四章 4

 極めて優秀な成績を収めるでもなく、かと言って頭を抱えるほどに酷い成績だったわけでもない中学生を卒業し、真ん中よりも少し上にある程度の高校へと進学した僕は、特にこれと言ってやりたいことも無かったんで、自作のゲームを作っているらしいコンピューター部に入部したんだ。

 ただ、蓋を開けてみればなんて事はない。ゲームを真面目に製作している部員は三人ほどで、あとの部員はゲーム作るのではなくプレイする方に熱が入っていたわけだ。

 だからと言って、「堕落の蔓延した部活動は僕が何とかしないと!」なんて、真面目な生徒的思考を持つことは無かった。プログラミングに興味はあったが、やる気と言うには程遠い熱量でコンピューター部を選んだからな、放課後に先輩や同級生達と楽しくゲームを遊んださ。

 だが、そんな生活に別れを告げるのも意外と早かった。五月の終わりにコンピューター部に二年生の女子の先輩が入部してきたんだ。その先輩って言うのが葉山美咲だったわけだが。男子しか居なかった部室に一輪の花が咲いたっていうのに、浮き足立ったのは俺を含む一年生のみ。二年生と三年生は距離を置いて、どうやら関わりを持ちたくないみたいだった。実際、部長から『関わらない方が良い』と、言われたくらいだ。

 もちろん何故かと聞き返した好奇心旺盛な奴が居た。先輩は少し嫌がる素振りを見せたが、渋々小声で答えてくれたよ。

 去年の夏休み明けに一人の一年生の女子が自殺した。その友人が葉山美咲だったんだ。

 次の日、緊急で開かれた全校集会中、彼女は話している途中だった先生のマイクを奪って言った。

『絶対に許さないわ』

 その一言は驚くほどに冷たく淡々と発せられ、そこに居た人間全ての心を抉ったらしい。が、所詮は一人の女生徒に過ぎない。あっという間に皆の記憶から薄れ、消えていった。そう、自殺した女子のことも一緒にな。

 そして誰もが、自殺があったことすら忘れた、その年の大晦日だ。

 一人は父親がぶちまけたガソリンで火達磨になって。

 一人は父親が睡眠薬を家族に飲ませて車で海にダイブ。

 一人は母親が包丁で家族をめった刺しにして自らは警察署の前で喉を突いて自殺した。

 まるで示し合わせたかのように一年生の女子三人が、一家心中で死んだんだ。ホラー映画にも負けない呪殺だと先輩たちは最後の最後に茶化したが、目が笑ってなかったから。余程、葉山美咲と言う存在が怖かったんだろ。

 結局、美咲が入部して三日と掛からず部員が三人減った。後に美咲は、『もっと減ってくれればその分静かになって、私の作業も、もう少し捗っていたわ』と言ってたよ。

 さて、話を戻そう。美咲が入部して一ヶ月が経ったころだ。本当に偶然だったのか、それすら怪しいが、放課後の部室で葉山美咲と二人きりになったんだ。

 美咲は入部以来、放課後になると部室を訪れ、部屋の隅で一人パソコンのキーボードをカタカタと、下校の時間になるまで叩き続けていた。

 その日も僕が部室に入ると、美咲はいつものように隅の席に座っていて。いつものように僕も離れた席に腰を下ろし、そしてパソコンの電源に手を伸ばしたときだった。ハードディスクドライブと冷却ファンが動き始めた音に混じって、美咲の声が聞こえた。

「あなたは行かなかったのね」

 それは僕の耳に届きはしたが、不意の事で言葉の意味を理解するまでには少し時間が必要だった。それでも十秒と掛からず、昼休みに部長から誘われたカラオケのことだと解り、

「歌うことが楽しいと思えないので」

 と、パソコンの画面を見つめたままで答えた。

 それからしばらく待ってみても、特にこれと言った反応はなかった。だから、カバンからゲームのデータを入れた記憶媒体を取り出しつつ、今度は僕から彼女に訊いたわけだ。

「先輩も行かなかったんですね」

 正直言って消したい記憶の一つだよ。すぐに美咲は呆れ交じりに間違いを指摘した。

「あなたは、と言ったでしょう?私は呼ばれてもいないし、そもそもやることがあるから誘われても行けないわ」

 そう、あの頃の僕はまだ凡人だったと言う話さ。それでも言葉を重ねることを止めなかったのは、今の能島と似ているかもしれないな。ただ僕の場合は、葉山美咲に会話を誘導されたという意味での盲目的なわけだが…。まぁいい、話を進めよう。

