四章 観測者には容易い

 土曜日の夜。ただ、既に時計の針は零時を過ぎて一時間ほど進んでしまっているので、日付は変わり日曜日になっていた。そんな頃だ、俺は葉山美咲の携帯電話宛のメールを送信した。

 内容はこうだった。

『明日、予定が出来た。いつものやつは月曜の放課後にしよう』

 送信完了の表示を確認すると携帯電話を閉じて枕元に置く。それから電気を消して眠りに着こうとした時だった。送信から一分も待たずにメールの着信を携帯が知らせた。暗闇の中、閉じたばかりの携帯電話を開いて確認する。

『了解したわ』

 返信されたメールには短く、そう書かれていた。



 後悔ってのは深く根付けばトラウマにすらなりえるほどに性質が悪いものだ。

 よく言うだろう?反省はしても後悔はするな、と。ただ、あれは正しくもあり間違ってもいると、僕は思うわけだ。

 そうだな、自身の損得に関わる後悔はするべきじゃない、それは反省にするべきだ。

 だけど、それ以外の事柄で、特に他人が絡む事は後悔しても良いと思うんだ。他人に反省は冷たいものだろう?

 まぁでも、後悔しないに越したことはない。

 後悔は心を蝕む。信念すら歪めてしまうほどに、な。

 そう言っていた悪友であり親友の杉村純也が、痕跡を残さず人々の記憶からも消えて約八ヶ月が経過した七月の月曜日。俺は普段より少し早い、朝六時に目が覚めた。

 霧海さんとの富士山旅行、あれから一週間。昨日と今日はゲームセンター若肉でのバイトは休みで、別に普段通り起きる必要はない。それにバイトがある日でも、朝六時はもし目が覚めたら二度寝をする時間だ。だから、バイトが休みの日は尚の事、再度眠りに落ちてしまっても良いだろうと思う。だが、今日に限っては、そうしなかった。

 体を起こし床へと足を下ろして立ち上がる。そして軽く伸びをしてからカーテンを開けた。季節が夏ということもあって既に日は昇っており、アパートの狭い室内へ光が差し込んでくる。ただ、窓は開けない。熱風と共に蚊が入る可能性があるので、少し汚れ曇ったガラス越しに外を見ることにした。

 平日だと言うのに目の前の道路は人通りがまだ少なく、車も殆ど走っていない。周りの家々のカーテンも閉まったままだ。

 まぁでも、そんなものか。とも思う。会社に勤めていた頃とは住んでいる場所が違うのだから、そこに暮らす人達の生活サイクルも異なっていて当然だろう。

「俺もいつも通りなら寝ている時間だしな」

 と、ひとりごちて、それから最後に軽く見上げる。

 視線の先に広がる空に雲は無く、今日も一日暑くなるのだろうと容易に想像が出来た。

 さて、と窓に背を向けテーブルの上に置かれた真新しいオーブントースターに目をやる。昨日、出掛けたついでで買ってきた物だ。隣には六枚切りの食パンも置いてある。冷蔵庫にはマーガリンが入っているし、インスタントだがコーヒーも買ってきていた。

 そう、今日の朝食は俺にしては珍しく、ドライフルーツの入ったシリアルではない。何故そんな丼理論提唱者にあるまじき面倒な考えに到ったかと言われれば、生活には多少の変化があった方が良いと思ったからだ。

 冷蔵庫からマーガリンを取り出し、水を入れたヤカンをコンロにセットする。それから久しく使っていなかったマグカップと皿を戸棚から出してテーブルに置くと、食パンを二枚オーブントースターに並べて入れた。

 椅子に座らずテレビを点ける。ニュースキャスターが画面に映し出され、ここ最近の出来事を淡々と読み上げていた。

 この一週間で急激に気温が上昇した為に、熱中症で既に三人が亡くなったことや、古くなった扇風機が火事の原因になるから注意して欲しいだとか、最近ようやく浸透したクールビズについての街頭インタビューが取り上げられている。

