三章 8

 時間は八時半過ぎ、俺は宿泊先の旅館「四季」の目の前で寝袋の入った布袋を持って独り立ち尽くしていた。空はすっかり暗くなり、昼間は大勢の人で賑わっていた温泉街も数の少ない街灯に所々照らしだされている場所以外は闇に包まれて、そこには名前も知らない虫たちの大合唱が響いていた。

 それは、まるで外には出るなと言っているようだったが、これから俺は駅前まで行き、今夜の寝床を確保しなくてはいけない。それをお人好しの末路と言えば聞こえは良いが、ただ考えが甘かった結果でしかないので、格好はつきそうになかった。

 何故そんなことになったかと言えば、十五分ほど前まで遡る。

 それは昨日とは違い時間通りに運ばれてきた夕飯も食べ終わり、さて風呂にでも入ろうかと思った矢先のことだった。

 彩音ちゃんの捜索が明日の朝からになった事を伝えてから、口数が明らかに減っていた霧海さんが唐突に口を開き言った。

「今日は一人にしてもらえませんか?」

 別に断ることも出来たが、そうはせず。

「わかった」

 ただそう答えると、財布から五千円だけ抜き出し携帯電話や部屋の鍵と一緒にポケットに滑り込ませて部屋を出た。

 大した考えがあったわけじゃない。この旅行を了承したときと同じだった。

「そんなことでいいなら引き受けます」

 声に出してみて随分といい加減な考えだな、と思った。

 まぁでも、と、階段を下りる。手を伸ばしている所に手を伸ばされたら、普通は掴みたくなるものだろう。それに、だ。何一つ考えていないわけでもない。幾つか当てがあるから簡単に部屋を出ることを選択できたのだ。

 一階まで下りてきた俺はロビーに向かう。そこのフロントで月浜さんを呼んでもらうためだった。だが、ロビーに着いた俺は、呼んでもらう必要が無いと理解した。そこに月浜さんが居たからだ。呼ぶ手間が省けた。と、近づいて声を掛ける。

「どうも」

「どうかなさいましたか?」

 その返事に一瞬違和感を覚えたがすぐに、あの客室じゃないからか。と、納得して言葉を続けた。

「実は霧海さんに今晩は一人にしてほしいと言われて、押入れでも倉庫でも構わないんで寝れそうな場所はないですか?」

 その問いに月浜さんは淡々と答えてくれた。

「申し訳ございませんが、友人の雇った人だからという理由だけで信用は出来かねます。ですから、他を当たっていただけると幸いです」

 期待していなかったと言えば嘘になるが、予想できていなかったわけでもなかった。故に肩を落とすことも無く、「すみません、そうします」。と、返せた。

 それから、さて次はと切り替えて、月浜さんに背を向けようとしたときだった。

「でも、そうですね…少々お待ちいただけますか?」

 と、呼び止められたので「はい」と頷き、待つことにした。

 俺が肯定したことを確認すると月浜さんは土産物コーナーの前を通り、従業員スペースへと入っていった。それから二分と待ってはいなかったと思う。着物を纏っているにもかかわらず、すり足なのに驚くべき速さで何かを手に持って戻ってきた。

「はい、寝袋。みやちゃんのだけど洗ってあるからね」

 周囲を確認しつつ小声でそう言われ手渡されたのは深い緑色の布袋で、言葉の通りなら中身は寝袋らしかった。

「丁度、両親が三宅島の方に旅行でね、昨日から家を空けてて。そうでなければ泊めてあげられたんだけど、悪いね」

「いえ、悪いのは俺の考えの甘さとタイミングです。それにしても三宅島っていうと、噴火の影響ってもうないんですか?」

 月浜さんが小声だったので、俺のほうもついつい小声で返してしまっていた。

「観光には殆ど影響は無いみたいだけど、今でも飛行機は飛べないらしくて、定期船で行くって言ってたかな?」

 そうだったのか。と、呟き返した。

 俺が大学の時に行った後、つい何年か前に大きな噴火があった事はニュースで見て知っていたが、いつの間にか観光できるまでに回復していたらしい。この間の脱線事故もこうして忘れられ、風化していくんだろうか?そんな考えを抱きつつも、ついでに訊いておきたい事があったのを思い出したので、口にした。

