四章 3

 午後七時も近くなり、勝手口から外へ出た俺は、薄暗さに夜の訪れを感じた。

 目の前の塀を登り、隣のアパートの通路へと音をなるべく立てないよう慎重に降りる。運が良いことに誰も居らず、怪しまれるようなことはなかった。

 そのまま、俺は何食わぬ顔で道路へと出る。日が暮れ始めて、辺りは静けさと暗闇に包まれつつあったが、相変わらず地面からは纏わり付くような気持ちの悪い熱を感じた。

「だぼっとしたTシャツは良いが、丈の長いズボンは失敗だったか」

 と、小声で反省する。

 まぁ、だからと言って、他に選択肢は無かったのだが。

 駅に向かうのとは逆の方向へ五分ほど歩いた。公園からは遠ざかり、片側二車線の広い通りが見えてくる。そこで携帯電話が震え、着信を知らせた。

 携帯電話を開いてみると、番号の上には「とんだナンパ野郎」と表示されている。

「これで登録してるのか」

 ぼやきつつも電話に出た。

『登録していた名前が嬉しくて出るのが遅れたのかしらね?ま、それは良いとして、とりあえず捕まえたわ』

 のっけから聞こえてきた報告ついでの冗談はさて置き、ちゃんとやってくれたようだ。

『と言っても、話しかけただけだけど』

「そこに居るんだろ?」

『えぇ』

「なら、公園で落ち合おう」

 そう言いながら踵を返す。ただ、耳に当てたままの携帯電話からは少しの間、返事が無かった。たぶん、向こうで話をしているのだろう。微かにそんな声が聞こえた。

 それでも十秒ほどで返事が来る。

『それで問題ないわ』

 どうやら話がついたらしい。

『だけど、走ってきなさい?』

 と、代わりにオプションが付く事になったようだ。

 はいはい。と、投げやりに返したが、それと同時に通話が切れたので、恐らく聞こえていないだろう。

 はぁー。そう深く息を吐いて、俺は走り出した。


「意外と早かったわね」

 二分も掛からず、既に子供たちが帰り静けさに包まれた公園へと着いた俺に、そんな言葉が送られた。正直、嬉しくはない。

「はぁ、はぁ、はぁ」

 息が上がって、苦しささえ感じる。久しぶりに走ったからだろう。それも全速力で、だ。短距離とは言え馬鹿なことをしたな、と思う。

「別に走る必要は無かったんじゃない?そんなに距離があったわけでもあるまいし」

 息を整えながら声のした方を見る。そこには拘束こそされていないが、捕まえてくれと言っておいた人物が立っていた。

「まぁ、うん、確かに…俺も、そう思う。能島先生の言うとおりだ」

 切れ切れに言葉を返す。そして殆ど夜に染まりきった空を見上げ、大きく息を吸って、吐いた。それから吐いた分だけ再度、肺に空気を取り入れて前を向く。まだ少し鼓動は早いが、話を先へ進める為に、俺を戯れで走らせた張本人に確認を取る。

「それで、先生は公園の方から来て葉山邸に立ち寄ることをせず、俺が歩く道へと入ったんだな?」

「えぇ、そうよ」

「手には何も持たずに、だな?」

「えぇ、何も」

 そうか。と、俺は肯定に対して返事をすると、『これで断片は十分だろう』と、声には出さず三度頷いて、薄く笑みを浮かべた。それから本題に入る。

「どこから話したところで、全てを説明する事に変わりはないだろう。だとすれば、結論から言ってしまったとしても、問題は無いわけだ。能島先生。ここは、この場所は、簡単に言ってしまえば現実とは呼べない場所だな?」

 言葉を切り、返答を待ちつつ能島先生の表情を窺う。特にこれと言って目立った変化は見られなかった。

 そして答えてくれる気がしない。妙に落ちついた様子で、だんまりを決め込む。まずは証拠を提示しろ言っているようだった。

 それは俺の隣にいる美咲も同じで、声を発しようとしない。ただ、こちらの場合は、単純に口出しする気がないだけだろう。

 まぁ、いいか。と、俺は断片を広げて一つ一つを繋ぎ始めた。

「そうだな、黒頭巾から始めよう。悪人さらいの黒頭巾は、都市伝説や噂話の類の物だ。一応どんな話か説明すると、七回の悪事を大小関わらず働けば、影から黒い衣服に黒の頭巾を身に着けた大男に連れ去られる。そして連れ去られた人間は心を入れ替え、善人になって戻ってくる。簡単に説明すると俺が知っていたのは、こんな感じだ。結末があるせいか、抑止力の意味を持つ民話のようにも聞こえるな。

 ただ、現在では大男が小さな女の子に。結末は悪事が無かったことになったりと変化があるように、俺が聞いた以前は結末すらなかったのかも知れない。悪人が連れ去られるだけの噂話だ」

 そこまで言って、俺は隣に居る美咲から三歩離れる。二人を視界に入れ、そして続けた。

「もう一つ話しておくべき事がある。黒頭巾とは別で、つい最近聞いた話だ。それは良く晴れた満月の見える夜道を、一人で歩いているところから始まる。

 家に帰るために通る場所は人気の無い夜道で、一定の間隔で街灯が照らしていた。歩いていると街灯の下に、黒い服に身を包んだ男が立っていることに気づく。異質な者のようにも感じたが、あまり深く気にすることは無く、立ち止まることもせずに、前を通り過ぎた。そして少し離れた街灯の下にも先程と同じ男が立っていることに驚く。しかも今度は二人だ。

 それでも家に帰るために前を通り、先を急ぐ。次の街灯にも男が居た事で恐怖を感じ、振り返ることも出来ず走り出した。なるべく街灯の無い道を探しながらだ。

 だが、街灯の無い道なんてものは殆どない。気がつけば家に着いていた。そして家の前には十人近くの黒い服の男が立っていた。

 男達に声を掛けようと意を決した時、瞬きをした刹那だった。耳元で囁やかれる。

『長い夢を見て、目が覚めれば自分ではない誰かになっている』、と。

 目蓋を上げると男達は居なくなっていた。が、恐怖は消えず。何も食べずに自室に篭って、眠らないように努力をした。でも、努力も虚しく気がつかない内に眠気に負けて夢の中。夜が明け、昨日の様子を心配した家族が起こしに行くと、知らない人が挨拶を返した。そこで話は終わる。

 これは葉山美咲が藁谷真花から聞いた話だ。そして俺はこの話を聞いた次の日、藁谷真花に出会い。この話が藁谷真花の創作だと知り、藁谷真花が十年ほど前に経験したらしい実体験が元になったことを知ったんだ。それから藁谷真花はこうも言っていた。黒頭巾と自分の話は同じものだ、と」

 既に呼吸も鼓動も整っている。だが、慣れない事をしているわけでもないのに、やけに緊張を感じていた。この説明順で間違いはないか?言葉を重ねながらも、次話すことに綻びが生じないよう注意しているからだろう。非常に疲れる。

 今まで、そういうことが無かったわけじゃない。つい一週間ほど前にも、霧海さんや彩音ちゃんの事で自分の考えを説明した。ただ、今までは例え俺が間違えたとしても、何とかなる問題だった。一つの、一人の考えを語る。それだけだったからだ。

 でも、今回は違う。と、少なくとも俺は、そう考えている。

 だから、喉の渇きを覚えようとも、慎重に言葉を口にしていく。

「俺はつい最近まで藁谷真花が黒頭巾を元に話を創ったのだと思っていた。でも、それは違う。本当は藁谷真花の話が黒頭巾の元になっていたんだ」

「どういうこと?」

 と、能島先生が口を挿む。

「正確には、藁谷真花が原型を作ったわけじゃない。藁谷真花と似た経験をした人間が創った話に尾ひれが付いて、今の黒頭巾の話が出来上がったんだよ。つまり、藁谷真花以外にも同じような経験をした人間がいるって事だ。まぁ、それが何処の誰かは知らんがな」

「根拠は?」

 今度は美咲からだった。

 俺は彼女の方を見て返す。

「しいて言うならストーリー性だろうな」

「ストーリー性?」

 わざとらしく首をかしげた彼女に対して、頷き答える。

「そうだ。前者と比べて後者にはストーリー性がある。登場人物の心情が一番わかり易い箇所だろう。それに俺は藁谷真花から葉山美咲に伝わったものを聞いて、話してみても大幅に省略は出来なかった。

 本来、都市伝説や噂話と言うものは、シンプルに話しやすく出来ているものだ。で、なければ、噂話には不向きで都市伝説へと到るほどに、広がりは見せないだろう。それに噂話と言うのは、広がっていく過程でシンプルになっていくものだ。

 故に後者は原型に近いもので、似通った部分のある前者が後者のシンプルに削り取られた姿になったんだと、そう思う。もちろん藁谷真花の『同一の話』って言葉を信じるのなら、という条件付きだが」

