三章 5
暗く狭い押入れで滞在二日目の朝を迎えてから約四時間後、午前十一時半を過ぎた昼前。一時間ほどで樹海散策を終えた後バスに乗って駅のある街の方へ下りると、俺は霧海さんと一緒に、十年程前にかくれんぼをしたというホテルの前までやってきた。
「この建物全体で、かくれんぼをしたのか?」
そんな俺の問いに隣を歩く霧海さんが正面を向いたまま答えてくれた。
「はい、そうです。これだけの広さなので制限時間付きでした」
「どれくらいの?」
「一時間です。それを兄は十五分も掛からず私を見つけてました。三回も、です」
そう話してくれる声には少々棘があるように感じた。
「他にルールは?」
「鬼が数える時間が一分だということくらいで、あとは隠れる側が一度隠れた場所から動いてはいけないという普通のかくれんぼにもあるルールですね。これを守らないと隠れ鬼になってしまうので」
確かに、と頷いてルールを頭に記憶した。
「じゃあ最後に。かくれんぼをしてる間、持っていた物や特別身に着けていた物はあったか?」
霧海さんは頭を振って、言う。
「何も持ってなかったと思いますし、これと言ったものを身に着けてなかった筈です。部屋の鍵すら持ってはいなかったので」
それに、「ありがとう」とお礼を言って。それから、それにしても、と建物を見上げる。泊まっている旅館から見たときは、川沿いに少々高い建物が並んでいるなと思っていたが、まさかそれが十年程前にかくれんぼの舞台となったホテルや、ここ何年かで新しく出来た商業施設に病院だとは考えていなかった。横に長いのでおしゃれなマンションが立ち並んでいるな。と、思っていたのだ。
七階建てくらいだろうか?最上階の右、方角で西側部分だけ窓が広く横長にとられているのが気にはなるが、たぶんレストランか何かだと思う。そこからなら富士山が良く見えるだろうからだ。
まぁ、外から見ただけでも、間違いなく旅館である四季よりも部屋数は多いだろう。これだと考え方を変えなければ答えは見えてこないかもしれない。
零れそうになる溜め息を堪えて、ホテル中央にある入り口から内部へと足を踏み入れた。
「懐かしい…変わってないなぁ」
中に入るなり、黒いキャップを取りつつそう呟いた霧海さんとは違い。俺は四季に入ったときとはまた別の驚きを感じることが出来た。外から見た感想を言えば程々に古い建物だというものだったのだが、そうは思えないほどに中は綺麗なものだ。
旅館四季や一般的なホテルの一階部分のように天井が高いというわけではないのだが、普通の高さの天井を活かした間接照明と床に敷かれたカーペットの感触により、ふわっとした何とも不思議な感覚を覚える。ホテルの一階ロビーといえば吹き抜けか高い天井というイメージが強かったのでこれはこれで新鮮だった。
入って左手に椅子やテーブルが置いてあり休むことが出来るスペースが確保されていて、そしてその隣にフロントがある。それから正面奥にはエレベーターが三機見えるが、霧海さんがフロントの方へ足を向けたので、俺もそれに続いた。
「あのすみません。オーナーは今、いらっしゃいますか?」
「失礼ですがアポイントメントのほうは」
と、フロントの男性とのやり取りを始めたので、そちらは霧海さんに任せて俺は近くに置いてあった三つ折りの案内図を手に取ると、ヒントになりそうなものを探す目的で、それを広げた。ただ、案内図といっても描かれているのは外観からの予想通りレストランのある最上階などへの案内と、一階ロビーとレストランフロアのマップ、それと裏側に書いてあるレストランで頼めるメニューくらいのものだった。
それによればフロントの反対側、ホテル右側には土産物屋や温泉にトイレや非常階段が細かく描かれているのだが、フロント後ろ側は関係者以外立ち入り禁止のマークが描かれており、その先は案内図のページ端となっているために階段が一つあるだけで、他に何があるのかはわからない。
まぁ、レストランに用のある人間にとって知りたい情報の中に従業員スペースのことがあるとも思えないので、こんなもので十分だとは思う。他にも季節ごとのイベントの予定や結婚式についての事なども書かれてはいたが、今の俺には必要な情報でもないだろう。と、そう思った。
「ありがとうございます」
そんな霧海さんの声が聞こえ、話が済んだことがわかる。
「どうだった?」