 僕は指摘された点を反省しながらも、美咲の言った『やること』について、ゲームをセッティングする間の暇つぶし程度に、と考え訊ねた。

「そういえば先輩は、ずっと何をしてるんですか?」

 一瞬、キーボードを叩く音が止み、すぐに再開されたタイピング音と共に返事が来る。

「いじめた人間を裁くシステムの構築、それの下準備かしらね」

 その言葉に僕は手を止めた。美咲の友人をいじめていた人間が、まだ残っていると思い動揺したからだ。

 まだ残っているのなら、人を裁くためのシステム構築の下準備なんて話は、大勢でならまだしも二人きりでするもんじゃない。その事が裁く対象の知るところとなれば、少なからず影響が出る。もしそうなった場合、話した理由がなんであれ、二人きりというのは出来過ぎたホラー映画のシチュエーションそのものだ。と、美咲からされた間違い指摘の反省もあってそんな風に深く考えた僕は、恐る恐る画面から彼女の方へ身体を回し振り向く形で視線を移した。

 だが、計算式を間違えば、答えも違うものになる。だから僕の視線に対する美咲の返答は、否定から入った。

「違うわ、友人をいじめた人達は、不幸な偶然で同じ日に全員死んだ。だからこれは、今までをどうにかするのではなくて、これからを変えるため…。あなたはバーチャルリアリティって知ってるかしら?」

 僕が無言で頷くと、彼女は「それなら楽で良いわ」と言って、話し始めた。

「バーチャルリアリティ。仮想現実って言うのは体感が出来る物だけど、私が目指しているのはその先の仮想世界。そこでは経験する事が出来るわ。そして経験は記憶として記録され、人格に影響を与える。

 私は、唯一の友人をいじめ死に追いやった人達だけを許せないわけじゃない。私が許せないのは、罪を償わせようとしないシステムよ。だから、それに代わる適当な物。つまりは仮想世界を作ろうと思っているわ」

 正直、その時の僕は美咲が言ってることのスケールの大きさに言葉を失った。まだ子供と言っても差し支えない人間の夢物語に聞こえたわけだ。

 それに、もし実現したとしても、ルール的に問題があるんじゃないか?と、考えもした。学も気にしていた倫理的問題をだ。

 ただ、その時の僕を納得させるに十分な言葉を、美咲は用意していた。

「人格に影響を与える行為が倫理的に問題がある。そう言いたいのかしらね?だったら、刑務所や少年院だって同じこと…。更生と銘打って規則正しい生活や労働で考えを改めさせる。それも立派な洗脳だわ。

 それに比べて私の考える仮想世界のあり方は、環境によって心を正すことにある。良い事をすれば感謝され、悪いことをすれば叱ってくれる。そんな友人や大人に囲まれた優しい世界…。少なくとも、刑務所より広いわ」

 それは屁理屈にも聞こえるが、同時に理想像でもある。それを言い切った彼女に、僕は思わず訊いていた。

「そんな物を…作れるんですか?」

 そしたらパソコンの画面に視線を向けたまま笑みを浮かべて返事をくれたよ。

「想像が出来るなら、実現出来ない事は無いわ」

 その言葉が僕にとっての出発点だった。だが、話を切り出すまでには沈黙と少々の雑談を挿む必要があったんだ。理由は気恥ずかしさで、内容は天才と凡人についてだよ。

 結局、僕が本題を口に出来たのは午後五時半を過ぎてから。パソコンをシャットダウンさせ、帰り支度を済ませた美咲を呼び止める形でだった。

「あの!…僕にも、手伝えますか?」

 中学の三年間でも、高校の中間考査でも、決して良い成績を収められなかった僕には、精一杯の提案で。悪くない返事を期待したお願いだった。

 僕の言葉で立ち止まった美咲は、背を向けたまま答えた。

「ごめんなさい。今のあなたは必要ないわ」

 言葉の始めで、肩が落ちるほどのショックを受けたのが原因だろうな。約一時間で反省は活かされなくなっていた。

 それでも美咲は呆れた素振りを見せず振り向くと、薄く口元に笑みを浮かべたような表情で言った。

「でも、ありがとう。期待してるわ」

 そして彼女は部室の鍵と一緒に、スティック状の記憶媒体を近くの机に置くと、部屋を出て行った。まぁ僕がそれに気づいたのは十分後、意気消沈と言っても差し支えない状態のまま帰途に着こうとしたときだったけどな。

