三章 2

 七月に入って最初の週の土曜日。

 いつもならバイトに勤しんでいる午後二時過ぎ、俺と霧海さんは電車に揺られていた。

 例年より少し早いが昨日、梅雨が明けた。そのせいか日差しが強くなり気温も急激に上がり始めたというのに、俺の前に座る霧海さんは黒色のキャップを被り、長い髪はポニーテールにして、長袖のTシャツに足首まで隠れるベージュのパンツを穿き、靴もスニーカーと完全防御の装いで、とても暑そうに見えた。

 待ち合わせた駅で対面したときに、「暑くない?」と訊いたところ、

「そんなでもないですよ。それに紫外線を浴びるなんてありえないです」

 涼しい顔で黒縁眼鏡を右手でクイっとやりながら、そう言われたのだ。

 まぁ、暑さで倒れるようなことにならなければ、俺も他人の格好にとやかく言うつもりは無い。それに富士山の麓は俺の記憶が確かなら、夏でもそれなりに涼しかったはずなので、虫対策も含め、ちょうどいい格好なのかもしれなかった。

 それより更に気になる事がある。それは彼女の荷物の量だ。

 その一つである赤いスーツケースが今、俺の足の間に挟まっているのだが、それがそこそこに大きいのだ。それに加えて彼女はウエストポーチにショルダーバッグまで身に着けている。とてもじゃないが二泊三日の旅行の荷物には見えない。これから駆け落ちするんです、と言われたら信じてしまいそうだった。

 そんな霧海さんの多量な荷物に比べて俺の持ってきた物と言えば、大きめのリュックサック、それ一つだけだった。中身も着替えと歯ブラシ、あとはせいぜい文庫本が一冊隙間に滑り込ませてあるくらいだ。他にも色々持って行こうかとも考えたが、経験上それほど重要じゃないだろうと思い置いてきたのだ。

 それに、もし仮に足りないものがあったとしても現地で調達すれば良い話で、なにせ三回目の富士山である。現地にスーパーやホームセンターがあることは知っていた。ただ、今回泊まる場所からそこまで行くのに、三十分以上は歩かなければならない事が欠点ではあるが…。

 正直な話、男性と女性の荷物の量に差が出ることは分かってはいた。でも、ここまでとは思わなかった。だから、この赤いスーツケースの中に何が入っているのかを知りたくもあるが、直接訊くのは憚られる。もしかしたら中を見る機会があるかもしれない。それまでの楽しみにでもして置くことにして。それよりも、と、考えを別に移した。

 目的の駅まではあと一時間半くらい掛かる。それまで何をして過ごすかが、持ち物の事を想像するよりも重要な当面の課題だった。

 あいにくと俺は霧海さんの事をよくは知らない上に、先々月の事も踏まえると何かと話題を振るのにも躊躇してしまうので、会話での時間潰しは無理だと思った。かと言って、かなりの速さで流れていく外の景色を見て過ごすには、歳を重ねてしまっているので楽しめはしないだろう。

 最後の手段ではあるが本を読むというのも手ではある。本来は寝る前に読もうと思って持ってきた本なので、駅を降りてすぐの街に古本屋があったかが気になるところではあるが、正直言ってスーパーとホームセンター以外は知らない。少なくとも温泉街に無いことだけは分かってはいるが、どうだろう?

 だが、これ以上は他に良いアイディアも出てきそうにないのも事実である。

 まぁ無理して楽しみながら時間を潰す必要も無いかと諦めて、色々と停滞している現状を、打破する考えを、巡らせても良いとも思うのだ。

 でも、せっかくの旅行だからな。それに純也の事ばかり考えていても、しょうがない。ここは持ってきた文庫本を読んで時間を潰す事にしよう。そう思い背負っていたリュックサックを霧海さんのスーツケースの上に置かせてもらい、手探りで文庫本を掴んで引き出した。

 今回持ってきた本は、五月の葉山邸張り込みの際に読もうと思っていた本の続編で。一つ一つの物語にしっかりと謎が張り巡らされているので気がつけば引き込まれている。一冊で何回も断片がカチリと繋がる感動を得られるのが特徴の短編集だ。

 リュックサックを体の前面で背負い直してから文庫本を開いた。右手でつり革を掴み、左手で器用に本を持ちつつ指でページを捲り、綴られた文字を追いかけていく。夢中、その言葉が今の自分を形容するに相応しいと気づいたのは、不意に霧海さんに呼ばれたときだった。

「品里さん!」

 決して大きな声ではなかったが、何度呼んでも反応がなかったからだろう。脚を軽く蹴られながら呼ばれた。

「な、何だ?」

 と、驚き訊き返しながら、富士山へは直通だから乗り換えは無かったはずと、他に呼ばれるようなことが無いか考えを軽く巡らせる。ただ、その疑問はすぐに霧海さんの「席、空きましたけど?」と告げられた言葉によって霧散した。

「あぁ、ありがとう」

 お礼を言いつつホッとしながら霧海さんの隣に腰を下ろした。周りを適当に見まわして、いつの間にか他の客が殆ど居なくなっている事を知った。電車は停まっておりホームに設置された看板の駅名が目に入る。やっと半分を過ぎた頃だろうか?