一応そう訊いたが、俺としてはどちらに転んだとしても同じことだと考えていた。どちらというのは、オーナーの許可を得て客室のあるフロアを調べられるか否かの話である。なので、霧海さんが首を横に振って駄目だということを示しても、さし当たって問題というものは感じなかった。
「まぁ見れなくても、たぶん問題はないだろう」
励ます意味も込めてそう言ったのだが、霧海さんには理解できないようで、「どうしてですか?」と返されてしまった。
それについて説明するのが面倒というわけではないので話すことにするが、その先のことも考えてフロントの隣にあるスペースのほうを指差して言った。
「とりあえず座らないか?」
その提案に頷きで答えた霧海さんと一緒に休憩スペースまで行くと、丁度空いていた窓際のテーブル席に腰を下ろした。
「それで、どうして見れなくても問題ないんですか?」
座るなり今にも身を乗り出さん勢いで訊いてきたので手で制しつつ、一つ質問をした。
「霧海さんはここでかくれんぼをした時の。十年程前の自分の身長を覚えているか?」
「確か百四十センチくらいだったと思います」
首を傾げながらも答えてくれる。その返答に俺は頷き、まぁそんなもんだろう。と言ってから、説明を始めた。
「とりあえず、だ。このホテルはかくれんぼをするには広すぎる。全体をただ見て回るだけでも三十分くらいは掛かるだろう。だとすれば制限時間以内に見つける為には探す場所を絞る必要があるわけだ。
まず、百四十センチくらいの人間が隠れられるような場所はホテルの中にも一定数はあるだろう。が、それらの殆どが客室だ。そうでない場所はフロントに置いてあったこの案内図によればロビーなどのある一階部分と最上階のレストランだけなんだろう。もしそれ以外の場所があるなら、それについての案内がどこかしらにあるはずだ。図書室だったり、ゲームコーナーなどのな。
そうなると隠れられる場所は自然と限られてくる。何故なら、だ。このホテルに初めて訪れた霧海さんは、人の多く行き来するロビーや、かくれんぼをしていれば怒られてしまいそうなレストランを避けて、出来るだけ人の往来が少ない客室フロアを選んだだろうからだ」
「どうして往来の少ない場所を選んだと思うんですか?このロビーにだって隠れられそうな死角になる場所はいっぱいありますよね?今の私じゃはみ出るでしょうけど…」
自虐とも捉えられる発言はともかくとして、予想通り疑問の声が飛んでくる。
確かに霧海さんの言うとおりで、改めて軽く見回してみると隠れられそうな場所は多い。まぁでも、そこに隠れた可能性というのは極めて低いと俺は思うのだ。
「かくれんぼが自慢になるような霧海さんが隠れたいと思えるような場所は、今でこそ多いだろう。でも、それは霧海さんが既にここでのかくれんぼを経験しているからで、尚且つ十年程前よりも成長しただからだ」
「慣れてないから隠れる場所が思いつかなかったと言いたいんですか?そんなことは」
「ないだろうな」
首を横に振りつつ割り込んだ。そして続ける。
「確かに隠れるのに適した場所をいくつも見つけたんだろう。今と違って背丈は平均的なものだったみたいだしな。でも、殆どが候補に入ることはなかった。それは何故か?
かくれんぼと言っても二人だけ、しかも隠れる側と探す側に別れてしまえば一人ずつだ。事情を知らない人に隠れるところを見られて注意されるのを、小学校高学年の子供ともなれば嫌うのは当然のことだろう。
そうだ、かくれんぼは隠れる場所によっては怒られる。そんな怒られるかもしれないことを慣れていない場所でやるなら、人目につかないほうが都合が良い。例えは悪いが悪戯と一緒だよ。
つまり、人の往来が多いロビーとレストランは、心理的に自然と隠れる場所の選択肢から外れることになる。というわけだ」
そこまで言い終えて俺はテーブルの上に先ほど広げてそのままにしておいたレストランの案内図を指でトントンと突いて本題に入る。
「それで客室フロアを見ていない俺でも一箇所だけ霧海さんが隠れたであろう場所に当たりをつけられた。ましてや霧海さんのお兄さんは俺とは違い客室フロアやそれ以外の場所も見ていたんだろう?なら霧海さんの隠れそうな場所くらいは解ったはずだよ」
はぁー、と言いつつ頷く霧海さんを見て、少なからず納得してくれたことに俺は安堵する。ただ、それも束の間のことだった。
「でも、それだと客室フロアを見なくてもいい理由にはなりませんよね?」