 その中に脱線事故のことは、もう無かった。あれからそろそろ二ヶ月が経つ。霧海さんがひとまずの決着をつけた様に、世間でも語られることは少なくなっていた。

 ヤカンが「ピー」と沸騰を知らせ、オーブントースターが「チン」と音を立ててパンが焼けたことを教えてくれる。

 まずコンロの火を止め、それから少し焦げ目の付いたパンを予め出して置いた皿に載せると、マグカップにインスタントコーヒーの粉を入れて、お湯を注いだ。スプーンで軽くかき混ぜる。

 次にバターナイフが無いので代わりにフォークを手に取ると、暑さで少し柔らかくなったマーガリンを器用にパンに塗っていく。その間に午前中の予定を大雑把にでも立てておく事にした。

 まず昨日出掛けていて出来なかった掃除と洗濯を早い内に片付ける。それから引っ越した際に減らしきれなかった物の整理でもしようと決めた。別にここ三ヶ月ほどで物が増えたわけではない。一人暮らしにしては量が多いな、と感じただけだ。

 そしてパン二枚にマーガリンを塗り終えたところで椅子に座った。

「いただきます」

 そう言って手を合わせ、四角いパンの角を一口齧る。二口、三口と食べ進め、半分を過ぎたところで代わり映えしない単調な味に飽きを感じ始めた。

 それでもなんとか一枚目を胃に収め、何も入れずブラックのままのコーヒーに口をつける。だが、コーヒーもコーヒーで、想定していたより苦く、一口飲むのがやっとだった。

 普段から牛乳を飲まず、料理をしない為に砂糖も無いのでコーヒーに関しては万策尽きたと言ってもいいだろう。ただ、パンの方は一つ思いついた事がある。席を立ち冷蔵庫を開けた。そこには五月に買った食べるラー油がまだ少しだけ瓶の底に残っていた。

 それを取り出しテーブルに戻る。スプーンはコーヒーをかき混ぜるために使っていたが、面倒なのと残量が少ない食べるラー油なら使いきれると踏んで洗うことはせずに、そのまま左手に持って傾けた瓶へと突っ込んだ。中身を掻き出すようにパンへと乗せていき、瓶が空になった事を確認すると、そのままスプーンで全体へと広げた。

 こうして完成した食べるラー油パンは全体的に赤く、とても辛そうに見える。が、まぁ見えるだけだ。相変わらずラー油とにんにくの良い香りが食欲を掻き立ててくれる。

 さて、と朝食を再開するためにパンを口へと運ぼうとしたところで、そう言えば、と思い出した。パンを一旦皿に置いて再度立ち上がると、戸棚の一番下の段を数ヶ月振りに開ける。そして奥の方から少し大きめの瓶を取り出し、テーブルに置いた。

 ゴトッと良い音をさせたそれは、一人暮らしを始めた頃に色々と便利だと純也に言われて買った蜂蜜だった。

 何年もの間、封を切られる事すらなく戸棚の奥に置かれていたが、ついに使うときがきたようだ。さっそくスプーンを洗ってから瓶の蓋を開ける。すると、蜂蜜独特の甘い香りが溢れ出した。スプーンを入れて一すくい、余分な蜂蜜が零れ落ちきるのを待ってから、コーヒーの入ったマグカップへとスプーンごと突っ込んで、そのままかき混ぜる。パンとは違って見た目に変化はなかった。

「よし」

 そう意味も無く気合を入れて、朝食を再開した。

 まずはパンから齧る。もちろん辛くはない。が、マーガリンの塩気があるせいだろう、食べるラー油を加えたことで塩辛さを感じるようになった。本当はレタスなり野菜を挟めれば良かったが、生憎と野菜は切らしている。かと言って今しがた確認した冷蔵庫の中に、代わりになるような物も無かったので、諦めてもう一枚パンを取り出しオーブントースターに入れて焼き始めた。