 それで家に帰って中身を確認したらだ。テキストファイルと自作の練習用ソフトウェアが複数収められていたってわけだ。

 その年の夏休み、僕は人生で二番目に孤独な日々を過ごしたよ。

 で、そもそも、どうして親しくもない人間に葉山美咲はそんな話をしたのか…と言いたいんだろ?後々だが、僕も同じ事を考えて理由を尋ねた。そしたら彼女は顔を隠すように視線を逸らして言ったんだ。

「私だって、自分のやっていることに客観的な意見や評価が欲しくなる事もあるわ」

 だとさ。まぁ美咲もそういう所は、『それなりに普通の人間』だったんだ。

 さて、美咲と話し、僕にとっての始点となった日から一年と半年ほどが過ぎた頃だ。紆余曲折と言うのは僕の感想だが、美咲にしてみれば、これほど真っ直ぐな道も珍しかっただろうと思える日々があって、迎えた一月後半の土曜日だった。

 昼過ぎ、僕は彼女と夕飯の買出しに近場のスーパーへ足を運んだ。もちろん彼女の家の近くにあるスーパーへ、だ。

 半年ほど前から、彼女の両親が家を空ける土日を使って、勉強会というか作戦会議というか、仮想世界をシステムとして完璧な物にする為の話し合いを葉山邸でしていた。

 ただ、別に葉山邸でやる必要も無ければ、泊り込みでやる必要もこれと言って無い。単純に美咲は両親への当てつけに、僕を使っていたんだ。

 その事を僕は分かっていた。分かっていたから彼女の反抗に加担した。

 美咲は初めて僕を泊まり込みの話し合いへ誘う前置きに、こんな事を話してくれた。

 小学三年生までは完璧超人をやっていた。五段階評価を五で染め上げ、宿題やテストで百点以外を取ったことが無かった。だけど、四年生からはオール三で、テストも六十点と七十点を行ったり来たり…。良い成績を収めればその分だけ期待され、やれることの幅を狭めることになったから、と。つまりは好きなことをやる時間より、塾や習い事に親が力を入れたがった結果だ、と言っていたよ。

 その事への反逆が僕を招いたお泊り会なら、可愛いものだ。そう考えていた。

 それが僕の紆余曲折と感じる思考の限界で。それは彼女の考える直線的計画とのズレを引き起こし、見え方に違いをもたらしたわけだ。可愛さなんて一欠けらも無く、おぞましさだけが牙をむいた計画だったのにな。

 買出しを終え、葉山邸の玄関を開けた先で待っていたのは、葉山美咲の父親だった。僕は気まずさに逃げ道を探したが、美咲は正面から父親と対峙した。

 ここまで話しておいて悪いが、話の内容は殆ど覚えていない。幾つかの言葉を交わした後で父親が美咲の頬目掛けて右手を振り下ろし、その勢いで彼女は靴箱に大きな音をたてて倒れこんだ。そこで初めて、僕の頭も体も動いたからだ。

 もう学には、この結末が解っているだろ?そうだ、僕が二人の間に入った直後だった。葉山美咲の父親は、葉山美咲の母親に、背中から包丁でめった刺しにされて殺された。

 実際、動機は山ほどあったんだ。それらを簡単にまとめてしまえば、浮気と家庭内暴力の二つになるんだが、母親としては内訳の『娘へ向けられる暴力』が一番の理由だった、と警察には話したらしい。ニュースではそう言ってた。