おぉ、と思わず声に出そうになる。今日の霧海さんはとても冴えていた。と言うよりも、今までのことは自分と直接関係の無いことばかりだったから、断片を見落としていただけだったのかもしれない。
「まぁ、ならないだろうな」
「じゃあ」
と、身を乗り出した霧海さんを再度、手で制して言った。
「解き方が違う。十五分も掛からず見つけたと言うが、それだって不可能に近い事だ。いくら隠れている場所を絞れるからと言って、この規模のホテルから隠れた人間を短時間の内に見つける。余程運が良くなければありえない。そして霧海さんは言ったはずだ。三回とも十五分も掛からず見つかった、と。
霧海さん、お兄さんは自分で言っていたんだろ?魔法が使えるって。それをそのまま魔法と受け取る必要は無いが、かくれんぼにおいては魔法のような手段がいくつかあることは加味して考えたほうが現実的だ。特に今回のような時間的制限がある事柄に関してはな。
それで、だ。ホテルを正面から見て左の奥側、非常階段二階にある客室フロアへ通じる扉の裏以外には、どこに隠れたんだ?」
その俺の言葉に霧海さんは目を丸くして二、三度瞬きをして訊いてきた。
「どうして…わかったんですか?」
どうやら俺がさっき案内図を指で突いた意味が伝わっていなかったらしい。流石に純也や美咲のようにスムーズに話が進まないな、とも思ったが。でもまぁ、それが普通だろう。一を語れば十まで伝わるほうが異常だ。それに、新歓の時も昨日の夜も全てを説明して理解してもらえた。今更だな。と、話を続けた。
「さっき、一箇所だけは当たりがついたと言っただろ?
ま、聞いてくれ。この案内図によれば右、ホテルの西側に階段が二つほどあることがわかる。ロビーに近い場所にある階段は日常的に利用されるもので、建物の奥にある階段は非常階段と明記されている。そしてエレベーターと階段は比較的近い位置にあるのに、非常階段は建物の奥に位置しているんだ。
これだと横に長い建物では端に行くほど階の移動が面倒になりかねない。他に階段やエレベーターが見つからないので、実質日常的に非常階段が使用されているのだろうと考えられる。ただ、それでもエレベーターを使う人間のほうが圧倒的に多いだろうがな。
では、それらを踏まえた上で案内図の左、ホテル東側はどうかと見ると、これにはフロントの後ろ側は階段が一つ描かれているだけで、その先は関係者以外立ち入れないスペースだからか紙の端に到達し、描かれてはいない。でも、そちらにも右側と同じく奥に非常階段があるはずだ。無ければもしもの時の避難経路が遠回りになるだろうし、建築物として問題だろうからな。
つまり左側奥にも非常階段はある。でも、ホテル左側は一階が関係者以外立ち入れないわけだから、非常階段を二階部分で立て札か何かで通行止めにし、一階へは下りられないようにしているんだろう。それに加えて従業員専用、または従業員優先のエレベーターもあるはずだ。レストランが西側にあるなら反対側は厨房だろう。となると東側は一階も最上階も従業員のスペースだ。ルームサービスなどを運ぶのにも利点があるからな、専用のエレベーターくらいあっても不思議じゃない。…どうだ?」
と、霧海さんにここまでの推論に間違いがないか確認する。
「はい、確かに東側の端には階段もエレベーターもありました。エレベーターの方が従業員専用かはわかりませんけど、部屋に戻ろうとした時にボタンを押しても反応が無くて壊れているのかな?って思ったことを覚えています」
頷き、間違いはなさそうだと推論を先に進める。
「だとすると、この非常階段の二階部分は従業員の往来が極めて少ないだろう。そしてそこの扉が閉まってようが開いていようが、従業員でなければ気にする人間はそうそう居ない。ましてや扉の裏に人が隠れているなんて、誰も思わないだろうからな。人目の気にする子供にとっては、絶好の隠れ場所というわけだ。
これでわかっただろ?今回、必要なのは見る事じゃない。どんな手段を講じて見つけられるのか。その共通点を隠れた場所から推測することだからだよ」
言い終えて、しっかりと説明したからだろう喉の渇きを感じた。辺りを見回して、すぐ近くに自動販売機を見つけて席を立つ。
「霧海さんも何か飲む?」
と、一応訊いたが、首を振って「大丈夫です」と返されたので何を飲むかという思考へシフトした。
結局、水の精霊の名を冠したスポーツドリンクを買って、その場で一口飲んでから席に戻る。腰を下ろすなり言葉が三つに区切られて飛んできた。