「そういえば、ここの料理って朝に出した料理を夜も出す事ってありますか?」

 突然の話題変更だったが、月浜さんは特に気にしていないようで、普通に答えてくれた。

「あぁ、いや、ないよ。そもそも同じ料理を出さないように一週間の献立を組んでいるくらいだからね。もちろん旬の物も意識してるよ?ただ、食材が手に入らない事もあるから、そういう時は別の料理になっちゃうけどね。昨日の季節外れの煮物がそれ」

「ある意味ラッキーだった、と」

「ある意味ね」

 そんなやり取りにフッと笑いあってから、月浜さんが「それじゃ」と、仕事に戻っていったので、俺も受け取った布袋を腕にぶら下げ、旅館の外へと出た。

 富士山の麓と言う事もあってか、夜風は涼しく感じられる。これなら野宿でも寝苦しいということは無いはずだ。だが、その選択肢を取るのは携帯電話と一緒にポケットへと滑り込ませておいた保険を使っても、宿を確保できなかったときでいいだろう。つまりは前回訪れた際に見かけた駅前のインターネットカフェの有無を確認してからでも、遅くはないと言う事だ。なにせ時間は八時半を少し過ぎた辺りで、夜はまだまだ始まったばかりなんだからな。

 ただ、問題は街までの道のりの方にある。俺の記憶が確かなら、バスで通った道以外だと街へはかなり遠回りになるはずで、どの道を通っても街灯が片手で数えられるほどしかなかったはずなのだ。流石に一メートル先もまともに見えない暗闇を歩くことは躊躇われる。故にこうして未だ旅館の前で足踏みをしていたわけだった。

 我ながら情けないと思わなくもないが、人通りが無く街灯や人家の明かりが点っていない夜道は、本当に洒落にならない。怪談のような幽霊や妖怪の類は出てこなくとも、所々ガードレールの無い場所から大した高さでないとはいえ、転落しかねないからだ。

 はぁ、とため息をつき、行動しなければ事態は好転しないと覚悟を決めて、「よし!」そう軽く気合を入れ最初の一歩を踏み出した。ただ、そうしてようやく始まった大冒険は、十歩と進むことなく正面から聞こえてきた声によって出鼻を挫かれる事となった。

「あれ、品里君じゃない。一ヶ月くらい前だっけ?話したのって」

 そんな聞き覚えのある声に、何故ここに?と、疑問符が浮かんだが、昼間に美咲と会っていた事を思い出して納得する。

「確かに、そのくらいだな」

 暗闇から現れた能島先生にそう返すと、

「で、どうしてここに?」

 更に聞き返された。

 一瞬、どう答えようか考え、別に今回の旅行の事で隠すこともないか、と結論が出たので、経緯を簡単に説明した。

 脱線事故でバイト仲間の人が兄を失った所から始めて、店長からの旅行への誘い。そしてその同行者が店長ではなく兄を失ったバイト仲間で、俺を連れて行きたい理由がバイト先でのちょっとした推理ショーが原因だったことを話した。全部で五分も掛からず終わる。

