二章 5

「ごちそうさま」

 先にそう言ったのは美咲だった。俺はハンバーグを一口とご飯一口を残すのみで先を越された。勝負をしていたわけでもないので、別段気にする必要も無いことなのだが、まぁアレだ、男としてはというやつだ。

 小学生の頃のことは薄らぼんやりとしか思い出せないが、あの頃はいろいろな速さ自慢と暗算の出来る人間が頂点に立っていたなと思う。変わって最近だ。俺の勤めていた部署では上司が、「俺も含めて皆が同じ場所に立っていると思ってくれ」と言って形だけでも平等が掲げられていた。

 どちらかが優れているとは思わないが、後者の方が俺好みだった。

「不要なプライドは、その人の価値を貶める。か」

 声には出さずに口だけ動かし、かつての上司の言葉ごと残ったご飯とハンバーグをよく噛んで飲み込んだ。

「ごちそうさま」

 箸を置いて、手を合わせる。それから何杯目かわからない水を注いで一気に飲み干した。

 時計を再度確認すると七時半近い。もう少し話しておきたい事も無くはないが、あまり遅くなってもいけないので、

「払いは俺が持つよ」

 と言って、店員の置いていった伝票を指の間に挟んで取ると、カバンを持って立ち上がった。

「私の分は、私が払うわ。その為にシーフードサラダとミートソーススパゲッティにしたのよ?」

 そう言いつつ彼女も立ち上がる。そして、こちらに千円札を突き出してきた。俺は伝票に視線を落とす。彼女の頼んだスパゲッティとサラダは合わせて千円ちょうどだった。だから、あんなに選ぶのが早かったのか、と苦笑して、伝票を指で挟んだままの手の平で千円札を押し返しながら言ってやる。

「受け取らないからな。別に好きなものを好きなだけ頼んでよかったんだ。俺が大人だって忘れてたのか?」

 というよりも彼女のことだ、大人と子供の区別はしないと思っていた。故に何も言わなかったが、それが裏目に出たわけだ。まぁ俺が彼女をまだ子供なんだと、しっかり認識できていなかった。そう言うことだろう。

「そうね、大事なことを失念していたわ」

 素直に言うことに従って千円札を財布に戻してくれたが、後味の悪い収め方をしたなと反省する。それでも俺は彼女の素直さに感謝して、レジに向かう途中すれ違い様に、「悪いな、ありがとう」と囁いた。

 それが気に食わなかったのか、すぐに彼女は追いかけてきて、

「それは私の台詞だわ」

 と、俺の背中を軽く殴った。いててとオーバーにリアクションしつつ、照れ隠しだと思っておこうなどと、くだらない考えが頭の中を巡る。

 会計を済ませ外へ出ると、まあまあ開けた駅前だからか少し強めの夜風が吹いていた。それが食後の僅かに火照った体には、冷たくて心地よく感じられる。

「それじゃ、家まで送るよ」

「やめて。この前みたいに、あらぬ誤解は受けたくないわ」

 俺の善意はあっさりと拒絶される。じゃあこの前、手を繋いで歩いたのはなんだったんだ?と突っ込みたくもなるが、まぁ彼女の言う事にも一理あるので引き下がることにした。

「でも、改札までは許してあげるわ」

「さいですか」

 と、善意の乗った皿から、ほんの少し零れ落ちた配慮の言葉に俺はそう返事をしつつ、歩き出した彼女の背中を追った。少し歩幅を大きくすれば隣を歩くことも可能だが、あらぬ誤解も怖いので斜め後ろを歩くことにする。まぁ、たかが百メートルもない距離を一緒に歩いたところで、何があるわけでも無いだろう。

「そういえば、さっき財布の中を確認したら、真花ちゃんから貰ったシールも消えてたよ」

 確か蝶と蛙の混ざったモンスター『スーパーカエル』だったと思うが、大して喜べないお礼だったとは言え、真花ちゃんの残した物が消えると少し寂しさを感じる。

「あぁ、あなたも貰ったの。私も出会った頃に貰ったわ。私にぴったりだって言って、『ヘビーデビル』とかいう蛇頭の悪魔が描かれたシール。あなたのには何が描かれてたの?」