 そんな俺の言葉に肯定も否定もなかったが、疑問だけは返ってきた。

「何故、そこまで藁谷真花を信用できるの?ただ一度会っただけの人間を」

 能島先生の言葉はもっともで、俺の想定通りに事が運んでいると頬が緩みそうになる。それを隠すように、不自然にならないよう俯き、それから考えで頭を満たし、話を次へ進める為に真面目な表情を浮かべて、顔を上げた。

「簡単に言ってしまえば、藁谷真花が消えたから…そうだな、都市伝説から話を変えよう。

 これは藁谷真花が消えたと判った日に、こいつともファミレスで話したことなんだが。俺と藁谷真花は出会ってはいけなかった。もしくは深く関係を築いてはいけなかった。と、藁谷真花の起こしたアクションに対して能島先生が見せたリアクションから、そんな結論に到ったんだ。

 もちろん、その後で俺が藁谷真花の事を覚えていると分かっても、驚かなかった能島先生の反応で、確信へと変わったよ。俺は藁谷真花と立ち位置を同じとする黒頭巾にマークされた人間で。たぶん、逆に俺が消えていても、藁谷真花は覚えていたはずだ、と。だから、彼女の残した言葉は信用に値する」

 そこまで言ったところで能島先生は「だからか」と、呟き納得したようだった。

「そう、だから俺はさっき裏から出て、こいつに先生を捕まえさせた」

「どんなマーキングがされているのか、確かめるために、ね?」

 頷き、続ける。

「その為にこいつの服を借りたんだ。持ち物全てを預けてな」

「そして、彼のふりをするために私が身に着けた。ただ、流石に下着だけはカバンに入れさせて貰ったわ」

 そう美咲は身に着けた俺のショルダーバックをポンッと叩きながら言った。

 提案した時はあからさまに嫌そうな顔で返事をしたくせに、既に吹っ切れたのか、どこか楽しそうに見える。たぶんだが、俺の方が下着を貸して貰えなかったせいで、所謂ノーパンなのも含めての笑みだろう。酷い奴だ。

「道理で服のセンスが男らしくないと思った」

 その言葉に改めて自分の格好を見下ろし。確かに、と苦笑した。

「それはそうと、どうして現実じゃないと思うの?例え噂話が本当のことだとしても、それだけじゃ現実ではないという結論には到らないはずよね?」

「まぁ、確かに俺も黒頭巾がどこかへと連れ去るためのマーキング、そう考えていたよ。つい一週間前までは、な」

 一週間前…と、能島先生は俺の言葉を繰り返し、「富士山で…ってこと?」と、すぐに続けて、そう聞き返された。

 俺は首を横に振り、「少し違う」と答える。

「確かに俺は一週間前、バイトの同僚と富士山に旅行へ行っていた。現地でこいつや、能島先生にも会ったし、色々と助かったよ。

 で、だ。その旅行の帰りの電車で、前日よく眠れなかった事と朝が早かった事とが重なり、俺は同僚と一緒に寝過ごしてしまった。富士山のある駅を出たのが九時三十五分頃で、到着したのが十一時四十五分頃だ。駅から駅の電車での所要時間は約一時間半。予定より少し遅れた。それで片付いてしまうことだ。実際、行きの電車では動物との接触で遅れが出たからな。だが、それは富士山から電車に乗って着くはずのホームに降り立った場合に限る。

 一週間前、俺は同僚と一緒に富士山から戻ってきて、行きに電車へ乗り込んだホームと同じホームに降り立ったんだ」

 足元に視線を落とす。体重を乗せる足を変え、砂利の敷き詰められた地面を軽く線を描くように爪先でなぞり、次の言葉を用意して口に出した。

「この大都市東京には幾つかの路線があるが、その中には県境を跨ぐものもある。俺が富士山旅行の行き帰りに乗った電車も、それに含まれるわけだ。そして調べてみれば、俺の住むアパートや、能島先生の暮らしているマンションの最寄り駅から、県境近くの駅までの所要時間は約二十分だった。もちろん県境を越えても、すぐに電車が引き返したりはしない。駅は県境を越えた先にも十駅以上あるからな」

 足で、それもその場を動かず描こうとした事もあり、円で囲っても何だか分からないものになってしまった。故に足で消し、言葉にする。

「俺は少なくとも、ここ十年くらいは大都市東京から出たという記憶がない。別に出る必要を感じなかったからだ。実家も祖父母の家も大都市東京にある。更には、つい最近まで雑誌や新聞は愚か、テレビですら東京以外の出来事や観光地を映すことが殆どなかった。その事に疑問を持つこともだ。

 不自由が無かったから、そんなところだろう。気づかぬ内にこたつの中だ。出るに出られない場所だったわけだな。ここ大都市東京は」

「確かに……なるほどね」

 と、言いつつ能島先生は三度頷き、同意してくれる。

 それを見て、これ以上説明しなくても良いのだろうと感じ、口を閉ざすことも考えたが。それでも俺は始めに言った結論へと繋げるため、説明する事を放棄はしなかった。

「一応、簡易でだが確かめることもした。昨日、カバンだけを網棚に残して電車を降りても戻ってくる事を、な。もちろん県境手前の実質的終着駅とを往復する時間ほどしか掛からなかったよ」

 フッと笑みを浮かべて美咲は言う。

「ちゃんと確認したのね。私が何度も指摘したお陰かしら?」

「まぁな。でも、本当は自分自身で確かめたかったんだ。ただ、流石に昨日の時点で気づいていると、悟られるような事はしたくなかったからな。カバンで試した、と言うわけだ」

 まぁ、マーキングがどのくらいの範囲と精度で機能するのか分からない以上、それが最善だったというだけの話だが。

「それともう一つ。ここが現実じゃないとして、その性質はファンタジー的な異世界か、電脳的な仮想世界か、もしくは現実の一部を切り取った場所なのか。それについても当たりがついてる。仮想世界…だろ?」

 肯定も否定も無く、何故とも訊かれることはなかった。故に何故ならと付け加える。

「何故なら、記憶消去を隔絶されているとは言え、十分に広い空間で行い。尚且つ、消去した人物の痕跡も残らずなんて、データを弄る以外に面倒が過ぎる。が、何でもありのファンタジーを否定するには不十分。ただし、それは俺の記憶力が否定してくれる。

 そう。ただ一度の言動すら記憶している俺の記憶力を、全ての記憶と痕跡消去した事象と重ねれば、ここを電脳的仮想空間と看破するのは容易い事だ。

 加えて何も耳に着けず何も手に持たず追跡できるなんて、思いつくのはゲーム画面に表示されるマップくらいだしな。たぶん、それと似たようなものだろう」

 これで能島先生に対して、大体の説明が終わった。現段階で不十分なところは無かったと思う。少なくとも俺が今日まで考えていたことは話せたはずだ。

「流石ね。純也君の気に入っていた君が、彼の理想郷を暴くなんて」

「理想郷?」

 と、思わず聞き返していた。悪人の更生施設だと思っていたからだ。

「そう、理想郷。普段は現実に戻ってから軽く説明する事になってるんだけど、そこまで解っていたら今でも後でも変わらないでしょ」

 その言葉で何となく、法律だとか決まり事だとか、そう言ったものを破ろうとしているんだな。と、察しがついた。

「ここは、『仮想矯正プログラム・ユートピア』と呼ばれる。杉村純也が作り出した仮想世界なのよ」

「きょうせい?…更生ではなくてか?」

「更生じゃなくて矯正よ。歯並びを無理やり整えるのと一緒で、罪を犯した人間に記憶の塗りつぶしを行い、人格を無理やり書き換える。と言っても、長い夢を見ているようなもの。ここの時間で十年くらいまで人生をやり直させるだけなんだけど。まぁ、その為の仮想空間だから仮想矯正。ちなみに死刑と同じ重さの刑なの。新たな選択肢ってことよ」

 記憶を消して人生をやり直す。それで別人になるって訳だ。納得すると同時に、別の事実に、ははは、と渇いた笑いが自然と口からこぼれる。

「つまり俺は現実で、死刑と同等の罪を犯したわけだ…」

 なってこった。と続けて、頭を抱えたい衝動にかられた。

 ある程度、覚悟はしていた。それなりに重い罪だろうとも思ってはいたのだ。だが、それが死刑に相当するとなると、簡単に受け入れることは流石に出来そうにない。

「そうね。君は決して許してはいけない罪を犯した」

 能島先生は追い討ちを掛けるようにそう言ったが。でも、と言葉を繋げた。

「そんな罪を犯した君は死んだの。そして他人に優しくあろうとする君として、人生を歩み直した。だから、打ちひしがれる必要は無い。大丈夫よ、君なら誰かを幸せにすることも出来る。と、私は思う」

 見事な飴と鞭、と言ったところだろう。一応、教師を名乗っているだけのことはある。ただ、それでも俺が納得するには不十分で、せいぜい鞭が飴と合わさり、千歳飴による打撃に変更されたに過ぎなかった。