 そんな母親も、しばらくして獄中で自殺した。こうして美咲は両親をほぼ同時に亡くし、失意の中、大学生活を始める事になったんだ…なんて言ったら、たぶん彼女は笑う筈だ。

 警察で事情を訊かれた次の日。美咲と会った際に、

「もっと早く割って入れば…」

 と、悔いた僕に真顔で、

「少し会わない間に、頭でもぶつけたのかしら?」

 そう応えたからな。

 そして美咲は言葉を続けるんだ。

「母が父を殺したのは偶然じゃないわ。必然よ」

 と。

「つまり、バタフライエフェクトでも風が吹けば桶屋でも、始点と終点があるの。その間を調べ、分析し、計算式を立てさえすれば、ある程度の必然は作り出せるわ。

 それに人の意識を殺意へ向けることは意外と簡単よ。難しいのはストッパーを外すことね。でも、それさえ出来れば、後は勝手に殺してくれるわ」

 そこで、『もしかして』と考えてしまった時点で、僕は随分と彼女に染められていたわけだ。畏怖を感じることよりも先に、疑問に思ったんだからな。

「あの三人が一家心中で死んだのも必然だったのか?…でも、美咲は不幸な偶然だと言ってただろ?」

「そうね、『不幸な偶然で同じ日に』とは、言ったわ」

 その言葉に僕は笑うしかなかったよ。彼女を高く見積もってたつもりだったのに、それでも足りてなかったんだ。美咲は、その時点で既に僕の中では天才という認識を抱かせていた。彼女は否定してたが、な。

 そして悲劇の皮を被った復讐劇を、美咲が娯楽のような感覚で演じきってから二ヶ月と経たずに彼女は高校を卒業し、仮想世界を社会に組み込む為のシステム構築を突き詰める目的で大学に進学した。

 それからは毎日のように言葉を交わすことがなくなり、休みの日に会っては近況報告と受験勉強を見てもらうようになった。美咲の方は仮想世界を創る過程で必要性を感じたのか記憶について一人研究していたみたいだが、それも半年ほどで終わったらしく、大学の教授に手柄をさり気なく譲渡したと言っていた。

「一人で全てをこなしてしまう人間を、大衆は好まないわ」

 と、理由もつけてな。

 そうして何事も無く一年が過ぎようとしていた、ある日。彼女が予告も無しに僕の実家を訪ねてきた。両親は驚いていたよ。もちろん僕も驚いた。だが、この頃になると彼女の行動に無意味な事は無いと分かっていたので、理由は尋ねず自分の部屋へ案内した。

 そして僕に割り当てられた部屋のドアを後手に閉じた美咲は、軽く伸びをしてベッドに寝転がると、天井を見つめて言った。

「私が思っていた以上に、この国は腐っていて。対処療法は、『悪事を隠し通せれば問題にならない』と言う考えを育てる温床となっているわ。だから、今まで考えてきた以上の事を成さなければいけない…」

「革命でも起こす気か?」

 半分冗談でそう言ったが、彼女は笑うでもなく呆れるでもなく息を吐くように、天井へ視線を向けたまま言葉を口にした。

「革命で済めばいいけど…。

 ねぇ、最近よく若い人たちの執着が薄れたって話を耳にするでしょう?車を持たなくなっただとか、結婚を望まなくなっただとか。過去に当たり前だと思っていた事への関心が薄れているわ。

 けどそれも当然のこと。得られるお金と時間のバランスが悪いのよ。働けば時間の代わりにお金が手に入り、働かなければ時間が手に入る代わりにお金は得られない。会社という組織に所属するとそのバランスを取れなくなるのが、この国にある会社の基本的な性質。もちろんフリーランスとして個人で仕事を持てれば良いけれど、集団を好む国の体質的に価値を低く見積もられることも少なくないわ。

 本当なら、個人でやっていける程の才能には、それだけの代価を支払う必要があるのにも関わらずにね。

 つまり、この国では個人よりも集団が尊重され、例え秀でた才能を持っていたとしても、協調性が無ければ価値を否定される。凡人が群れる事を好み、結果的に天才が孤独になるのは、歴史的に見てみれば分かることなのに、よ?」

「それはしようがない。人間は他人の才能に嫉妬する生き物だからな」

 そう僕が口を挿み彼女は小さく頷くと、身体を起こしベッドに腰掛けて、僕の足元に視線を落とし再開した。

「確かにそうね。だから才能ある人間でも、早くは出世できない。まぁそれは年功序列を良しとする人間が減らない限り、変わらないと思うわ。

 年齢なんて、誰もが努力も無しに重ねられる物だというのに、それを基準とする馬鹿馬鹿しい時代遅れのシステムを使っている限りは…。

 覚えているかしら?初めて私があなたと二人きりで言葉を交わした時の事。天才と凡人について話したわ」

「あぁ、覚えてる。『天才と凡人は確かに存在している。でも、一番重要なのは自分の立ち位置を正しく認識すること。それが出来れば文句は無い』。

 そう言った美咲に僕は、『じゃあ、先輩は天才だと?』と聞き返した」

「それに私は、『いいえ』と答えたわ。そして『まだ天才じゃない。これから天才になるの。実績の無い肩書きに意味はないのよ』と、続けた。

 でも、他人を天才か凡人かで区別してはいけないわ。それは差別になる。ただ、天才であること、凡人であることを自分自身に当てはめて、理解し自覚しておくことは誰もがするべきだわ。嫉妬せず、尊敬する為にも」

