ったのは、あの日が最初で最後だった。純也君の考えたとおりに、私は踊り。品里君の言葉が積み重なる度に、私は驚くしかなかった。

 あれから二十三年が経ったけど、君は才能溢れる若者として実績を重ねて、誰も距離を詰める事が出来ずに、総合仮想空間研究所の所長という肩書きを手に入れた」

 能島先生は言葉を切って顔を上げると、立っている俺に鋭く尖った視線を向けて続けた。

「そんな君は、純也君と重なって見えるの。もしかしたら彼の言った『敗北』は、私を欺く為の言葉に過ぎなかったんじゃないかって…」

「つまり、先生が今語った事は純也の一人芝居で。既に現実へ純也を送り出した事のカモフラージュだったんじゃないか、と?」

「えぇ、そうよ」

 俺は近くのデスクを指で三回ゆっくりと叩き、考えを纏めてから応える。

「それは、ありえないだろう。仮想世界に記憶を保存する時に自殺をし、仮想世界から現実へ戻る為に新たな管理者を用意した純也には、そんな事は出来ない。

 前者も後者も、葉山美咲の量産を考え実行していた純也には本来やる必要の無い事だ。でも、そうしたのは純也自身が葉山美咲に劣ることを理解していて、それ故に自分自身を信用できなかったからだろう。だから、現実と仮想世界の両方に、計画を知っている人間を配置したくはなかった。

 完璧だと思っていた葉山美咲が後悔から自殺したように。自分を二つに分けることで、片方が勝手に計画を凍結する可能性が、ありえる事だと考えたわけだ。

 でなければ、死ぬ事はリスクでしかない。自分より劣った存在に仮想世界を維持して貰わなくてはいけなくなり、不確実な事象が増えるだけだからな。

 まぁ、もちろん俺と純也が共犯だった場合は、先生の言った事もありえない話じゃないが。それを正しく認識する事は、俺と純也を除いて誰にも出来ない。だから、質問が無ければ、俺の推論は以上だ」

 一秒の静寂を挿み、能島先生は微笑を浮かべて言う。

「流石ね。私の考えと同じ」

 その試していたかの様な台詞に、驚く事は無い。純也の自殺に一手間加えたのが先生というのなら、理由を知っていたかもしれないし。知らなくとも、時間は二十三年もあったんだ考えないはずがない。と、そう思っただけだ。

 ただそれはどうやら先生も同じだったのか、俺が驚く素振りや表情一つ変えない事を分かっていたらしく、それ以上の追求を重ねはしなかった。

 その代わりと言う訳ではないだろうが、一つの質問が飛んでくる。

「ねぇ品里君は、彼女が革命的に作り変えたこの国をどう思う?」

 意外だな、と口には出さなかったが、それが問いに対して最初に感じた事だった。

 この国が大きく変わったのは確かだ。でも、それは人の上に立つ人間ほど影響が大きく、下に行けば行くほど影響は小さい。そんな変化だ。

 そして総合仮想空間研究所の所長といっても、所詮は国に雇われた個人に過ぎず、大きな権限を持ってはいない。せいぜい次期所長の推薦が出来るくらいで、他の事には口を挿むのが精一杯だろう。たぶん、一般的な会社の優秀な平社員と比べても待遇に大差は無いはずだ。

 それに対して以前なら不満も出ただろうが、新たな労働基準法などの法改正によって才能が無ければ会社を運営する事すら難しくなり、上へ行くのは才能ある物好きな人間だけになった事や、セカンドライフシティという老後の貯蓄不安を一掃する施設のお陰で、金を過剰に稼ぐことへの執着が薄れ、身の丈にあった幸福で満足する人間が増えた事で、不満を聞く機会も殆ど無くなった。それが現在の日本という国だ。

 何より能島先生は才能ある物好きであり、セカンドライフシティについても普段から好意的な印象を語っていたのだ。

 そういった意味で、能島先生は葉山美咲が作り変えた国を受け入れて、考える必要性を無くしたと思っていた。結末を知らなかったが故に、違和感すら抱くことの無かった俺がそうしてきたように。

 だが、質問をするということは少なからず考えることがあったのだろう。考え無しには質問は出来ない。規模はどうであれ、現在の日本について考えたのだ。

『正しい事も、間違っている事も、同じだけ考えろ。考える事、それだけは放棄したら駄目だ』

 そう言っていたのは、いつかの上司だったか、それとも純也だったか。二十年以上前の事で記憶が曖昧になっているが、この際どちらでも良いだろう。先生が放棄しなかった事を俺も放棄しないだけだ。

 ただ、いつかの様に「少し時間をくれ」とは言わない。黙ったままで、デスク後ろ側の他より少しだけ広く、窓に切り取られた緑の多い町並みへ視線をやった。

 この研究所は東京の外れにある。だから、立ち並ぶ建物は背が低く遮蔽物が限られ、山々がここからでも良く見える。途中には小さいが畑もあるし、川も流れている。そんな町で暮らし始めて十八年くらいだ。それだけでも仮想世界で過ごした時間の倍は経つ。