「幾ら記憶を塗りつぶしたからと言って、罪は消えない。だから、せめて自分に出来る最善を。と言いたいが、別に自殺でもして自ら死刑を。なんて選択肢もあるんだろう?」

 その言葉に先生は一瞬表情を曇らせたが、

「そうね。そうしたくなったら、そうしてもいい。君の意思なら仕方のないことだから」

 淡々と渇いた返事をくれた。

 それである程度の覚悟が決まった。そして空気が重いから、と言うのが本音だが、ふと浮かんだ疑問を口にする。

「それはそうと、なんで死刑以外の選択肢が必要だったんだ?無期懲役でもいい筈だろう。単に収容しておく場所が足りなくなったからか?」

「それもあるけど、一番の理由は違うわね。品里君は理想郷に居るから疑問に感じづらいかもしれないけど、未成年は死刑に出来ないの。それがね、問題視され始めた」

 死刑に出来ないことを問題視?と、言葉にはしなかったが渦に飲まれるように思考が回る。未成年の死刑が国際法だったかなんかで出来ないことは聞いたことがあった。が、だからと言って態々コストの掛かりそうな選択肢を作る必要性は感じない。

「降参だ」

 話を早く先に進める為に、俺はあっさりと両手を上げて、そう言った。

 すると待っていてくれた能島先生は、意外そうな少し驚いたような表情を見せ、それからすぐに何かに納得したのか頷くと、黒板の前に立ち教鞭を執るように説明を始めた。

「簡単な話なんだけどね。子供だから責任は親にある。そう言ってきたことが通用しない時代になったの。虐めと呼ばれる問題が表面化してね、警察の介入が容易に出来るよう社会が変わった。変わらざるを得なかったの。

 まぁ、表面化した結果、虐めに対して子供だからと罪に問わない方が倫理的に問題だと考える人が増えたから当然よね。

 もちろんすぐにとはいかなかったけど、虐めは確実にその数を減らした。抑止力としての役割をしっかり果たしていた。けど、考えが甘かったのか、やり方を間違えていたのか。別の問題が十五年ほど経ったある日、突如として顔を出した。

 最初はね、ただ性質の悪い殺人事件だった。フリーターの男性が、同僚の女性を監禁して暴行を加え殺害した。当然ニュースにはなったけど、殆どの人が酷いことをするって思う程度だったし、私もその一人だった。特別騒ぎ立てるような事件ではない。と、そう思っていたの。それが一人の女子高校生によって認識できる歪みに変わるまでは」

「女子高校生?」

 と、返しつつ自然と視線が美咲へ奪われる。だが、それに答えたのは能島先生で、美咲は口を開くことは無かった。

「彼女は関係ないと思うけど…。そうね、年齢は同じ十七歳。確か、ハマミヤって苗字だったはず…。彼女のやっていた個人ブログのタイトルが浜を見る屋台で、「浜見屋」だったから間違いないと思う」

「ハマミヤだから浜見屋か…。ブログのタイトルとしてこれ以上ないってくらい良い出来だな」

 と、呟き。続けて、「で、名前は?」そう訊いた。

「わからない。と、言うよりは、そこまで詳しくは知らないの。その子が話題になる頃には、未成年って事で実名が伏せられていたし、それに私にとってそれほど興味の対象になる話じゃなかったから」

 俺は能島先生のそんな返答に頷き、「話の腰を折って悪かった」と、言って返す。すると、「別に気になる事、分からない事を訊くのは悪いことじゃないし、私としては話しやすくて助かる」そう更に返され、やはり良い先生だな。と、再認識させられた。

「それじゃあ、話を戻すね。フリーターによる殺人事件が報道されてから三日が経って、十七歳の女子高校生が更新していたブログ「浜見屋」に、その殺人を犯した男が十七歳の時、同級生への虐め及び殺人を理由に逮捕起訴され懲役刑で服役していたことが、当時の記事なども含めて載せられた。しかもやったことは同じ監禁、暴行、殺害の三点セット。

 そして、それだけならまだしも、まったく別の事件を起こした犯人も過去に虐めの加害者で逮捕歴があることまで書かれていた。その事が世間に知れ渡るまでに四日と掛からなかったの。『更生は善人の幻想だ』って世間では言われ始めた。私もそこまで事が大きくなってようやく感心を持ったの。

 それからは犯罪者への風当たりが一気に強くなった。法を破った奴に法で守られる資格は無いだとか、拷問に掛けて二度と過ちを起こす気を無くさせてから出所させろとか、世の中に返すなら手足を切り落としてからって声も上がってたのよ?」

「過激的な考えね。それじゃ解決にはならないわ」

 しばらく沈黙を続けて聴きに徹していた美咲が、俺に代わって口を挿んだ。

 それに少々能島先生は驚きを見せたが、すぐに言葉を再開する。

「そう、そのとおりで解決にはならない。それは国を動かしている人達にも分かっていた。でも、世論は日に日に声を大きくしていったの。たぶん、他の高齢化社会だったり、それに伴う社会保障の質の低下、相次ぐ企業の不正に政治家の不祥事。それとブラック企業だとかの過労死に関しての対策の遅れにも怒っていたんだと思う。そしてそれらも巻き込んで事が大きくなるのを見越して、政府は早い段階で手を打っていた」

「それがこの仮想矯正プログラムだった訳、か」

「えぇ、当時、記憶について研究していた私と、仮想世界を使って心の病にアプローチを掛けようとしていた純也君が呼ばれた。もちろん、私はまだ二十代も半ばを過ぎた頃。純也君も二十八歳になったばかりだった」

 何故?という疑問が当然のように浮かんだが、それを分かってか俺が口にするより先に能島先生の言葉が続いた。

「理由は分からない。私達に実績なんてものは皆無と言ってもいいほどに無かったの。でも、選ばれた。そして何処から湧いて出たのか尋ねたくなる様な多額の研究費用も渡されたの。そのお陰で人員確保も容易だったし、成果はすぐに出た。

 ある程度の基礎が出来上がっていたとは言え、純也君が想像以上の天才だった事を加味しても、たった五年で実用化にまでこぎつけたのは奇跡ね。そして一番の高い壁だった倫理的問題なども、度重なる再犯報道の結果、大多数の支持者によって踏み潰され、予定していたよりも早く施行された」

 五年で実用化にまで持っていったこともだが、倫理的問題視が踏み潰されたのが意外だと感じた。故に訊く。

「倫理的問題がそんな簡単に片付くものなのか?国内はよくても世界が黙ってない筈だ」

 俺の言葉にふっと笑って懐かしそうに能島先生は答える。

「その質問、私も純也君にしたことがある。周囲では研究していたこともあってか賛成派が多かったけど、親族からは大分反対されてたから。でね、そしたら彼はこう答えたの。『上の提案に多数の反対意見が出ると潰される可能性はあるが、多数の賛成の場合は基本的に潰される可能性がない。何故なら、上の提案への賛成に対して反対を掲げるのは、賛成と立ち位置を同じくする人たちだからだ。

 特に今回の場合は、怒りを燃料に事が進んだからな。怒りっていうのは悲しみよりも簡単に伝染するし、当然の結果だろ。

 そして世界からと言うと語弊がある。一部の他国からと言うべきだな。故に、その倫理的問題は大した事じゃない。年老いると大きな変化を嫌う傾向が強くなる。それは人も国も同じだ。現に日本だって見せかけの安定にすがって老いるばかり…。若者だけが明日を夢見る生き物なんだよ、人類って奴は。

 それに、だ。戦争に負けたときも、負けるまでも、それと今に到るまでも、間違いを間違いだと認めることを苦手とし、責任を押し付け合う人間に、走り出した列車を止めることはできない。既に研究は進み、法整備も殆ど完了している。終着駅はすぐそこさ』、だってね」

 純也らしいな。と、俺も軽く笑った。

「それに、仮想矯正プログラムの完成と時を同じくして起きた、『ハマミヤ革命』って今では呼ばれてる出来事が倫理的問題を霞ませたんだと、私は思ってる」

「またハマミヤか?」

「そうね。たぶん、当時を知る人たちも同じ事を思っていた。今でこそ革命なんて言われてるけど、あの頃は大罪人とか売女って酷い言われようだったの。確かにね、日本と言う国の社会基盤が彼女のブログに掲載された膨大なデータを詰め込んだ圧縮ファイルによって一度は崩壊しかけたから、仕方がないことかもしれないけど。やっぱり言いすぎだったし、やり過ぎだった」

 言葉を切り、「はぁ」と、深くため息を吐いて、能島先生は夜空を短く見上げた後、俺に視線を戻すことなく地面に落とし、言葉にすることを再開した。

「日本にある企業のね、七割だか八割の脱税、横領、癒着、残業代の未払いに到るまで、ありとあらゆる不正が音声や内部文書込みで出てきたのよ。それはてんやわんやなんて、言えるものじゃなかった。その内五割の社長や役員が首を吊るはめになる地獄絵図。