「五階左側非常階段前の自販機スペースに置いてあるソファーの背もたれと壁との隙間。品里さんが言った二階左側非常階段の扉の裏。四階ベッドメイクで交換したシーツを入れるカートの中。この三箇所に隠れました」
始めは何を言われているのかさっぱりだったが、途中でわかった。最後まで聞いてから理解できたと二度頷いて伝える。
五階に二階に四階。そして、ソファーに扉にカートか。全身がしっかりと隠れる場所という意外に、これと言って共通点というものは無さそうだ。ならば先に気になったことを訊いていくことにする。
「よくカートの中に隠れようと思ったな。見つかったら怒られるだろう?」
「泊まっていた部屋と同じ階でシーツの入ったカートを押してたおばさんに、かくれんぼしてるんでしょ?ここに隠れない?って言われて隠れたんです」
「と、言う事は、かくれんぼの二回目か三回目だな?」
「はい、三回目でした」
そうか。と、返して一旦沈黙する。少々考えを巡らせて、一応予想はあるが確認の為にも訊いておくか。と、次の質問へと移った。
「カート以外に隠れた場所はそれぞれ何回目だったんだ?」
「ソファーが一回目で、扉の裏が二回目です。…これで何かわかるんですか?」
さぁな、そう答えると、場所を考えてか抑え気味で抗議された。それを無視していくつかの推論が立ちそうで立たないもどかしさに、一度頭をリセットするためにポケットから携帯電話を取り出して時間を確認する。ちょうど十二時を過ぎたところだった。道理で腹が減るわけだ。
一旦休憩を提案する為に口を開く。
「さて、十二時も過ぎたことだし、続きは飯でも食いながらにしよう。腹が減っては何とやらだ」
言いつつ広げていた案内図を畳み、それを携帯と一緒にポケットにしまいながら、そう言えば、と。席を立つためテーブルに手をついた霧海さんに質問を投げ掛けた。
「そう言えば、かくれんぼって午後にやったのか?」
ベッドメイクをしていた事からそう考えたのだが、返答は肯定するものではなかった。
「違いますよ?午前中にやったんです。お昼前の十一時とか十一時半とか、そんな時間だったと思います」
立ち上がって霧海さんはそう言いつつ首をかしげていた。俺もそれを真似したかったが、そういう所もあるのかと納得して、それを口にする。
「ベッドメイクが午前中なんて珍しいな」
「えっと、それはお昼寝する人が居るかららしいですよ?その為にお昼前に各階で一斉に二人一組で一気にベッドメイクを済ませるんだよ。って、私を隠してくれたおばさんが教えてくれたんです。でないと部屋数が多くて終わらない。と愚痴もこぼしてました」
俺は頷き、ならばと更に質問を重ねた。
「訊きたいんだが、霧海さんの泊まってた部屋は大体どの辺だったか覚えてるか?」
「四階の中央のエレベーター右、方角で言うと西側で、真ん中寄り南側の部屋…だったと思います」
その返答を聞いて俺は天井を仰ぎ、断片がかちりと組みあがっていくのがわかった。そして霧海さんの方を向いて言う。
「わかったよ。魔法の正体が」
「本当ですか!?」
さっきまで声を抑えていたのに俺の「わかった」。その一言でリミッターが外れたかのように声のボリュームを抑えることなく霧海さんはそう言った。
いつかの居酒屋を思い出す。純也が痛いと言っていた視線が今まさに感じられ、俺は苦笑しつつ諭すように言葉にした。
「霧海さん、そんなに声を張らないでくれ。視線が痛い」
ハッと口に両手を当てて周囲を見回して確認する姿は、まるで小動物のようだった。
少々周囲の視線を集めたホテルのロビーから外へ出ると夏と言う事もあり、強い日差しに露出した肌が焼けるのがわかる。霧海さんの方を見ると、屋外へ出たのにさっきの失態の動揺が抜けないのか、脱いだ帽子を手に持ったままで被る事を忘れているようだった。
それを教えてあげ、バス停までの道を歩きながら霧海さんのお兄さんが言ったらしい魔法とやらの正体についての説明を簡単に済ませる事にした。
「たぶんだ。お兄さんは人に訊いたんだよ。霧海さんを見かけなかったか?って」
え?と俺の方を見て立ち止まった霧海さんに釣られて、俺も一度立ち止まる。すぐに「続けてください」と言って歩き出した彼女に歩幅を合わせて、言葉を続けた。
「かくれんぼにおいて魔法のような事と言って一番に思いつくのは発信機やGPSの類だろうが、大きなホテルと言ってもGPSで探すには狭すぎる。精度がそこまで良いわけじゃないGPSでは無理だ。かと言って霧海さんから気まぐれに提案されたかくれんぼで、発信機なんてものが使われたとも思えない。故に却下だ。