 どちらかと言えば仮想世界は、現在の日本に近かった。いや、仮想世界の方が現在以上に整っていたのだろう。流石はユートピアの名を冠し、理想郷と呼ばれた世界。この国がそこを目指すのも頷ける。

 視線を窓の外から天井へと移す。

 経年劣化は全てのものに等しく訪れる。それは必然だ。

 物語でよく目にする『真っ白な』という表現がまるで似合わない薄汚れた天井も、そう遠くない未来で研究所自体が無くなるか、デザイナーの気まぐれに巻き込まれなければ『真っ白な』天井に生まれ変われるだろう。現状維持をし続けることが出来ない故の必然だ。

 それから必然的に世代交代も起こるものだ。今日、能島先生が所長ではなくなり、俺が所長になる。二十数年後には、また新しい所長が選ばれる。

「そうだな…」

 と、言葉を紡ぎ始めながら視線を能島先生に戻し、そして俺は言った。

「純也の言ったとおり、彼女は今のところ優しい独裁者でいてくれている。言論統制や弾圧、そういった事に手を出さない独裁者だ。悪くはない。

 だが、見てくれだけの複数意見に意味は無いだろう。立場は違っても元を辿れば葉山美咲の個人思想に過ぎない。一方に偏れば、どんな船でも沈むんだ。いつかは駄目になる時が来る。それが独裁国家だよ。

 ただ、それは彼女が完全に居なくなった後の話だ。もちろん今すぐじゃない。でも、二十年か三十年もすればやって来る。

 だけど、それは別に彼女が組み上げた平和だけに限った話じゃないんだ。この研究所の建て替えと同じで、平和を構築し得るシステムにも耐用年数がある。

 つまりその時代、その土地に合ったシステムへ移行しなければ、上手くは機能しなくなるわけだ。完璧や永遠はありえない。人も平和も。

 だから、それに関して俺は無責任かもしれないが、どうしようもない。せめて、短い平和にならないことを願うだけだ。

 そう、この国は不完全で、不平等で、いつかは駄目になる平和な国だ。それは脆く、刹那的なものかもしれない。それでも俺は、葉山美咲が思い描いて、杉村純也が形作った国を肯定する。俺には現状の平和を否定出来ないからな。これが俺の答えだ」

 そう言い切った。

 それを先生がどう受け取ったのかは、俯き、表情が窺えないので分からない。ただ、それほど悪くは思われていないのだろう。

「そう…」

 とだけ返ってきた声音には、時々だが感じた事のある棘が無かったからだ。

 それから少しの間を空けて、研究所内に正午を知らせる鐘が鳴った。

 それが合図だったかのように先生は天井を見上げると、嘲笑と呼ぶに相応しい笑みを浮かべて、ポツリと口にした。

「純也君に出会った時から、品里君と出会った時から、今この時に到るまで…結局、私も自分勝手だった。この国を自分勝手に良くしようとした葉山美咲と同じでね」

 その言葉に俺は思わず噴出す。

「今更だ。それに、別に自分勝手なのは悪いことじゃない。むしろ誰かに流されるより、ずっと良いだろう?」

「まぁ、そうよね…」

 と、小さく頷いて見せた能島先生は、ふと思い出したように俺へ視線を向けて、続ける。

「そうそう、一つ聞いておきたいんだけど、品里君が現実に帰る際、仮想空間に記憶体を残したのは、純也君の目的が知りたかったから…なのよね?」

「正確には純也の考えを能島先生に認知させて、警戒してもらうためだな」

「怖くはなかったの?」

 一瞬、何を言われているのか理解できなかったが、ついさっき自分で口にした事を思い出し、左手の親指で少し伸びた顎鬚を撫でながら答える。

「俺に純也の様な野心は無いよ。あったのは憧れだからな」

 それが納得するのには十分過ぎる答えだったらしく、先生はふっと笑うと、

「私と同じね…。私が持っていないものを純也君は持っていたのよ。それを学ぼうと見続けていたら、気がつけば恋に落ちていた」

 そう懐かしむように言った。

 そして、それで満足したのか先生は、「そろそろ」と言葉を続けて立ち上がり、

「向こうでは喫茶店をやる予定だから、時間が空いたときにでも」

 と、さよならの代わりを口にしてから所長室を後にしようとした。

 そんな先生の背中に向かって俺は一つの質問を投げかける。

「純也のこと、今でも想っているのか?」

 それに対して先生は、歩みを止める事無く前を向いたままで答えを返した。

「えぇ…。たぶん、死ぬまで私は彼を想い続けるでしょうね」

 当たり前のように、その声からは老いを感じなかった。

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