 後は焼きあがったパンを重ねれば、少しはマシになるだろう。と、思いつつ、今度はコーヒーの入ったマグカップを手に取り、口をつける。見た目こそ変化はなかったが、味の方はしっかり飲み物のレベルまで回復していた。

 はぁ、と一息ついて背もたれに体を預ける。それからオーブントースターの中で徐々に焼けるパンを眺めながら、この三ヶ月で色々あったな。と、思い返す。

 四月にゲームセンター若肉でのバイトを始め、霧海さんや瑠璃子さんに、店長や八護町さん達と少しずつ仲を深めた。五月にはバイト先で葉山美咲と出会い、新歓のサプライズを台無しに。その数日後、葉山美咲や能島先生と再会し、電車の脱線事故や藁谷真花との出会いと消失をへて。つい一週間前には霧海さんと三日間の富士山旅行で彼女の過去を知る事となった。

 それは当初、消えた杉村純也を探す為にやむを得ず変化した日常だったはずだが。最近では、その方が良かった。と、そう感じ始めている。

「不思議なもんだな」

 給料は減り生活水準が下がったにも拘らず、充実感と呼べる代物は増したわけだ。

別に以前の職場が充実していなかったわけじゃない。むしろ十分に充実していた。でも、だ。杉村純也が消えたことにより、充実感という物のキャパシティがオーバーしたのだろう。度が過ぎれば毒になる。と、言う事だ。

 つまり充実感を得るには仕事と休息のバランスが取れている必要があるわけだな。いつだかテレビに出ていたコメンテーターの言っていた問題解決の糸口が少しだけ見えた気がする。と、そんな事を考えつつテレビのリモコンを手に取りチャンネルを変えると、噂をすれば影、件のコメンテーターが二ヶ月前と同じ事を口にしていた。

 俺は苦笑しチャンネルを元の番組に戻す。そして「チン」と、パンの焼けた合図が鳴った。

 綺麗に焼け目のついたパンをオーブントースターから取り出しつつ、それにしても、と思う。蜂蜜の方を先に思い出していたら、今頃パンはハニートーストになっていたはずだ。

 まぁでも、後悔しても仕方が無いと首を横に振り、日頃から整理はしとくべきだと反省して、一口大に欠けた食べるラー油パンに、焼きあがったばかりのパンを重ねた。


 朝食を食べ終わると後片付けも程々に、掃除と洗濯を手早く終わらせた。それから引っ越してきて以来、押入れに詰め込まれたいくつかのダンボール箱を引っ張り出すと、テレビの情報番組をBGMに、不要な物をゴミ袋へと入れていき、ダンボールが六つから四つに減ったところで、お昼になった。

 昼食は戸棚に残っていたカップ麺を食べ、出掛ける準備を済ませると、ダンボールを押入れに戻して、やり残しがない事を確認してから、午後二時頃に部屋を出た。

 外は夏の強い日差しが降り注ぎ、熱を蓄えたアスファルトとの間に挟まれる形で、半袖に七分長けのズボンでも暑く感じる。だからだろう人通りが少なく、商店街に着くまでにすれ違った人は片手で数えられるほどしか居なかった。