 それを一人の地方に住む女性がやった。なんてありえない話。でも、一部の今まで割を食ってた労働者からの無責任な支持で、彼女の功績にされてしまった。その二ヵ月後にハマミヤさんは自ら死を選んだ。二度、通り魔に殺されかけた末の自殺だった」

 顔を上げ、視線を再度俺に向けた先生は、「でもね」と言って更に続けた。

「ハマミヤ革命によって多くの労働者が救われたことは事実なの。幾ら法律で縛っていても監視体制が甘かった故にルールとして機能していなかったものをどうにかしてしまった。

 あれ以来、不正がどこから漏れ出るか分からない恐怖が抑止力として機能してくれているし、以前からあった内部告発の仕組みも更に見直されて、良くなった。

だから、今では国内はもちろん外国の人たちからもハマミヤさんは英雄って言われてるのよ」

 そこで仮想矯正プログラムを言葉によって一つの塔のように積み重ね終えたのか、能島先生は授業の終了を告げるように、パンっと胸の前で手と手を合わせて鳴らすと、笑顔を浮かべて言った。

「これでおしまい!いくら仮想矯正施設の所長でもね。これ以上は話せない。君、話が上手いから、うっかり機密事項を喋りそうになるしね。…おしまい」

 言いつつ一歩また一歩と、すっかりと暗くなり幾つかの明かりが足元を照らす中、先生が歩み寄ってくる。そして、残り一メートルを踏み越えようとしたところで、俺は緊張で鼓動が早くなるのを感じ、声を張った。

「ストップ!」

 突然だったからだろう。能島先生は驚き、足を止める。

「一応、聞いておきたいことがある」

「な、何?」

 と、俺の前置きに対して、歩みを断念した先生は身構える。そんなに警戒する必要はないと思うのだが、それほどまでに警戒されているということは、裏を返せば警戒しなければいけないレベルの評価を貰えた、というわけだ。

 ありがたいことだな。そうポジティブな考えに治めて、一つの質問をした。

「今、能島先生が触れたとしても、現実に戻るのか?」

 その質問を聞いた瞬間、変に緊張を抱えていた先生の身体から、そんなことか。と、安心したのか、要らない力が抜けたのが窺えた。

 それから先生は首を横に小さく二度振って、答えてくれる。

「違う違う。前に連れて行った私の住んでるマンション。あそこの一室だけ別の仮想空間なの。そこから現実に帰れるのよ。だから…」

「そういう事か…残念だが、現実には帰れない。まだやらなきゃいけない事がある」

 先生が話している途中だったが、先の展開と言葉を読んで、割り込む形でそう言った。

「それって純也君を探したいってこと?それなら後で探せるから…」

 と、更に返されたが、既に俺は答えを用意していた。故に間を空けず言う。

「大丈夫って言いたいのか?無理だな。今でなければ、その機会は永遠に失われるだろうからだ」

 どういうこと?と、今度は先生が割って入るように、疑問を口に出すつもりだったのだろうが、最初の「ど」の発声に被せるように、俺は少し大きめな声で「それに!」と、付け加える。

「それに、だ。既に純也がどこに居るのか、見当はついてる」

「え、そうなの?」

「あぁ、俺の身近に居たよ。消えたわけじゃなかったんだ」

 そう言うと、長らく言葉数を極端に少なくしていた美咲が一歩俺に近づいて口を開いた。

「やっと私の出番が回って来たのね。待ちくたびれたわ」

「悪かったな、随分と待たせて」

「別に構わないわ。聞いているだけでも、楽しめたから…。それより、話を進めましょう?」

「あぁ、そうだな」

 と返しつつ思う。こいつの、こんなにも楽しそうな表情は、初めてかもしれないな、と。

 改めて、能島先生の方を向く。そして杉村純也が消えてからの約八ヶ月を思い返しながら、俺は話し始めた。

「事の始まりは去年の十一月だ。杉村純也は俺と居酒屋で、会った。そしてその日の内に消えた。痕跡を残すことなく、俺と能島先生以外の記憶や記録からもだ。

 と、話を先へ進める前に一つ訊きたいんだが、能島先生は純也から寝顔を撮っても良いか?と言われ、それに対して首を縦に振ったのか?」

 その問いが何のことか理解できていないのか、少々間の抜けた表情を浮かべた能島先生は、首を横に振りつつ言った。

「そんなこと許可するわけないじゃない?」

 だろうな、とは何となくマンションで話した時から思っていた。

「なら、能島先生に謝ることがある。二ヶ月ほど前にマンションで話した純也が結婚すると言ったあれは、俺の勘違いだった」

「はぁ?」

 突然の訂正に先生はあからさまな戸惑いを見せる。ま、当然だろう。結婚すると聞いたはずの事を、何の脈絡も無く勘違いだと訂正されれば、動揺もする。それについての一応の謝罪はするつもりだが、それは弁明とのセットメニューとして配膳することにした。

「それについては悪かった。ただ、純也の言い方も悪いんだ。俺がこの世界の正しい姿を認識できていないことを知っていながら、『一緒になろうと思っている人が居る』と言ったんだからな。結婚と勘違いするのも当然だろう?」

 とは言ったものの、能島先生は変わらず理解が出来なかったようで。仕方がないか、と更にミキサーで細かくした言葉を追加する。

「つまりだ。その後に純也が教えてくれた八年ほどの付き合いのある年上の人間と、同一の存在になるってことだよ。変な意味は無く、そのままの意味で溶け合った。そういうことだろう」

 ちゃんと説明はした。後は先生の理解力次第なのだが、やはり疑問が残るのか何やら考えを巡らせているみたいだ。

 まぁ、分からなくはない。俺も正直なところ、自信と呼べる代物はあってないような物だからな。それでも言葉を止めないのは、先ほどと同じで俺以外に出来る人間が今ここに存在しないからだった。故に続ける。

「それで、だ。それを踏まえたうえで、俺の身近に居る年上の人間は能島先生を含めて十人だな。バイト先の店長である国川都。バイト先の先輩の市丘瑠璃子さんに八護町兄弟が七人、それに能島先生を足して十人だ。ただ、能島先生と女性ではない八護町兄弟は、除外しても問題はないだろう」

 どうして?と、間髪居れずに美咲が言った。

 俺は思った事を内に留め、表情と声のトーンに変化を見せることなく、それに答える。

「まず純也が『彼女』と言っていたから八護町兄弟は違う。そして次だが、ここの仮想空間では能島先生が俺と同い年の純也よりも年上だろうが、現実では年下だからだ。さっき先生が言ってただろう?仮想矯正プログラムのメンバーに選ばれたとき、純也は二十八歳だったが、能島先生はまだ二十代半ばを過ぎたところだった、と。だからだ」

「ふうん、まぁいいわ。…続けて」

 と、俺の返答に対して一応の納得は示してくれたが、多少の不満を含んでいるように聞こえた。ただ、それにとやかく言うつもりはない。俺自身、その不満の元を分かっていながら話しているのだから。

「さて、残るは二人。でも市丘瑠璃子さんは違うだろうな。彼女は身近に居ると言っても、働いてる時間が違うし、時々話す事もあるにはあるが、と言った程度だ。もちろん、完全に否定できるわけじゃない。わけじゃないが、もっともな適任が他に居るんだ。それを無視はできない」

「それが店長…さんってこと?」

 そう言った能島先生の方へ向き直って頷き、「そうだな」と返す。

「俺の今のバイト先であるゲームセンターは、高校時代に純也と学校帰りによく遊んでいた場所なんだ。募集広告を見てそれを思い出した俺は、次の仕事を探していたこともあって、ちょうど良い機会だからと純也の事を訊きに行った。

 店長は昔と何一つ変わった様子は見られなかったが、残念ながら純也のことを覚えてはいなかった。ただ、一応で持っていった履歴書を軽く読んだだけで採用してくれたわけだ。その点には感謝するべきだが、今になって疑うところが出てきた」

 そこまで言って俺は右手で拳を作り、自分の肩の位置まで持ってくると、人差し指を立てて続けた。

「一つ、履歴書を軽く見ただけで採用した点だ。『こう言う名前だったのか…良いんじゃないか』。店長は嬉しそうに笑みを浮かべてそう言っていたよ」

 人差し指を立てたまま中指も起こした。

「二つめだ。五月、新人歓迎会をやってもらった帰り、店長に話があると呼び止められた。そんな素振りを見せたつもりはなかったが、『何故、探すことを諦めた?』そう訊かれた。最初に純也の事を訊いた時に、事情は話していたから知っているのは当然だ。続けて、『お前しか覚えてないんだから、お前にしか探せないだろ?探してやれ』。そう言われて、次の休みから本格的に純也探しを再開した。そのきっかけを作ったんだ」