 それを最後まで聞いた能島先生は「あくまで部外者の視点から」と前置きをして言った。

「自分勝手な人だね、その人」

「店長のことか?」

「ううん、同行してる人。私は嫌いだなぁそういう人」

 その言葉に苦笑して俺は矛盾を指摘する。

「純也もそう言う人間だと思うけどな」

 すると能島先生は笑みを浮かべて視線をそらし、空を見上げて呟いた。

「純也君のそう言うところは嫌い。でも、それ以上に好きよ、彼のこと」

「さいですか」

 そう言いつつ俺も空を見上げた。

 大きな雲が幾つかあり、月が隠れ、星々も疎らに見えるだけなので、お世辞にも最高の夜空だとは言えなかった。

「そういえば」

 その声に、反応するように視線を戻す。

「これからどこかに行く予定だった?」

 続けられた言葉はほんの一時忘れていた目的を思い出させるには十分なもので、出来ることなら夜が明けるまで忘れていたい事でもあった。

「ちょっと…駅前のネットカフェにな」

「調べ物…じゃないよね。もしかして追い出された?」

 俺が言いよどんだからか、それとも能島先生の洞察力の賜物か、どちらかはわからないが、殆ど当たっていた。

 ただ、頷くことを俺は躊躇った。霧海さんの願いを聞き入れたに過ぎないのに、それを追い出されたと相手のせいには出来なかったからだ。故に口にした返答はこうだった。

「俺が好きで出てきたんだ。いざとなれば野宿も出来るしな。どこでも寝ることは出来るよ」

 それに理由は何であれ、霧海さんはこれ以上、俺に甘えたくなかったんじゃないか?とも思うのだ。あの部屋は防音だ。一人にならなければ気を使わせてしまうと、そう思ったんだろう。霧海さん自身も、自分勝手な性格を嫌っているのかもしれない。ふとそんな考えが浮かんだ。

 まぁ、何でもいいか、と小さく頭を横に振る。そんなことを幾ら考えたところで俺が霧海さんに出来る事は殆ど無いだろう。

 それより考えるべきはお兄さんの使った魔法の正体だ。そっちを考えたほうが霧海さんの為になる。なにせ、俺はその為に選らばれたんだからな。

「さて、そろそろ行くよ」

 と、会話を切り上げて駅前を目指すことにする。このままもう少し話していてもよかったが、能島先生は俺と違って私用でここに居る訳じゃない。真花ちゃんを消した人だとは言え、杉村純也を探す上で必要な人なのだ。ならば協力者として相手のことも考えるべきだろう。だが、そんな気遣いも全くと言っていいほどに意味を成さなかった。

「ちょっと待って、私の泊まってる部屋に来ない?ここに泊まってるんでしょ?品里君も」

 そう言って俺の後ろにある建物を指差した。それは俺にとって願ってもない提案だったが、故に何か裏があるのでは?と、勘繰ってしまう。

 そんな警戒心を感じ取ったのか能島先生は言葉を付け加えた。

「ただ、私のほかにも先生が四人いる部屋だから、それでも良ければだけど」

 それだけで安心しろ、と言うには無理がある。他の四人が能島先生の仲間という可能性は残ったままだからだ。

 でも、そうか。と、思い出されることがあった。このままでは先には進めない。

 何かを覗き見るには、何かに見られる覚悟を持たなければならない。そうでなければ真の姿を見ることは出来ないからだ。チップは賭けろ。でなければ何かを得る勝負にすら挑めない。知ること、見ること、得ること、全てに代価を提示することだけは怠るなよ?

 そんな杉村純也の言葉に背中を押される形で、俺は返事をした。

「そうだな、そうするか」

 と。それに対して能島先生は「なんか引っかかる言い方だね」そう言いつつも俺の横を通り過ぎて、旅館へと歩みを進めた。

 かくして俺の寝床探しの大冒険は終了したわけだが、十分ほどで戻ってきた旅館のロビーはそれでも明るく感じ、どこか安心することができた。

「あ、部屋にポットって置いてある?」

 先生の後ろについて、ロビーを横切る際にふと思いついたのでそう口にした。

 立ち止まり「あったと思うけど?」そう答えてくれた能島先生は、続けて「何かに使うの?」と訊いてきた。

 俺はそれに答えるために土産物コーナーへと足を向ける。

「たぶん、先生なら知ってるだろ?この旅館に泊まってる女の子が居なくなったことを」

「うん、知ってる。うちの生徒達にも訊いて回ってたらしいから」

 知ってるなら話は早いと言葉を続けた。

「その子と昨日、俺と連れがそこの土産物コーナー前で話したんだ、色々と。詳しくは長くなるから省くが、その子が好きだっていうライオンくらいなら作れそうだと、ふと思いついた」