「蝶の羽の付いた蛙で、『スーパーカエル』だったはずだ」

 それを聞いた美咲は、フッと吹き出し小馬鹿にした感じで言う。

「あなたには、お似合いだわ」

「んな、わけあるか」

 などと、くだらない会話をしている内に、気づけば改札の目の前まで来ていた。

「それじゃあ、また連絡するわ」

「おう」

 と、そんな軽いやり取りで別れる。そのはずだった。

「あれ、品里君に葉山さん?こんな所で会うなんて奇遇ね。デートか何か?」

「能島先生こそ、どうしてここに?」

 突然の事にも動じず、そう答えたのは美咲だった。

「最寄り駅なの。私が住んでるマンションの、ね」

 能島先生はそう答えたが、呆気に取られていた俺は反応が遅れ、挨拶をするタイミングを失った。だが、その方が結果的に都合がよかったと気づく。先程までファミレスで美咲と話していた事をこれで自然と実行できるわけだ。なので、二人の話に耳を傾ける。

「先生って割と良い所に住んでいるんですね」

 と、美咲が言うと、能島先生は首を横に振って否定した。

「駅からは近いけどね。オートロックもエレベーターも無い五階建てマンションの四階。あまり良いとは言えないかな」

「ふうん、そういうものかしらね?」

 そう返した直後だった。あ、そうだ。と美咲が何かを思い出したかのような声を上げる。

「ちょうど良いわね。そういえばさっき品里さんが先生に訊きたい事があるって言ってたわ。確か知り合いの…藁谷真花さんだったかしら?その人が居なくなったらしいんだけど、先生が会った事がある人みたいで何か知ってるんじゃないか、って話を聞きたいそうよ?」

 おいおい。と思いつつも口や表情には出さず、先生の反応を窺う。

「聞いた事が無い名前ね。他に特徴とか詳しい情報は無いの?」

 声や表情、身振りから動揺は感じられない。真花ちゃんが手を上げたときはあっさりと驚いて見せた事を考慮すると、嘘は言っていないように思えるが。そう考えながらも、多くは語らないよう注意しつつ必要最低限の返答をした。

「いや、特には、背が俺より少し低いことぐらいしか」

 故にそれくらいしか言う事がなかった。

「それだけじゃ流石に無理ね」

 すぐに返事が返ってくる。だよな、と、心の中で同意した。それでも美咲は攻勢の手を止めない。

「気になっていたんだけど、先生と品里さんってどういう関係?」

「高校時代の教師と生徒よ。まぁあの頃の私は担任になれるほど経験を積んでたわけじゃなかったから、時々授業をするくらいの先生でしかなかったんだけどね」

 時々だが生徒と一緒になってゲームもやってただろう、と口には出さずに突っ込んだ。

「へぇ、そんな先生が品里さんのことを覚えてるなんて、付き合ってたのかしらね?」

「違います。私が付き合っているのは品里君の親友の方とよ。品里君とはなんでもないから。そうよね?」

 能島先生は俺に同意を求めてくるが、別の事に気を取られて、「ん?あぁ」と、答えるにとどまる。

 一瞬、聞き間違いかと思った。だが確かに能島先生は、俺の親友と言ったのだ。俺には純也以外に親友と呼べるような人間が居ない。つまり黒頭巾などの都市伝説に繋がりがあるかはさて置いて、能島先生は少なくとも杉村純也の事を覚えている。その確証が得られたわけだ。

 だからと言って俺は事を急ぐ愚行は犯さなかった。今回は美咲の時とは違う。能島先生が何かを知っていて隠しているのならば、攻める側は極めて不利だ。些細なミスも許されない。故に俺は口を挟まず美咲に任せることにした。