 そしてピースになっていた右手の薬指までも立てて三本にした。

「最後は富士山旅行の立役者だった点だ。霧海さんっていうバイト仲間の大学生との旅行を提案したのも、友人の経営する旅館の部屋を手配したのも店長だった。その結果、俺はここが現実ではない。と、分かったわけだ」

 そう俺が言い終え一呼吸の間を置いて、能島先生がため息をこぼすように口にした。

「はぁ、なるほどね…」

 それを聞いた俺は、ふっ、と鼻で笑いながら視線を地面に落とし、それと同時に役目を終えた右手も下ろした。

「くだらない遠回りの茶番には満足がいった?」

 すぐに呆れ交じりの言葉が別の方向から飛んでくる。

 そしてそんな言葉に、ますます混乱を極めた能島先生が俺と美咲を交互に見て言った。

「え、え?は、え?…何?どういうこと?」

 そのクエスチョンマークを明らかに多用したであろう疑問に俺は顔を上げ答える。

「店長も違うんだ。純也じゃない」

「はぁ?じゃあ、今のは…」

「前置きにもならない。言ってしまえば、前座だな」

 俺がそう言った途端に先生は言葉を失ったらしく、短く息を吐いた時のような口を半開きにした常態でフリーズしてしまった。

「ただ、確かに店長は幾つかの条件に当てはまる事と、今挙げた三つが原因で怪しさだけなら、かなりのものだろう。だが、それは店長の遊び心の生んだ誤解答でしかない」

「じゃあ誰が?」

 そんな推理小説では聴き慣れた台詞にありきたりさを感じながらも、俺は純也の言っていた事の意味を理解した。

 ここは仮想世界だ。記憶力は無限大、何せ記録されているんだからな。故に断片を断片として認識さえ出来れば、後はどう繋げるかだ。つまり必要なのは応用力と想像力、それさえあればここでは、名探偵くらいになら誰だってなれるというわけか。

 だから、と言うわけでもないが、俺は名探偵のように能島先生へ一つ質問を投げ掛けた。

「能島先生は、脱線事故があったあの日。藁谷真花が俺に言った事を覚えているか?」

「えっと、船がどうとか地獄がどうとかいう話?」

 間を殆ど空けることなく、そう返ってくる。俺に対して向けられた言葉だったのに覚えていたと言うことは、先生も藁谷真花の言葉に少なからず疑問を抱いていたいようだ。

 そうだ。と、頷き話を進める。

「正確には、『あなたがおふねで渡ってじごくにたどり着ければ』だな」

 そんなだったわね。と、先生は頷き返してくれた。

「俺はこれを四国は愛媛県にある小さな島、能島の事だと考え。それを一つの理由として先生、あなたを疑った。でも、それは矛盾によって否定されたんだ」

「矛盾?」

「そう矛盾だ。藁谷真花は俺が船で渡って、と言った。俺がこの東京から出れない事を彼女も知っていたはずだ。手を挙げ、俺が自分と同じ境遇にあることを確かめていたからな」

 もしかしたら藁谷真花からお礼として貰ったシールも、俺の境遇を的確に表現した物だったのかも知れないが、それを今、彼女に確認する術は無い。

「俺は彼女が能島先生の事を疑い、確認のために手を挙げたんだと思っていた」

「違うの?」

「あぁ、藁谷真花が知りたかった事は違ったわけだ。彼女は自分と俺が同じ境遇、状況にある。その事を確かめたかった。だから、手を挙げた。そして『あなたがおふねで渡ってじごくにたどり着ければ』と言ったんだ。俺は東京からは出られない。故に四国には行けない。だとすれば、俺は船で何処に渡る?それは変わらない。島だよ。東京にも島はあるんだ、そこへ渡れば良い」

 そこで言葉を切ると、俺は一歩前に踏み出して能島先生に近づいた。すると先生は突然の接近に半歩身を引いて、珍しく強張った表情を見せつつ言った。

「な、何?」

 俺は別に捕って食おうと近づいたわけでもないので、そのまま続ける。

「東京にも島はある。それも幾つか、だ。大学生の時にその一つ、三宅島に行った事がある。今は何年か前の噴火で飛行機は飛ばせないらしいが定期船では行けるらしい。そして調べて見たら、そんな三宅島には『サタドー』の名を冠した場所があったわけだ」

 目の前五十センチくらいの近さで先生は首をかしげると、

「さたどー?」

 そう復唱した。

 俺は頷き一言、その意味を言葉にした後で、百八十度身体を回す。

「地獄って意味だ」

 そして俺は正面に居る人間と視線を合わせて言った。

「地獄の名を冠した場所は『岬』だよ。更に言うなら、こいつが杉村純也だ」

 言った瞬間、先生が驚きの言葉を上げるよりも先に、パチパチパチとゆっくり手を叩き、カーテンコールにしては寂し過ぎる拍手を贈られ、きつめで挑戦的な声音が彼女の微笑と共に正面から、そよ風の様に吹き付けた。

「よく出来た推理ショーだったわ。それで、確証と呼べるものは用意しているのかしらね?」

 それは聞く人が聞けば、あるいは見下しているように、高みの見物と言わんばかりの台詞だったかもしれない。ただ、俺には戯れに聞こえた。余興を楽しんでいる。あくまでも対等な言葉だと、そう感じた。故に俺は笑みを浮かべながら返す。

「簡単だ。違和感を感じたのはファミレスで、窓際の」

「違うわ!」

 話し始めて間もなく、言葉を断ち切るように、そよ風は暴風へと変わった。どうやら、ご所望なのは余興ではなくメインディッシュのようだ。今まで待たせすぎた付けを払うときが来たらしい。彼女は声を嵐のように荒げ、続ける。

「簡単?笑わせないで。確かにファミレスで私は、窓のある右側に置いてあった物をわざわざ左手で取ったわ。富士山麓の甘味処で会った時も、右手を器に添えて左手で食べたわ。能島先生の部屋に入らなかった事も、不自然に映るかもしれないわ。でも、そうじゃない!葉山美咲のサボりを見抜いた時と同じで、遠回りが過ぎるのよ!いい加減にしてッ!」

 その言い分はもっともで、反省すべき点だろう。

 既に俺は杭を手に持ち吸血鬼の心臓へと突き立てる寸前にも関わらず。木槌を振り下ろす素振りを見せつつも、弄ぶかのように大して効きもしないニンニクや十字架をかざしては笑みを浮かべているのと変わらないからだ。しかも、その首に牙を突きたてられていることを承知で、だ。早く殺せと怒鳴られて当然か。

「そうだな、傘の時と同じで遠回りをしては、ひけらかしを楽しむ、悪い癖だ。いつか痛い目を見るだろう。そう、簡単に済ませるならこう言うべきだった」

 もう一度、前へと踏み出した。今度は少し大股気味に、二歩進んだところで綺麗な百八十度の半回転を見せ、再度能島先生と向き合う。それから言った。

「こいつは藁谷真花を覚えている」

「なっ!」

 先生はそう声を上げ、もし驚きコンテストがあったならば優勝を狙えるであろう見事な目の見開きと、口を大きく開けた表情を見せた。

「正解だ」

 右隣からそんな言葉を掛けられる。

 声は美咲のものだったが、喋り方が完全に純也のそれで、少々の気色悪さを感じた。

 ただ、それと同時に懐かしくも思える。

 よくよく考えてみれば改札前での別れ際、純也の「彼女が誰か分かったか?」という問題に対して、俺の答えは間違っていたのだ。故に正解だとは言ってもらえず、ただ笑われたんだろう。とすると、地獄が四国などと言った時に笑われたのも、そういうことだったのだろうな。

「いつから…純也君だったの?」

 能島先生の疑問は明らかに俺ではなく、隣の純也に向けらられたものだったが、当の本人は、「それより他に訊く事があるだろ?」と言いたげな様子で、あからさまに落胆の色を見せると、俺に手振りだけで説明を丸投げしてきた。

 まぁ、そうする純也の気持ちがわからないでもない。そして先生が最初に「いつからなのか」と訊きたい理由も、何となくだが分かる気がした。

「わかったよ、それには俺が答える」

 故に純也の代わりに説明することを決めた。

「たぶんな、脱線事故があった日から俺が藁谷真花の消失を知った日までの間にことだろう。葉山美咲の利き手が変わったのも、そこを境にしている」

「そんな前から…そうだったのね」

 それから先生は、はぁ、とため息を吐いてから、「気がつけなかったなぁ」と呟いた。

「思うに純也が先生の視点を少しだけ、ずらしていたんだろう」

「例えば?」

「そうだな、向かい合って話している人の周りを小さな羽虫が飛んでいたら、会話の内容が入ってこないのと同じだ。これは想像なんだが、俺と藁谷真花が関わりを持った時点で先生は、二人のどちらとも知り合いの葉山美咲に注意を向けたんじゃないか?