 この時には何となく、彼女の言いたいことが分かっていた。だから、訊ねた。

「それで美咲は、どんなシステムに変えるつもりなんだ?」

 予想通り、返答はすぐにくる。

「そうね、簡単に言ってしまえば、対等な関係かしら?」

「対等?」

「そう、本来なら雇用する側もされる側も立場は対等なものだわ。どちらが欠けても会社というシステムは成り立たなくなる。

 会社はお金儲けをする為のものではなく、一人では出来ないことを実現する為のシステムでしかないの。でも、慈善活動でない以上は、儲けが出なければ容易に破綻する精密機械のような構造体。その一部に無理を強いれば、壊れるのも当然ね。

 社員は奴隷じゃないわ。だから、仕事に見合った給料を出す事も、会社を運営していく為の利益を出す事も、才ある者の待遇を良くする事も、上に立つ者の義務であり責任よ」

「つまり会社を運営するなら、良いとこ取りのシステムを完成させてからにしろ、と言う訳だ。それは綺麗事じゃないのか?そう僕は思うが…」

 大した間を空けずに言い放った僕の正論に、美咲は顔を上げて視線を合わせると、ふっ、と笑って言葉を返してきた。

「綺麗事を綺麗事だと言ってしまう世の中なんて、私は嫌だわ。

 ルールは目安ではなく規律よ。それを『正しさだけではやっていけない』と、暗黙の了解として美徳や当然の振る舞いで破ってしまっていては、法治国家が聞いて呆れるわ」

 彼女は立ち上がり更に続ける。

「だから、私は優しい独裁者になろうと思うの。誰かが損な役回りを担う事でしか形を保てない社会を正す為に。人々が対等に語らい、他人に嫉妬ではなく尊敬を抱き、協調性が無くても協力してくれる国を創る為に」

「それを人は余計なお世話と言うだろうさ。それに、凡人には優しくなさそうな独裁者だ」

「私は平等が良いものだと思わないわ、突出した者を否定することに繋がるから。

もちろん差別に対しての平等は主張するべきだわ。だけど、才能の有無に対しての平等は凡人の我侭でしかないのよ?

 それに私は、天才も凡人も対等に語らい、より良いものを作り出す社会の方が幸せだと思うわ」

「だとしても、美咲の言っていることは対等を売りに、美徳や当然の振る舞いとして、規律を自ら破ることになるんじゃないか?」

 僕は言葉を返してくれることを期待して、そう言った。いや、確信を持って…の方が正しい。葉山美咲が言葉を口にする以上、隙は意図して作り出されたもの以外はありえないからだ。故に彼女は一呼吸の間を空けて、答えた。

「そのとおり…でも、言ったでしょう?優しい独裁者になる、と。だからよ、独裁者を名乗るのは…。だって理想は一人一人が持っている物、自分勝手の塊なのよ。それを叶える事が出来るのは、独裁者だけだわ」

 それに対して、「どうやって?」とは訊けなかった。既に彼女は部屋を出ようとしていたからだ。代わりに、「送ってく」と言ったが、首を横に振られたよ。

「あなたは充分に熟したわ。誕生日には連絡するから安心して。それと…十年後くらいに備えて研究は進めておいてくれると助かるわ」

 それから彼女は一度振り向いて見せると、今までにない綺麗な笑みを浮かべて、

「それじゃあ、またね」

 そう言ってから部屋を出て行った。

 それを引き止めることは出来なかったよ。結果についての説明ばかりをしていた今までとは違って、十年という明確な着地点を示したからな。

 それ以来、美咲とは年に一度だけ、僕の誕生日に電話でお互いの近況を少し話す程度の関係になったよ。それも最近見た映画の話だとか、最近見つけた美味しい物の話だとか、付き合ってる人の愚痴とかを溢す関係だ。

 その際、お互いの進捗状況については話さなかった。僕は美咲の才能を信頼していたし、彼女いわく、経過は結果に感動や歓声を上乗せする為の旨味成分でしかない、らしいから。必要は無いと判断したんだろうな。

 さて、続きは改札を出てからにしよう。僕の話も計画も、そろそろ終着点だ。

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