 タヌキ注意の看板が見えたり、周りの景色も緑が多くてどこか都会とは違う気がした。

「そういえば品里さんは富士山に行くのって何回目なんですか?」

 その霧海さんが言った複数回訪れている事が前提の質問に苦笑しつつ、「三回目」。と答え、手に持った文庫本にズボンのポケットから出した切符を挟んで一旦閉じる。これから二編目の謎解きに入ると言うところだったので続きを読んでしまいたくもあるが、まぁ何度も読んだ本なので今は霧海さんとの会話を優先する事にした。

「やっぱり修学旅行とかで、ですか?」

 頷く。

「ですよね、定番って言うよりも伝統って言う方がしっくりくるってレベルで富士山ですよね」

 伝統の一言で片付けられても困るレベルだと、修学旅行先に選ぶ大人たちには是非とも知ってもらいたいものだが、この国のシンボル的なものであることも事実だしな。と、思いつつも愚痴がこぼれる。

「いくら近いからと言ってもな、限度がある」

「…すみません」

 謝られてから気づいた。そう、今回の富士山は霧海さんの誘いなのだ。最初に聞いたのが店長の口からだったので、うっかりしていた。

「悪い、そんなつもりじゃなかった」

 と、慌てて謝り、言い訳のように続ける。

「高校時代に修学旅行と卒業旅行で二回行ったんだ。そのどちらも男だけで、楽しかったがどうにもな。…だから、今回は霧海さんと来れて良かったよ」

 それに対しては霧海さんにフッと鼻で笑われたが、元はと言えば俺の失言だったので文句は言えない。

「そういうことは、帰るときに言うもんじゃないんですか?」

 笑い混じりに言われて、確かにな。と、二度頷いた。

 お待たせしました、発車いたします。と言う車内アナウンスと共にドアが閉まり電車が動き出す。特に何も無いような駅だった気がするが、それにしては長く停まっていたように感じた。

「あ、もしかして品里さんって、彼女居ない歴イコールの人でした?」

 さっきの話から推測したのだろうか、ゆっくりと速度を上げていく電車に揺られる体を捻って、俺の方を向いて訊いてくる。

 どう答えるか迷ったが、当たっているので否定はしないことにした。ただ、多少の言い訳を混ぜて返答する。

「もしかしなくても、そうだ。高校が男子校だったからな」

「あぁだから修学旅行が男子だけだったんだ。…でも、大学に進学したんですよね?」

 追い討ちに、はは、と乾いた笑いがこぼれて、それが返事になった。

 大学時代は高校の時とは一変して勉強と杉村純也の思考講座に熱が入っていたせいでサークルに参加する事もなく、基本的に一人で過ごした。結果として考え方は身についたが、コミュニケーション能力は高校生の頃から何一つ成長が見られなかった。故に人の用意したサプライズを台無しにするような事になるわけである。

 はぁ、と溜息を吐きたくなるが、大学生の頃を思い出していたらタイミングの良いことに、霧海さんの事で話題を変えるに充分な疑問が頭に過ぎったので、ちょうど良いと訊くことにした。

「そういえば霧海さんは、そろそろ就活の時期じゃないか?」

「え、あぁ、でも私、既に就職先が決まってるので関係ないです」

「決まってる?」

 意外な返答にそう聞き返した。まだ七月に入ったばかりで、幾らなんでも早すぎる。コネでもあったのだろうか?という考えがすぐに浮かんだが、続けて訊くことはせずに彼女の返答を待った。

 少々の時間俯いて過ごした霧海さんは、視線を正面の誰も座っていない座席の後ろ、窓の外に向けて淡々と言った。

「母の会社に入る事が決まってるんです。…ずるいですよ、我ながら」

 そう言うと霧海さんはそっぽを向くように電車の進行方向へと視線を移して黙ってしまった。これ以上は雰囲気からして話してくれそうにないので、俺も無理に訊くことはしないでおいた。

 それからは読みかけだった本の続きを読む気にもなれず、終点まで窓の外の景色を見て過ごした。

 途中、電車が遅延しているという車内アナウンスが流れる。

 どうやら五つ先の駅と駅との間で、野生動物を撥ねてしまったことによる安全確認が原因らしい。それを聞いて、いよいよ都会らしさが失われてきたな、と。そう感じた。

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