 ただ、先生の目に映ったのは葉山美咲だけではなく、周りを飛び回る様々なしがらみと言う名の羽虫も一緒にだった。それらは学校での孤立の原因や、その事による家庭環境の悪化などだろう。そういう物によって僅かにずらされた視点が捉えるのは、葉山美咲の本質ではなくて彼女を取り巻く状況の進行と俺の動向になったと言うわけだ」

 それに能島先生は、「ふうん」と返事を寄こしつつも、自分の右上、星が一つもない真っ黒な夜空を見上げて三秒と掛からずに、「あぁ」と声に出し視線を元に戻した。

「言われてみれば、確かにそうかもしれない」

 思い返して見れば、と言った感じか。そしてそれに付随して思い出したのだろう。純也の想定していた航路へと話題を戻すように、「あれ?でも、そういえば」と、言葉が続いた。

「そもそも年齢がどうとか言う話はどこへ行ったの?さっき年上の女性と一緒に、とかって言ってなかったっけ?」

 ようやく来たその言葉に純也が反応を見せる。もちろん俺もその事を忘れていたわけじゃない。順序を狂わせたのは能島先生自身だ。故に純也は呆れた。代わりに俺が、自分勝手は嫌いと言いつつ、それでも純也を好きだと言い切った先生の気持ちを汲み取ったに過ぎない。必ずしも通るべき道と言えるわけではないと思うが、悪くない寄り道だった。

「美咲は」

 と、俺が答えようと口を開くと、純也の声と図らずも重なる。お互いに視線だけを軽く合わせ笑みを浮かべると、今度は俺が手振りで先を促し、純也に言葉を譲った。

「そう確かに、ここでの美咲は十七歳で年下だ。でも、それはさっき学が言っていただろ?今回の理想郷設定では能島、君も僕より歳が上になった。それと同じだ。現実の彼女は、僕より年上だ」

 そんな俺にとっては答え合わせに等しい返答でも、本質を理解できていないであろう先生には、沼地に足を沈めるように、疑問を更に深めるだけのものでしかなかったらしく、話の流れを停滞させ、「でも」と、反論を口にした。

「私より年上の人間なんて今の研究所には…」

「居なくて当然、彼女は僕が作り上げたデータに過ぎない。君はいつまで断片をただ読み上げるだけのやり取りを繰り返す気だ?断片は既に殆どが出揃っている。後はそれらを繋げてあげれば良い。核心までは見えずとも、それで大体の状況の把握くらいは出来る筈だ」

 先に期待できないからと純也は遮るように否定と正論を織り交ぜ、先生から返す言葉を取り上げて、俯き口を閉ざさせた。そして純也は追い討ちをかけるように続ける。

「特に学と違って君は、この理想郷の特性をある程度まで理解している。それなのに解らない?どこまで盲目的に僕を見続ければ気が済むんだ」

 流石に言葉が過ぎると感じて俺は美咲の肩に手を置くと、半歩前へ出つつ純也に言った。

「そのくらいで止めとけ、能島先生はお前の考えたとおりに踊っただけだろう?」

 僅かな時間だった。時が止まったかのような静寂に包まれる。風が吹かず虫も鳴かない。そんな間が、しばらく忘れていた緊張感や疲労感を思い出させた。

 それが責任の重さなんだと理解するまでに、それほど時間は掛からず。理解したのと時を同じくして、純也が口を開く。

「確かに、学の言うとおりだ。…だが、それを訂正する気もなければ、謝る気も僕には無い。曲目も演目も分からないとはいえ、踊っているなら少しくらい自分の役割を理解しようと努力はするべきだ。でなければ脚本家はもちろん、他の演者さえも観客には滑稽に映るだろうからな」

 その純也らしい言葉選びに肩をすくめ、やれやれと首を横に振りたくなる。そしてどうやらそう思ったのは俺だけではなかったらしく、俯いていた先生も顔を上げると、懐かしむように微笑んで、

「わかったわかった、私の負け。負けました」

 と両手を挙げて降参を宣言した。

「ほんと、純也君は昔と変わらない。もっともな事を躊躇わず口にする、まるで正しさを振りかざして管理社会を作り上げる独裁者みたいね」

 降参に続けて能島先生は、そんな妙にしっくりくる例えを言った。

 確かに。と、全てに合点がいき頷けるわけではないが、純也になら出来るかもしれないな、と思い。ふっ、と笑って返す。

 ただ、純也本人は首を横に振って否定した。

「例えは面白いが、それは違う。僕も所詮は管理される側。本当に独裁者を名乗るに相応しいのは葉山美咲、彼女の方だ」

 意外だった。笑って不正解だと言わずに否定した事が、ではない。葉山美咲の方が独裁者に相応しいと言い切った事が、だ。

 つまり、俺の考えている以上に先生の例えは、当たらずも遠からずだったというわけで。だとすると、俺の推測に間違いが無いのなら、純也の返答によって付け加えられ変化した現状評価は、当初の最善手からは程遠いと言わざるを得ないだろう。

 そんな状況にも関わらず能島先生は、俺が耳を疑いたくなるような言葉を口にした。

「へぇ、珍しい。純也君が自分より上に誰かを置くなんて。その人の事、詳しく聞きたいけど、今は無理そうね。もう良い時間だし、純也君が消えてないことも分かったから、そろそろ行こうか?」

 恋敵という表現が適当かの判断は難しいところだが、葉山美咲についてはこれ以上、聴きたくないと言う事らしい。

 そして美咲というか純也はため息を吐くと、ほらな?と声には出さず、視線や表情だけで同意を求めてきた。さっき純也を止めたのが間違いだったとは思わない。が、盲目的という表現だけは的確だったと認めるべきだろう。それを踏まえた上で言葉選びを済ませた俺は、学校の先生が生徒に言い聞かせるように、声に出した。

「だから、さっきも言っただろう、能島先生。俺は現実には帰れない」

「え、でも、それは…」

 と言って、能島先生は歩き出そうとしていた足を止めた。

 純也は食い気味に言葉を重ねる。

「僕が見つかったから、やり残した事はもう無い。と、言いたいのか?何を勘違いしているんだ、学も言っていただろ?『残念だが、現実には帰れない。まだやらなきゃいけない事がある』と。別にやり残した事があるから帰れないわけじゃない。帰れないから自分に出来る最善を尽くそうとしている」

「つまり前提が違う…ってこと?」

 そう言いつつ能島先生は視線を俺に向けてくる。

「そもそも先生は純也がどうして消えたんだと思っているんだ?」

 と、返事の代わりにそう聞き返した。

 それに対して先生は、消えた事に理由なんて無いと考えていたのか言葉を詰まらせたようで、俺は正しい答えが返ってくる見込みも薄いと判断し、構わず先を続ける事にした。

「人が消えるのには理由がある。もちろん純也は消えたのではなく隠れたわけだが、それにしても同じことだ。消えるというのは人に対して使う場合、客観的視点で使われる事の多い表現なだけで、主観的視点に立場を移せば隠れることもそうだが、迷子から遭難、更には誘拐と言ったものにも細分化される。

 そう、消える事には他意も含まれるが、隠れる場合は違う。隠れるという選択は自身でするもの。きっかけには他人の行動が絡むこともあるかもしれないが、最終的な選択権は隠れる本人にあるわけだ」

「だから、何が言いたいの?」

 と、結論を急かされる。

「純也が隠れたことには、そうしなければいけない理由がある。と、いうことだ」

 一週間前、彩音ちゃんがそうしたように。そして十年前、霧海さんのお兄さんがそうしたように、隠れることには意味がある。

「それが品里君の帰れない理由に繋がるわけ?」

 そうだ。と頷き、まぁ聞けと言葉を続けた。

「今回、純也が隠れたことには、おかしな点があった。それは純也が存在ごと消えたことだ。別に一種のゲームとして楽しむ為なら、そこまでする必要は普通ないと思うが、純也の事だ、一概にそうとも言えないだろう。ただ、純也が存在ごと消えたことによって行方不明とは違い、俺がそれについて考え行動するきっかけになったことも、結果的に理想郷を暴くに到ったことも事実だ、無視は出来ない。そしてそれとは別に、もう一つ。路線図という、おかしな点もある」

「路線図?」

 と、疑問符を付け加えて口にしたのはもちろん能島先生で、一方の純也は楽しそうに微笑みを浮かべて頷くだけだった。

「あぁ、そう路線図だ。この仮想世界の存在理由からして、明らかにおかしな点だ。現実だと錯覚させ人格の書き換えをしているはずなのに、どうして現実ではないと解るであろう県外を、富士山と直結させている一本の線路で結ぶ必要がある?