次に共犯者が隠れる人間を追跡する方法だが、辺りを警戒しながら隠れる霧海さんを追跡するのは馬鹿げてるし、そもそもそんな共犯者が居たら、別の理由で悪目立ちする。だからこれも却下だ。
となると残るはその辺に居る人に霧海さんを見かけたかを訊いて回る方法だ。別にどこに隠れたかを訊かなくてもいいんだ。左右どちらへ行ったかだとか、上か下のどちらへ行ったかだけで十分なんだ。なんせ隠れられる場所はある程度、予想できているんだからな。
ただ、これにも問題がないわけじゃない。客室フロアではロビーなどと違って常に廊下に出ている人が居ないからだ。これでは見ていない人は愚か、見ていた人に話を訊く事すら困難になる。でも、だ。その時は違った。行き先を訊くのに最適の人間がちょうどそこに居たわけだ。さて、ここまで言えばわかるだろ?」
隣を歩く霧海さんは頷き、
「ベッドメイクをしていたおばさんですよね?」
そう答えた。
「そうだ。隠れる場所を決める時間は一分しかない。だとすると相当急いだはずだ。もちろん霧海さんは走っただろう。走ったなら幾ら床が音を吸収する素材だったとしても多少の足音は鳴る。するとその足音で走る事を注意するために、そこに居てベッドメイクをしていた二人のうち一人が見たはずだよ。隠れる場所へ急ぐ霧海さんの後姿を、だ。その証拠に三回目でおばさんにかくれんぼをしている事を訊かれているしな。あとはさっき言ったとうり、どっちへ行ったか訊いて、場所を絞って見つけるだけだ」
本当に大した魔法だ。蓋を開けてみれば仕掛けにがっかりするマジックのよう。だが、ここまで言っても霧海さんには説明が不十分だったらしく、
「でも、それだと左右は分かっても、おばさんに追いかけでもされない限りは上下が分かりませんよね?」
と、返されてしまう。
どうやら霧海さんは自分で言った条件を忘れてしまったのだろう。
「霧海さんは十五分ほどで見つかったんだろう?十五分は全体を探すには短いが、範囲を狭めすぎると長い時間だ。特にスタート地点がホテルの中層ならなおの事。なら、お兄さんは左右だけで探したんだ。このホテルは横には長いが高さは無いからな。十五分もあれば一階と最上階を除いた五階層くらいは十分探せた筈だ」
「じゃあ、最後に隠れたカートはどうして分かったんですか?訊いて確認することは出来ないですよね?」
「それはもっと簡単だ。カートは一方向にしか進まない。その中に人が一人隠れれば積載量が増える。そして前二回と見ていたんだから、部屋数とシーツの量が合わないことくらい。すぐに分かっただろう。霧海さんのお兄さんならな」
建物の角を曲がって見えてきたバス停に人の姿は無かった。既にバスが一本出てしまって間もないのだろう。
バス停に直射日光を遮る屋根があることに感謝をしつつ、横目に俯きがちな霧海さんを見て言った。
「無理に飲み込む必要は無い。所詮は推論、確たる証拠がある訳でもないからな」
かと言ってこれ以上を望まれても、お兄さんが亡くなってしまっているので、どうすることも出来ないのだが。それは霧海さんも分かっているみたいで、口にはしなかった。
こうなる事は分かっていた。推論を並べて見せることが限界だろうな、と。客室フロアを見なくてもいいと言った理由はそこにもあった。
俺はバス停に置かれたベンチに座る。日が少し当たっていた部分だけ、熱を持っていた。
「座らないのか?」
立ったまま、隣の席を見下ろす彼女に声をかけた。が、反応は無く。考え事をしているのか微動だにしない。まぁ無理強いは良くないと思い、視線を富士山へと向けた。
ふー、と空気が抜けるような溜め息が俺の口から出て行く。この旅行で悩む事はもう無いんだ。そう心のどこかで安心しきっていたからだろう。
だから、バスを待っている間に霧海さんが突然言い放った言葉に、俺はやっとの思いで登りきった山が実はただの丘で、その先に見えた壁のような物が山だと言われた時のような衝撃に打ちのめされる事となった。
霧海さんが言ったのはこうだった。
「じゃあ、兄が樹海で迷った私をすぐに見つけられたのも、人に訊いて当たりをつけたからだったんですね」
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