「気がつけば親友に彼女が居た、と。だから、とんだナンパ野郎になったわけね。納得したわ」

 信頼や信用と言うものは儚いな。と、思いながらも、間違った解釈で納得しないでくれの意を込めて、

「違うからな?」

 と、そう反論する。だが、美咲は無反応を貫き、見かねた能島先生が、

「品里君、色々と苦労してるのね」

 そんな言葉を掛けてくれた。

 弱った心に甘い言葉がどれほど効果的か、少しだけ解った気がする。

「それじゃあ、そろそろ帰るわ」

 俺が背にしている時計に視線をやって確認した美咲がそう言うと、能島先生も自分の腕時計を見て、

「うん、もういい時間だしね。気をつけて帰るのよ?」

 と、先生らしい返事をした。

 ただ、その二人のやり取りに俺は疑問符を浮かべるほか無い。今日のところはこれでおしまいと言うことだろうか?と、確認の為に美咲へ視線を向けたが、既に彼女は改札への一歩を踏み出しており、目と目が合う事は無かった。

「あ、そういえば能島先生、修学旅行の部屋割りってどうなったの?」

 背を向けたままで足を止めた美咲が訊いた。

 それに能島先生は携帯電話を取り出しながら答える。

「あー頼まれてたやつよね?あれはちゃんと友達と……」

 そこで先生の言葉も動きも止まった。

 美咲は振り返り、三歩進んで元の位置へと戻ってくるとこう言った。

「部屋割りがどうなったのか、訊いただけよ?私が違うクラスの担任に、修学旅行の部屋割りの事で頼む事なんて無いでしょう?学校で孤立していることは先生ならよく知っているんだから…。私に友人は居ないのよ?」

 能島先生が、はぁ、と息を吐いて首を横に振ると、

「降参」

 そう言って軽く両手を挙げアピールした。

 一瞬、俺には何が起きたのか分からなかった。だが、それは結果的にぬか喜びをせずに済んだので良かったと言える。

「ただ、私に話せることはないからね?藁谷真花さんを消した。それを認めるだけよ」

 手を上げたすぐ後に能島先生がそう言ったのだ。

 随分とあっさり降参するな、と思えばそういうことかと納得し落胆した。つまりは早めに認めることで情報を与えずに済むわけだ。それにこちらは相手にしている人数がわかっていない。真花ちゃんの言葉を信じれば少なくとも八人は居ることになるが、それだけの人数でとは到底思えない。となると、俺たちはこれ以上の追及を諦めざるを得ないわけだ。

 降参、その言葉が似合うのは能島先生より、むしろ俺たちのほうだった。

 ただ、一つ得られた情報もある。それについて訊いていいものなのかと思案していたら、美咲に先を越された。

「じゃあ、藁谷真花のことはいいわ、一旦諦めることにする。でも、杉村純也については答えてくれるんでしょう?」

 僅かに首をかしげた先生だったが、俺に視線を向けると頷いて、「それならね」と、了承してくれた。

「でも、私は彼と付き合っているとは言え、品里君よりも交流頻度は少ないはずなんだけど、そんな人間から聞きたい事なんてある?」

「確かに学生時代はほぼ毎日だったけど、お互い働き始めてからはせいぜい週二日か三日くらいだったよ。まぁ半年前から会ってないんだけどな」

「へぇ珍しい。喧嘩でもした?」

「やっぱりか」

 薄々分かってはいたが、思わず呆れ声が出る。俺は皮肉のつもりで言ったのだ。その返答が喧嘩とは白々しいにもほどがある。純也については真花ちゃんの事とは違って、「それならね」と断らなかった。ならばどうして、と考えるまでもない。つまりこうだと言えるからだ。

「能島先生は杉村純也が消えたことを知らないわけだ」

 俺のその言葉に狼狽え、「嘘でしょ?」と聞き返してきた先生に、首を横に振ることで答えた。

「ごめん、二人とも。詳しい話が聞きたいから移動しましょ?」

 どこかで聞いた事のある台詞だった。

「それでなんだけど、私の家とファミレスどっちがいい?」

 続きを聞いて俺と美咲は苦笑しながら息を合わせて、

「家で」

 と、即答した。

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