 十年もあれば、この狭い世界では修学旅行などで、少ない選択肢故に何度も訪れるはずの富士山と、県外に出てしまうかもしれない路線を、わざわざ繋げる必要は無いんだ。

 そして、そんな設計にしたのも仮想矯正プログラムの開発者である杉村純也なんだろう?だとすれば、答えは簡単だ。ここが現実じゃないと認識させる事にこそ意味がある」

 言葉の切れ目で公園の時計へ視線をやると、それほど長く話していたつもりは無かったが、いつの間にか八時を過ぎようとしていた。

 もう良い時間とまではいかないが、一時間近くも立ち話をしていたことになる。確かに純也の言うとおり、遠回りが過ぎたかもしれないが、それもあと少しで終着点にたどり着く。ただ、現在俺の語っている考えが当たっていようが外れていようが、結末にこれといった変化は無いだろう。既に終わったこと、だからだ。

 そんな達観にも似た感覚を心の内に秘めながら、時計から視線を戻し再開した。

「あの日、純也は居酒屋で葉山美咲と一緒になると言った。その前置きとして、こんな事を話していた。『幽霊などを認知できたとしても、認識として共有できなければ幻に過ぎない。認識は他人と共有して初めて意味がある』。そしてもう一つ、これは学生時代に純也から聞いた話なんだが、能島先生は『明晰夢』って知ってるか?」

 俺のその質問に対して先生は、間を空けずに口を開く。

「夢を見ながら、それを夢だと認識できれば、その夢を自由自在に操れるって言う、あれの事?」

 今までとは違い、すらすらと答えが返ってきた事を意外に思いつつも、「そう、それだ」と返事をした俺は、能島先生が記憶について研究していた事を思い出し、夢は記憶が関係してるらしいからな、先生が知っているのも当然か。と、納得した。

「ところで話は変わるが、純也は現実には居ないんじゃないか?先生はさっき、『後で探せるから』と言ったな。それと『研究所で私より年上の人』とも…。となると、だ。現実の純也は行方不明もしくは死んでいる。…違うか?」

 もちろん二重人格の片割れや、妄想の中で生きていた理想像を仮想世界で作り上げた可能性も無いとは言えないが、図星だったのだろう、先生の表情にわかりやすく陰りが見えた。それを肯定と受け取り、先に進める。

「つまりだ。現実で純也は死に、ここで生活をするようになった。そしてそれは能島先生しか知らないことなんだろう?だから話せない」

 先生はもちろん純也からも返事は無い。ならばと畳み掛けるように続ける。

「だとしても何故、それを秘匿する必要が?答えは簡単だ。この仮想世界で過ごせば自ずと悪人は善人に変わる。それが杉村純也の干渉によるものだったとは言い辛い。ましてやそんなシステム構築の為に一人の命が失われているのなら尚更だ。死刑以外の方法を模索しておきながら、それを実現する為に、一人の命を犠牲にしているなんて、言える訳がないだろうからな。つまり杉村純也も込みで仮想矯正プログラムは成り立っていたんだろう?そして先生は保守点検や経過観察の名目で、それを手伝っていた…違うか?」

「いいや、違わない」

 そう言ったのは純也だった。

 そして俺が言葉を返すより先に、動揺からか慌てた様子で先生が短く声を荒げる。

「ちょっと!良いの?!」

 と、だ。対して純也は、呆れることに諦めがついたのか、淡々と言葉を並べた。

「なら僕が肯定しなかったとして、君はどう答える。『どうしてそう思うの?確証はあるの?』とでも返す気か?だったら、どうして杉村純也と共に作ったなんて言ったんだ?現実に僕が居る、もしくは居たと分かれば、学に必要以上の干渉していた事から、それくらい読み解けるだろ?君は無自覚のままに、言ってはいけない事を口にしたんだ」

 純也が言い終えると同時に、「はぁー」と、そう先生の口から大きなため息がこぼれた。そして観念したのか言葉が続く。

「確かにそう、純也君は記憶だけここに保存して、現実では行方不明よ。でも、それと品里君が現実に帰れない事とは、別の話でしょ?」

「何故、別々の事として考える?学の話を聞いていたなら、それらを繋げて見るべきだ。さっきとは違って核心にすら触れられる場所に君は立っているんだからな」

 もう俺が並べる必要のある断片が出揃ったからか、純也は自ら積極的に話を進めるつもりらしい。楽を出来ると思う反面、もう終わってしまったんだと考えると、文化祭の終了時刻を迎えた時の様で、少々の寂しさを覚える。ただ、いくつかの補足は残っているので、それを後夜祭として楽しめる事を今は期待しつつ、やり取りをする側から聞く側へと立ち位置を変えた。

「えっと、つまり…もう現実には存在しない純也君が、仮想世界でも隠れることに加えて、在り方に不自然さを感じる路線図を使い、品里君にここを仮想世界だと認知させた上で、私と認識も共有させた……って事よね?」

「一つ忘れてないか」

 そんな純也の指摘に先生は、腕を組んで俯くと、考える気配を見せる。どうやら俺の出番は本当に終わりらしい。時間は掛からないだろう、そんな予想に違わず、忘れられた一つの断片をあっさりと口にした。

「明晰夢も加え……って、まさか純也君と同じ状態にする為に?」

 流れは良かった。でも、踏み込みがもう一歩足りなかった。やはり純也の言うとうりで、想像力と応用力は重要なんだと思い知る。

 そう、仮想矯正プログラムの応用と、俺を仮想矯正プログラムの一部である純也と同一の状態にする理由の想像。それらが能島先生には出来なかったわけだ。

 その事に純也も気づいたのか。それとも初めから分かっていたのか、半歩前に出て俺の隣に並ぶと、

「間違ってはない。ただし、花丸をあげるには不十分と言える。つまり半分は正解だ」

 そう言って早々に採点を終わらせてしまった。

 そして続け様に答え合わせを始めようとした純也の言葉を奪う形で、俺は幕を引く。

「そう純也は明晰夢の要領で俺の意識感覚を仮想世界全域に広げさせ。この世界の管理者に仕立て上げて、矯正の完了した俺の代わりに現実へと帰る。それが、杉村純也が存在ごと消えて見せ、姿を隠した理由なんだ」

 先生は息を呑み、純也は「酷いな」と呟きつつ、肘で俺の腕を小突いてくる。俺は鼻で笑い、「もったいぶるからだ」と返して、ついでに視線もくれてやった。

「でも、品里君が帰れないのはどうして?」

 俺達のやり取りに割り込む形で先生が、そんな疑問を口にした。

 すると、「さっきのお返しだ」と言わんばかりに、純也が顎で「答えてやれ」、そう役目を押し付けてくる。ただ、今更説明が二つ三つ増えようと、俺にとって誤差の範囲内でしかない。それは純也も知ってのこと…なら「お返し」というのは違うか。単純に譲られただけ。または理解力を測る為、そんなところだろう。

 まぁとにかく、どちらにしたって純也が答えないのなら俺が答えるだけだ。後夜祭前の後片付けということにでもして、さっさと手際よく終わらせるためにも口を開いた。

「さっき能島先生は仮想矯正プログラムの説明をした時、『ここの時間で十年くらい、人生をやり直してもらう』と、言っていた。それともう一つ、俺の質問には『マンションの部屋が別の仮想世界になっていて、そこから現実に帰れる』と答えたわけだ。

 前者は、現実と仮想世界では時間の流れ方に違いがあることを言っていて。後者は、その違いによって生まれる問題の解決策だな。

 まず生物によって時間の流れの速さが違う。見えてる物の速さが、と言えば更に分かりやすいだろう。つまりそれは処理能力、伝達能力の違いからくるものだ。別に感覚の鋭さと言い換えても良いが、最終的には仮想世界の説明になるわけだから、処理能力の方が何かと都合がいい。と、まぁここまでは前提の話だ。

 それで、だ。もちろん人間とコンピューターの処理能力にも差がある。そしてその差が開けば開くほどに、脳とコンピューターとを繋げた時に無理が生じるわけだな。つまり前者の仮想世界での十年と現実の十年とでは、時間の進み方にかなりの差があるのだろう。だから、マンションの一室と言う別の仮想空間をクッション代わりに挟むことにした。これが後者の解決策だ。

 そう、俺は仮想世界を直接体験しているのではなく、クッション代わりの仮想空間で記憶をデータとして出力した上で、この仮想世界を出力されたデータで体験している。つまりはそういうことだろう?だから時々、現実の記憶が少し残っている場合がある訳だ。藁谷真花のように…。

 そして先生は当然知っているだろうが、一リットルのペットボトルには、それ以上の水が入らないのと同じように。一ギガバイトの記憶媒体には、一ギガバイト以上のデータは保存ができない。

 なら仮想世界との一体化は間違いなく現実の器で要領オーバーを引き起こすはずだ。更に、それを解消しようにも俺は既に自分自身を仮想世界と言う名の砂場にぶちまけた後、形を失って混ざり合った泥団子を元に戻すのには無理がある。もう手遅れなんだ」