 商店街の入り口ゲートを潜る。俺が向かう先は最寄の駅だが、その前に少し時間があるのと、涼む為にゲームセンター若肉へ立ち寄ることにした。

 自動ドアが開くと店内から涼しい空気が外へ漏れ出す。俺は冷気が逃げないよう、さっさと足を踏み入れた。

「あれ、学って今日休みだったよな?」

 と、入ってすぐ、クレーンゲームの近くに居た瑠璃子さんに声をかけられる。

「はい、これから電車に乗って出掛けるんで、その前にちょっと涼んでいこうかな、と」

「ほぉ、それはそれは…羨ましいねぇ」

 そう言った瑠璃子さんはどこか恨めしそうだ。そんな彼女と向かい合って、俺はふと疑問に思ったので訊く事にする。

「あれ?そういえば瑠璃子さんが昼間に居るって珍しいですね。もしかして店長休み?」

「ん?あぁ、用事があるからって代わりを頼まれたんだ。なんか用でもあった?」

 事情を説明ついでと言った感じに聞き返されたが、

「まぁ、この間のお礼を少し…でも、居ないなら大丈夫です。それよりも」

 と、お茶を濁しつつ店内を見まわして、客があまり居ないことを確認してから続ける。

「時間つぶしに十五分くらいで良いんで、遊んでくれません?俺が奢るんで」

 そう言って指差したのは、店内中央付近に置いてあるガンシューティングゲームの筐体だ。瑠璃子さんは店長へのお礼に疑問を感じてか首をかしげていたが、すぐに笑顔で「いいよ」と、俺の誘いに頷き了承してくれた。

 俺が暇つぶしに選んだ筐体は、銃の形をしたコントローラーを使い、画面に次々と現れるゾンビや悪魔といったモンスターを倒し進めていくゲームで、この手のガンシューティングゲームとしては定番のタイトルだ。

「これ、ビル前で戦うボスがニガテなんだよね」

 と、2Pのコントローラーを慣れた手つきで画面に向けて構えながら、瑠璃子さんがボソッと呟いたのが聞こえた。

「大丈夫です。そこまで行けないですから」

 俺は言いつつコインを二人分投入すると、彼女と同じように構える。

 男二人の会話でムービーが始まり、それが終わるとゾンビ達が襲い掛かってきた。


 きっちり十五分後、桟橋の上でボスと戦っている途中で俺と瑠璃子さんは仲良くゲームオーバーになる。

「んーっ!悔しいなぁ」

 と、瑠璃子さんは肩を落とし、ぶつぶつと駄目だった所を反省し始めた。

 俺としては予定していた時間ぴったりでゲームオーバーになった事に少々運命的なものを感じていたので複雑だ。

「よし!今度機会があったらまたやろう?それまでに練習しておくからさ!」

 それに「いいですよ」と、俺が返すと、「それじゃまた今度な」瑠璃子さんはそう話を切り上げ、バックルームから出てきた霧海さんと入れ替わる形で、ドアの向こうへ入って消えた。

「どこまで行けました?」

 ドアが閉まると同時に、そう霧海さんに訊かれた。

「桟橋のボスまで」

 と、答える。

「あぁ、強いですよね、あのボス」

 唐突に、そこで言葉が切られた。そして霧海さんは、「そういえば」と言いつつ、デモプレイを映していた画面から視線を俺に向けて、話題を変えた。

「品里さんって今日、お休みでしたよね?」

「瑠璃子さんにも同じことを訊かれたよ。これから出掛けるんだ。その前に涼むついでで店長にこの間のお礼をしようと思ったんだが」

「今日はお休みですね」

「らしいな」

 そう返事をしながら頷いたところで、霧海さんが「ふっ」と、吹き出した。

 俺が「どうした?」と、口を開く前に、察したのか理由を教えてくれる。

「都さんへのお礼は、涼むついでなんですね」

 俺は自分の発言を思い出し、「確かに」と笑った。

「それじゃ私は仕事に戻ります」

 気を使ってくれたのだろう。壁に掛けられた時計を見て霧海さんはそう言うと、軽く頭を下げて店内奥へ歩いていった。俺も店を出ることにする。


 店を出ると纏わりつく熱気にうんざりしながらも駅を目指して歩き出した。

 途中、五月に美咲と公園へ行くために通った道を横目に覗いた。この暑さのせいだろう。人通りは無く、あの時もそうだったが看板などに明かりが灯っていないからか、ゴーストタウンという呼び方がとても似合う景色になっていた。

 やがて踏み切りを渡り、駅前にたどり着く。一度立ち止まり広場の時計を確認すると、再度歩みを進めた。

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