 そして土産物コーナーに置いてある小さなバケツに入ったカラフルな板状の物を手に取って言った。

「このプラスチック粘土を使ってな」

「へぇ、熱を加えると柔らかくなるんだ。それでポット、ね」

 俺の言葉より手作りのポップに書かれた説明を読んで納得したらしい。

「そういうことだ」

 そう言って一つ百五円の板状プラスチック粘土を六つ、別々の色を選んで取るとレジまで持っていき手早く会計を済ませた。

 それにしても、と土産物コーナーを出て、前を行く能島先生が言う。

「こういう所の土産物コーナーって雑貨屋みたいよね」

 後に続いて階段を上りながら答える。

「直球の土産物だけじゃやっていけないからだろうな」

「まぁそうなんだろうけどね……ここよ」

 と、納得いかない感じで言いつつ鍵を差し込んだのは、二階北側にある角部屋の一つ隣のドアだった。

 不意に気づいたことを訊く。

「そういえば俺が部屋に泊まる事、他の先生達には話してないんだよな、大丈夫なのか?女性の寝室に野郎を連れ込んでも」

 正直、それについて能島先生だけを責める事は出来ない。疑うばかりで他の事に目が向かなかった俺のほうにも当然、非があるからだ。

「あー、ごめんね。それは大丈夫なんだけど…」

 先に部屋に入った能島先生が電気を点け入り口付近で立ち止まると、背を向けたままでそう謝ってくる。他に謝られるような事があったか?と首をかしげて部屋に入って、その理由を察した。

 部屋には既に布団がしかれていた。その数は四枚だ。大部屋ではないので、あと一枚しければ良い方だと一目でわかる。まぁでも、それはさして問題にはならないだろう。俺は右手に持っている深い緑の布袋を能島先生の前に出して言った。

「寝袋、これがあるから大丈夫だ」

「それ寝袋だったの、大きめの巾着かと思ってた。どうりで、ポケットからお金が出てくるわけだ」

 色々と合点がいったんだろう。何度か頷くと部屋の隅に追いやられたテーブルまで行き、逆さで置かれている湯飲みをひっくり返してポットからお湯を注いだ。

「そうだ、今何時かわかる?」

 俺がテーブルの前に腰を下ろすなり、そう訊かれた。

 ポケットから携帯電話を取り出して確認する。九時丁度だった。その事を伝えると慌てた様子で近くに置いてあったリュックサックを開けて、中から布製の筆箱と小さめのノートを引っ張り出した。それから早口で「十五分くらいで戻るから留守番よろしくね!」そう言うと、慌しく部屋を出て行った。

 俺は一人残された静かな部屋の中で、

「無用心な」

 そうぼそりと呟くと、買ってきた板状のプラスチック粘土を一枚、レジ袋から取り出し、熱いお湯が入った湯飲みの中へ、そっと浸けた。


 きっかり十五分後、能島先生は他に二人の先生を連れて部屋に戻ってきた。

 能島先生の言った通りで俺は特に何も言われることなく受け入れられ、事情を話すとライオンのフィギュア製作にも手を貸してくれた。

 その甲斐あってか一時間も掛からずにライオンは完成した。一人が美術の先生らしく、故に実に良い出来栄えの雄ライオンとなった。

 そして十時半を過ぎた頃、風呂が空いたから入りに行かない?と誰かに訊かれたが、歩き回って疲れたせいかとても眠く、動く気にはなれなかったので断ると、テーブルが置いてある反対側の隅で寝袋に入り、さっきからやけに重かった目蓋を下ろした。

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