「うん、それはなんとなく分かってる。けど、だったら純也君も…」

 と、間を空けることなく先生は、意外にも冷静な面持ちで言葉を返してきたが、それには純也が食い気味に応じた。

「同じだと言いたいのか?それは違う。何故、僕は学と十年ほど共に過ごしたと思う?何故、葉山美咲と同一になったと思う?それらに意味があるからだ。つまり現実的な容量への削減を行う為、自己の再認識とそれを型に流し込む工程だった、というわけだ」

「それでも純也君が品里君の体へ入れる保障は…」

「たぶん、それもあるんだ」

 そう言って俺は先生の僅かな希望を踏み潰すように言葉を遮ると、止めとばかりに先を続けた。

「俺が思うに藁谷真花は、もうこの世には居ないのだろう」

「どういうこと?」

「これから純也がやろうとしている事を既に、藁谷真花が現実へと帰る時に実行していたということだ。ただし、藁谷真花の中へ注がれたのは葉山美咲だろうけどな」

「でも、それでも藁谷さんが…」

 と、更に先生が反論を口にしようとしたところで、純也は短く三回手を叩き、拍手をしてから満足げに笑みを浮かべる。

「能島、それくらいにしておけ。学は計画の本質をある程度理解しているかもしれないが、だからと言ってこれ以上は、自信に欠ける推論を並べることしか出来ないだろう。学は充分に説明を尽くしてくれた。残りは僕が補足をするさ。ただ、まぁそれは少し長くなる。歩きながら話すことにしよう」

 と言って純也は話を無理やり打ち切り能島先生に背を向けると、ゆっくり歩き出す。公園を出て駅を目指すのだろう、そちらへ純也の身体が向いていた。それを俺は疑問に感じる事無く、その背中を目で追いかけるように身体を半回転させる。そこへ、後ろから不満の色を露にした声が飛んできた。

「ちょっと!」

 納得できない部分を残したままで、どこへ行くのか?と言いたいらしい。確かに先生の言い分にも一理あるが、俺にはどうすることも出来ない。純也の言ったとおりで、これ以上は自信に欠ける。なにせ動機が純也の放った一言によって、複雑化したからだ。

『独裁者を名乗るに相応しいのは葉山美咲、彼女の方だ』

 その言葉は少なくとも『杉村純也の自分勝手な退職計画』という俺の推論を見事に消し飛ばしてみせた。

 それを先生に説明している余裕は無いだろうな。と、少しずつ離れていく女子高生の後ろ姿を見て思い。止めていた足を動かし俺も歩み始める。

 その直後、先生が何か言ったようだったが、声が小さすぎて聞こえなかった。

 今の俺は、自分と仮想世界との認識の境界が曖昧になった存在だ。たぶん、意識をすれば聞こえただろうが、『人の小言と陰口は、聞いたところで損しかない』と、会社に勤めていた頃、上司に言われた事を思い出し、すんでの所で踏み止まった。

 公園を出たところで先生のテンポの速い足音に追いつかれる。俺と歩調を合わせて隣に並んだ先生は、

「ほんと二人とも自分勝手よね」

と、言った。

 まさか小言までも追いかけてくるとは、と苦笑しつつ。客観的に自分の推論を思い返し、

「確かにな」

 そう答えた俺は、「それにしても」と、言葉を続けた。

「能島先生は押しに弱いな。まぁ、俺が言えた話でもないが…」

 前を歩く純也との距離は十メートルほどで、俺と先生の歩くスピードは純也と同じくらいだ。このままでは駅までの道程にある信号でタイミング良く赤でも引かないかぎり、いつまで経っても追いつけないだろう。故に歩幅か歩調を変える必要があるが。その前に一つ、能島先生に訊きそびれた事を思い出したので、手前の言葉に付け加える形で質問した。

「そんな先生でも、純也の死について最後まで口を硬く閉ざしていたのは何故だ?」

 その問いに返答はあると考えていたが、少々言いよどむだろうと踏んでいた。だが、そんな予想が外れ、先生はあっさり口を開く。それには正直言って驚いたが、話の腰を折りたくはなかったので表情には出さず言葉に耳を傾けた。

「そうね、純也君に言われたからの他にも、色々と理由をつけようと思えばつけられるけど、私が迷い続けているから…じゃないかな?諦めきれないって言い換えてもいいけど…」

「夢みたいなものか?」

「そんな綺麗な物じゃないでしょうね。後悔して、迷って…。現実でね、十一年かな?そのくらい前の六月だった。私は彼の自殺に加担し、死体の処理をやったの。つまり私が純也君を行方不明にした。表向きは趣味の山登りで行方が分からないって事になってるけどね。

 さっき言われた盲目的って言葉、あれはそのとおりだと思う。でも、私にとっても仮想矯正プログラムは完成させたいものだった。偽りでも実績を残したかったのよ。友人の為にも」

 先生は一度言葉を切ったが、俺は敢えて聞き返すことをせずに、黙って待った。

 歩みを止める事無く先生が夜空を見上げる。横目に映るその姿につられて、一週間前と同じように俺も空へと視線を運びかけた。が、途中で止めた。宇宙の存在しない夜空なんて所詮は張りぼて、頭の中の考えをリセットしたくもないのに見上げるものではない。俺は視線を一定の間隔で街灯に照らされた足元へと落とした。

 それから数歩も進まない内に、話の続きが耳に届いた。

「私の友人は中学生の時に両親の暴力が原因でね、施設に入った。彼女は私の前では明るく振舞ってくれてたけど、時々異常なほど大人を怖がっていた。それでも彼女は頑張って高校を卒業して就職したのよ。でも、職場でのちょっとしたトラブルでね、彼女は壊れた。

 ふとしたきっかけで両親からの暴力がフラッシュバックするって彼女は泣いてた。

だから、私は記憶をどうにかする方法を研究してたの。そして純也君のお陰で、その方法を見つけられた」

「それなのに迷ってる、と?」

 そんな俺の言葉に先生はふっと笑うと、「ほんとにね」そう言った。

「私も彼女も今年で四十二になる。十年前に彼女は結婚して、今では子供が二人もいるお母さん。最近は昔ほどフラッシュバックに怯えなくなったって、むしろ子供が悪さしないかが心配だって笑うの。そんな彼女を見てるとね、自己満足…って言うより、これも自分勝手なのかな?他人の人生を少しでも良いものにしようとして、偽善だったり幸福の押し売りをやってるように思えてきて。

 だから、せめて外面だけでもって、純也君の考えに乗っかったって事にしたの。もちろん秘匿する理由は倫理的問題に上乗せされる洗脳的疑惑を回避するって意味もあるのよ?矯正に人が介入すれば好きな考え方に誘導できるから、せいぜい法律を遵守する人間を作り上げるに留めたかった。でなければ反対運動がより激しくなっていただろうしね。ルールを守ってくれるようになるだけで良かったの」

「でも、結果的に洗脳より酷い物になったわけだ」

 俺は皮肉のつもりで言っただけだったが先生は頷き、

「ほんと、そのとおりよね。せめて記憶のフィードバックを円滑に行う為とは言え、現実の器を殆ど空っぽにしていなければ…ごめんなさい、品里君」

 と、申し訳なさそうに謝った。

 まぁ、その場合でも俺は現実に戻れないだろう。一度のミスでシステムの改善を余儀なくされ、下手をすれば凍結。上手くいったとしても、次世代機で俺というデータは存在できないだろうからな。と、思いはしたが口には出さず、代わりの言葉を返す。

「別に気にすることはない。それに能島先生が全て悪いってことでもないだろう?純也の操り人形がいいところだよ。共犯者と呼ぶには頼りなさ過ぎるんだ、先生は」

「酷い言われようね。…でも、だとしたらなんで、そんな役目を私に?」

「簡単な話だ。純也が先生を死体処理に選んだ理由は、恋が判断能力を著しく低下させるってこともあるが、もっと単純な話で次期所長になりうる人物だと考えていたからだろう。そして、そこまでするなら推薦もしていたんじゃないか?」

 あぁ、と先生は、納得したのか声に出し。

「なるほどね。自分を補佐させるのには都合の良い人材だったわけか」

 と、呆れを混じらせ、そう言った。

 先生とのやり取りに思いのほか夢中になっていたらしい。いつの間にか並木道まで歩みが進んでおり、辺りが少し暗くなる。

 並木道に入ってすぐだ。そこで立ち止まり、こちらは呆れた顔で立ちはだかった純也が言う。

「人が説明してやろうと言っているんだから、いい加減に追いつけ」

 それに対して俺は軽く、

「悪い悪い、それでお前の補足ってのはなんだ?」

 と謝りながらも、話の先を促した。

「学、そう言いつつお前には、大体の予想がついてるだろ?葉山美咲、彼女についてだ。長いんだからな、覚悟しとけ」

 そう純也は小さな脅しをかけてから、俺と先生の間に割ってはいると、葉山美咲との過去を語り始めた。

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